第44話 灰色の空を越えて
モンテ・カッシーノの戦いから、時は少し遡る。
1943(昭和18)年8月7日は、日本海軍航空隊にとって、第二次欧州戦争での初陣となった。
この日、英国本土の空軍基地を発進した第25航空戦隊台南航空隊所属の零戦(A6M2b)27機と三沢航空隊、鹿屋航空隊所属の一式陸攻(G4M1)54機が米空軍と共同して、ドイツ最大の港湾都市、ハンブルクを初空襲するのだ。
すでに前月から英米連合軍はハンブルクを大規模に空襲しており(ゴモラ作戦)、都市は大きな被害を受けていた。
精鋭ばかりを選りすぐった鹿屋空の3個中隊27機の一式陸攻は、すでにノーフォーク基地の離陸滑走路に並び、搭乗員は午前7時、指揮所前に全員が揃って、飛行隊長から、詳細な注意事項や打ち合わせ事項を聞いていた。
隊長の言も真剣なら、聞く部下たちの態度も真剣であった。
やや甲高い隊長の声が、ビンビンと響く。
それが終わると、「整列」の号令がかかり、指揮所の壇上に司令が立った。
「我々はこれより米軍と共同し、陸上攻撃隊はハンブルクを爆撃する。戦闘機隊の一部が制空隊として先行することになっている。ノーフォークからハンブルクまでの距離は約350浬。陸上攻撃機の航続距離は長いので往復は余裕であろうが、初めての欧州の空であるから、油断のないように……」
司令の訓示が終わった後、各中隊は各小隊に分かれて、これからの行動の打ち合わせや、搭乗員に対する注意などが行われた。
そして――いよいよ発進である。
滑走路の先には、アメリカ第8航空軍の銀色の巨体――B17フライングフォートレス(空の要塞)の編隊が待っていた。
その翼に描かれた鮮やかな星のマークが、朝の風に光る。
高村の横で、副操縦士の三浦一飛曹が英語で確認する。
「リンク・フォーメーション……アメリカ隊に続いて第三梯団で行きます」
「了解」
高村は離陸の前に今一度、計器を確かめた。轟音が霧を裂く。双発の発動機が低く唸り、震動が操縦桿に伝わる。
すぐに無線に米軍の声が入る。
「Formation Alpha, take off!」
先行するB17が、次々と離陸してゆく。続いて、一式陸攻が次々と発進を始める。
灰色の空に、B17の銀色の機体と一式陸攻の緑色の機体が交錯する。
整備員、地上勤務員、今日は出撃しない搭乗員たちが、滑走路の両側に並んで帽子を振っている。
三沢空と鹿屋空の54機の一式陸攻は、大きな円を描きながら飛行場上空で編隊を組み、先発した第一、第二梯団のB17編隊を追う。
日本軍と米軍の爆撃機が、同じ目標を目指して同じ空を飛ぶ――その瞬間を今まで誰が想像できただろうか。
北海上空からドイツ本土が見える頃から編隊を緊密にして、27機ずつ横広のガッチリした隊形になる。護衛の零戦隊もそれぞれ定められた位置についた。
爆撃進路に入る。高度は八千メートル、もちろん酸素マスクをつけている。目標は造船所である。
ハンブルク上空、午前9時。
雲を抜けると、下に広がるのは煙の街。
英空軍による夜間空襲で焼け残った瓦礫の上に、まだ火がくすぶっている。
編隊は爆撃のために定針している。突然、前方やや高いところに、一団の黒雲が出現した。
ドイツ軍の高射砲だ。レーダーによる統一照準の一斉射撃である。
数秒おいて今度はもっと近く、やや低いところで雲が出来た。第一中隊は直ちに全機編隊のまま緩降下に移った。高村ら第二中隊もすぐに従い、編隊は崩れない。
高射砲の射撃が止む。
「11時の方向、敵戦闘機っ!」
誰かが叫ぶ。
ダ、ダ、ダ、ダッ!
曳光弾が編隊の中を貫く。
パン、パン、パンッ!
一式陸攻の機銃が鳴り出した。
ドイツ空軍のメッサーシュミットBf109戦闘機が数機、高村機らの編隊に垂直ダイブで突っ込んできた。
鋭い翼が陽光を切り裂き、彼我の機銃の発射音が交錯する。メッサーシュミットは勇敢に、高村機ら第二中隊第三小隊の真ん中を突っ切り、そのまま急降下していった。高村機の横にいた三番機の左発動機が「バッ」と赤い火を噴いた。
それでも編隊は崩れない。
「投下っ!」
第二中隊の各機は中隊長機に続いて爆弾を投下した。
その直後、高村は操縦席から周囲を見渡す。
9機いたはずの中隊が6機しか見えない。
「三番機、落ちます」
部下の声に左下方を覗くと、火だるまになった一式陸攻が1機、急降下していくのが見えた。
「田中ぁ……」
高村は三番機の機長・田中飛曹長の顔を浮かべた。田中だけではない。7人の搭乗員たちの顔を思い浮かべる。そう、7人乗りの一式陸攻は、1機墜落するごとに7人が死ぬのだ。
しかし、感傷に浸っている暇はなかった。
「右発、出力落ちてます」
隣の三浦の声で、高村は我に返った。
右エンジンが被弾したのか、火を上げながらプロペラが止まりかけている。
「自動消火装置作動」
幸い、火は消えた。しかし、安心する間もなく、
「5時の方向、敵機っ!」
再びメッサーシュミットが3機、今度は後方からこちらを目がけて急降下してきた。
と、そこへ。
1機のB17が高村機の眼の前に現れた。
「We cover you!」
英語の呼びかけが聞こえる。
「助ける、ってさ……!」
三浦が半笑いで叫ぶ。
高村は唇を噛んだ。
「我々も、やるぞ!」
ド、ド、ド、ド、ドッ!
一式陸攻の後部銃座が唸り、20mm機銃が火を噴く。
1機のメッサーシュミットが炎上し、長く黒い煙を引きながら急降下していった。
だが、もう1機が後方から回り込み、B17の右翼を撃ち抜く。
B17の機体が被弾し、大きく傾いた。
「B17、被弾したっ!」
「行くぞ!」
高村は操縦桿を倒し、1基のエンジンから火を噴いているB-17の横に並んだ。
「危険ですっ! 離れましょう!」
「大丈夫さ!」
高村の一式陸攻は、B17に寄り添うように飛び、再び後方から襲ってきたメッサーシュミットに20mm機銃弾を浴びせる。
ド、ド、ド、ド、ドッ!
ダ、ダ、ダ、ダッ!
敵味方の機銃弾が交錯する。
被弾したエンジンが震え、計器が赤を示す。
後部機銃手の伊丹二飛曹が叫ぶ。
「弾、もう無いです!」
「いい……もう、撃たなくていいんだ」
高村は、メッサーシュミットが去っていったのを確認すると、灰色の空の向こうにまだ微かな光を見る。
高村はB17の操縦席の方に顔を向け、まるで独り言のように呟いた。
「帰るぞ、アメリカさんよぉ……ノーフォークまで一緒に帰るんだ」
B17の操縦士も頷くように機体を並べた。
いつの間にか編隊とも、はぐれてしまった。
傷だらけの2機が、互いに寄り添うように飛ぶ。
雲を抜けると、北海の風が冷たく吹いた。
両機は翼端が触れそうになるほど近い距離で飛ぶ。
火の粉を散らしながら、彼らはただ帰るために飛び続けた。
午後1時45分、北海上空。
高村は計器を見た。
油圧低下。
右主翼の穴から燃料が漏れ、火花が散る。
隣のB17も片翼が折れかけている。
「いやぁ、自動消火装置が搭載されていたから助かった……」
三浦の声が震える。
だが高村は、遠くにぼんやりとした海岸線を見た。
英国の島影。
「見えた……帰れるぞ!」
エンジンが最後の唸りを上げる。
黒煙を引きながら、二機は並んで飛ぶ。
海面に太陽の光が反射して眩しい。
その光の中を、2機は並んで飛んだ。
着陸後、二人の機長は救護所で出会った。
包帯だらけの顔を見合わせて、笑う。
「Good fight. You saved my crew.」
「No……we saved each other.」
握られた手の間に、国境はなかった。
血と油の匂いの中に、かすかな希望の香りがあった。
互いに言葉は違えど、同じ任務と恐怖を背負った者として、彼らは一つの空を共有していたのである――。
これまでテレビのドキュメンタリー番組を見ていた絹たちに、アナウンサーの張りのある声が響く。
「我が海軍航空隊はさる8月7日、米軍と共同し、ドイツのハンブルク市に対して大空襲を敢行いたしました。この映像は英国ノーフォーク基地より発進した爆撃隊のものであります」
テレビの画面には、空を飛ぶ戦爆連合の大編隊が映し出される。
カメラを持ち込んだ搭乗員が撮影したものだそうだ。
機影が炎をくぐり抜け、敵弾の中を飛ぶ姿が映し出されている。
曳光弾の光が点滅し、雲の間を貫く。
その映像にかぶせるように、ニュース映画調のナレーションが続いた。
「見よ、これが欧州の空に翻る日の丸の翼であります。海を隔てた英米の友軍と肩を並べ、自由と人道のために戦う我が航空隊――中でも、この高村大尉機は、被弾しながらも味方B17機の救出に成功。その帰還の瞬間には、味方将兵より拍手が巻き起こったとのことであります」
絹は何も言わずに、テレビの画面をじっと見つめていた。
隣には誠が座り、同じように画面を見つめている。
「では番組の最後に、続報をお伝えいたします」
アナウンサーの声がわずかに沈む。
「8月7日のハンブルク空襲に参加した高村大尉らは、十日後の8月17日、再びハンブルク空襲に出撃中、ドイツ空軍機の迎撃を受け、名誉の戦死を遂げられました――」
スタジオの照明が眩しく、画面の中のアナウンサーは表情を変えない。
だが、その声の後ろで、ブーンという音がしばらく続き、映像が切り替わるまでの数秒が異様に長く感じられた。
絹は、息をするのを忘れていた。
冷たいものが喉の奥を滑り落ちてゆく。
目の前で誠が顔を上げる。
「……お母さん、高村さん、死んじゃったの?」
絹はすぐに答えられなかった。
テレビの画面には、彼らの飛んだ北海の空の映像が流れている。
灰色の波間に夕陽が沈み、静かなナレーションが締めくくった。
「我々は遠く欧州の空に人道と民本主義のために散りゆく勇士の崇高なる姿を目の当たりにし、吾が将兵の勇猛類なき攻撃精神に襟を正し、頭を垂れるものであります」
画面が暗転し、部屋に静寂が戻る。
風の音さえ聞こえた。
絹はそっと目を閉じた。
戦争とは、英雄を作ることでしか、その痛みを隠せないのだ――。
だが、それを知りながらも、いまの自分にはただ祈るしかない。
この空を、次に飛ぶ者たちが、せめて生きて帰れますようにと。
テレビの光が消えた後も、絹の耳の奥では、映像のプロペラの唸りが、なお鳴り続けていた。
「面白かった!」「続きが気になる、読みたい!」「今後どうなるの……?」と思ったら、下にある☆☆☆☆☆欄から、作品への応援をお願いいたします。面白かったら☆5つ、つまらなかったら☆1つ、正直に感じた気持ちで大丈夫です!
ブックマークもいただけると本当に嬉しいです。
何卒よろしくお願いいたします。




