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絹の国  作者: 喜多里夫
第六章 戦時下の活動

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第43話 モンテ・カッシーノの血と祈り

 1943(昭和18)年6月1日朝。


 欧州へ向かう艦隊が広島湾を出撃した。

 軽巡「阿武隈」に率いられる第1水雷戦隊の駆逐艦10隻が、一本棒になって先頭に立ち、そのあとに第8戦隊の「利根」「筑摩」、第3戦隊の戦艦「比叡」「霧島」「榛名」「金剛」がつづき、「金剛」のうしろに、第2航空戦隊の中型空母「飛龍」「蒼龍」が、この順序で走っていた。

 豊後水道を抜けると、艦隊は、航空母艦2杯を中心にした輪形陣に隊形を改めた。

 

 一方、海軍の第1連合特別陸戦隊および第25航空戦隊の地上要員、陸軍の一木支隊合わせて約5,000名を乗せた輸送船12隻は、第8艦隊の巡洋艦と駆逐艦に守られて横須賀港を出た。


 途中、艦隊と輸送船団は、英領のシンガポール、コロンボに寄港し、ちょうど1ヶ月を経てエジプトのアレクサンドリア港へ到着した。


 すでに5月13日に、チュニジアのドイツ軍は降伏しており、地中海南岸のアフリカ大陸は連合軍が支配するところとなっていた。


 しかし、東部戦線でドイツ軍と戦うソ連軍を支援し、欧州を解放するためにも、連合軍は早期の欧州への上陸作戦を行う必要があった。主力はイギリス軍。練度の低いアメリカ軍が助攻、新たに戦闘に参加する日本軍は後方支援とされた。


 7月10日、連合軍はシチリア島上陸作戦(ハスキー作戦)を開始した。

 連合軍がシチリア全島を制圧し、さらにイタリア本土に迫ると、イタリア国民の間にはムッソリーニのファシスタ党政権に対する反発と厭戦感情が広がり、政変が起こった。

 7月25日、ムッソリーニは逮捕され、イタリアは連合国に降伏した。


 しかし、ドイツ軍は即座にイタリア全土に進駐、かくしてイタリア本土に上陸した連合軍との間に戦闘が展開することになった。




 イタリア半島南端に上陸した連合軍は、北上して首都ローマを目指した。

 その経路、イタリア半島中部、モンテ・カッシーノで8月20日、日本軍は初めてドイツ軍との本格的な戦闘を経験する。

 ドイツ軍が築いた鉄と石の陣地は、聖ベネディクトの修道院を頂に抱いていた。


「あの丘を取ってくれ」


 連合軍司令部は、戦力が枯渇してきたことを受けて、とうとう一木支隊を前線に投入したいと言ってきた。


 そこは、英軍、米軍が攻めあぐねた峻険の丘。英軍が四回、米軍が三回攻撃したが、そのことごとくが撃退されてきた。守るドイツ軍は約3000名。しかし、この時、一木が率いていたのは900名ほどの先遣隊だけだった。


 「日本人ならば、出来る」


と、連合軍司令官はおだてるように言った。


 その時、一木(いちき)清直(きよなお)大佐は静かに頷いただけだったという。まるで、


 ――できるか否かではない。やるしかないのだ。


とでも、言うかのように。


 一木は、日本軍のお家芸である夜襲をすることにした。古来、夜襲は小部隊が大部隊に対して行う戦法であり、その時の状況ではこの方法しかなかっただろう。

 その夜、しずしずと丘に向かって進むのは一木支隊先遣隊900名。


 20日午後10時30分、一木支隊先遣隊はドイツ軍陣地に対して攻撃を開始した。第一波の100名が丘の麓にあるドイツ軍陣地に突撃した。


 ヒューッ、ドンッ、パチパチッ!


 ドイツ軍の照明弾が夜空を突き上げ、丘の影を白く照らす。火花が散るたび、兵士たちの影が地面に踊った。


 ドカァァァァン! ダダダダッ!


 爆風と弾丸が交錯し、丘の影が激しく揺れる。

 ドイツ軍の榴弾砲と機銃の猛射に遭い、第一波の部隊はたちまち前進不能に陥った。

 それでも、ドイツ軍陣地にたどり着いた兵もわずかにおり、白兵戦を挑むなどして機銃陣地を確保したものもあった。日本軍の機銃射撃と小銃射撃によって戦死したドイツ軍機銃手もいた。

 だが、ドイツ軍前線を突破した日本兵も、その直ぐ後ろに待機していた中隊の攻撃に遭い、機銃陣地を確保し続けることは出来なかった。一木支隊の最初の攻撃は100名余りの損害を出し、開始から1時間足らずで一旦停止することを余儀なくされた。


 午後11時30分、日本側の第二波として、200名ほどの日本兵が再攻撃を掛けたが、またもやドイツ軍の火力の前に撃退された。


 そこで一木支隊先遣隊は部隊を再編成し、迫撃砲による砲撃を開始した。

 これに対し、ドイツ軍も迫撃砲で応戦した。

 21日午前2時頃、日本は3度目の攻撃を仕掛けた。


 「止まるなっ! 前へっ!」


 一木の声が響く。


 その声に叱咤されるように、銃を握りしめた兵士たちが、斜面を這うようにして突撃する。


 迫撃砲弾が炸裂する。

 血と土が飛び、仲間の名を呼ぶ声が風に千切れる。

 午前2時30分、一木支隊は再びドイツ軍第一線陣地を奪取。


 だが、ドイツ軍の反撃は執拗だった。

 修道院を砲台に変えたドイツ軍の榴弾砲が山を揺らし、味方の兵士が次々と吹き飛ばされる。

 それでも日本軍は前進を諦めない。


 午前3時頃、丘の半ばにて一木連隊長は胸を撃たれた。


 「くっ……下がるな……前進せよっ!」


 その言葉を最後に、彼の体は静かに崩れ落ちた。


 午前4時、とうとうドイツ軍は諦めて丘から撤退を始めた。

 夜明け前、丘の上に日の丸がはためいた。

 勝利はした。だが、兵の大部分が倒れ、生き残った者は百名に満たなかった。

 戦場に昇る朝日が、瓦礫を紅く染めた。

 聖歌の代わりに、風に乗って日本兵の歌声が微かに響く。


「♪ 海行かば……」


 それは勝利の歌ではなく、死者への鎮魂の歌だった。




 このニュースは日本ではその日の夕刻、テレビやラジオのニュースで伝えられた。


「……イタリア中部、モンテ・カッシーノのドイツ軍陣地は、連合軍の総攻撃によってついに陥落しました。本作戦には、我が軍の一木支隊が英米連合軍とともに参加し、ドイツ軍の拠点を一夜で制圧するという快挙を成し遂げました。しかし……」




 やがてテレビの画面は暗転し、ニュースの終わりを告げる電子音が鳴る。

 絹は自宅の居間でこのテレビニュースを見ていた。絹の耳の奥には、アナウンサーの声が、まだ残っている。


 ――連隊長の一木清直大佐以下、戦死者が多数出た模様です。


 この言葉が、絹の胸を静かにえぐっていた。


「……たくさんの若者が死んだのね」


 彼女の声は、自分でも驚くほど小さかった。


「命令を出したのは……私たち……」


 絹は顔を上げ、テレビの消えた画面に映る自分の影を見つめた。

 その瞳には、光よりも深い闇があった。


「……私たちは、言葉で戦うと決めた。なのに、彼らは血で、証明してしまったのね。『自由』という言葉の重さを」


 横で志村は、しばらく黙っていた。


「医療団を出そう」


 志村が絹を心配するように、ようやく言葉を絞り出した。


「赤十字と協議して、できるだけ早く。現地の負傷者救援だ。君の名義で声明を出せば、きっと民間からの志願者も集まるよ」


 絹はゆっくりと頷いた。

 涙はもう乾いていたが、胸の奥に熱いものが残っている。


 机の上の地図を見つめる。

 イタリア半島――その名も知らぬ小さな村の丘に、日本の若者たちの血が染みこんでいる。


 「勝って、どうなるというの……」


 呟いた声は、自分のものとは思えなかった。


「……そうね。血で終わらせたくない。せめて、歌と包帯で、戦場を覆いたいの」


 窓の外では、冬の月が淡く光っていた。

 その光の下、川戸絹は静かに決意を固めた。

 命を奪う国ではなく、命を護る国であるために。


 イタリアの風が、遠く東京の空にも吹き抜けるように感じられた。

 それは、戦場で散った者たちの息遣いだった。




 一週間後、午後の太陽の光が、羽田飛行場の滑走路を淡く染めている。

 絹は、資料と声明文の入った鞄を抱えていた。周囲には医師、看護婦、看護学生など、ボランティアの人たちが集まる。赤十字の徽章が胸に光っている。


「皆さん、本当にありがとうございます」


 絹の声は震えたが、毅然としていた。


「モンテ・カッシーノで多くの若者たちが命を落としました。私たちは、奪われようとしている命を、少しでも救うために動きます。現地での任務は容易ではありません。けれど、命を護ることに、躊躇してはいけません」


 絹は目を閉じる。思い浮かぶのは、かつて櫻井謙次の名を刻んだ木片が入っただけの白木の箱だ。あの時、戦争はまだ遠く、自分は言葉だけで戦うと信じていた。しかし今、目の前には血に塗れた現実がある。


 赤十字のマークが胴体と翼に描かれた輸送機の前には若い看護婦が立っていた。


「私……初めての戦地です。でも、患者さんを助けたいんです」


 絹は微笑んで頷いた。


「その気持ちが大切です。恐れはあります。でも、命を守る力は、恐れを越えた先にあります」


 医師の一人は、手元の写真を見つめていた。妻と幼い娘の写真だ。


「しばらく家族に会えなくなりますが……でも、ここで誰かの命を救うためなら……」


絹はその手を軽く握った。


「あなたの思いは、ここに来た全員の力になります」


 若い看護学生は、かすかに震える声でつぶやいた。


「私……戦場に行くのは怖いです。でも、行かないと、死ぬ人が増えると思うと……」


 絹は深く息をつき、彼女の目を見つめた。


「怖いのは当然です。恐れを感じながらも一歩を踏み出すことこそが、人を救う力になるのですよ」


 3機の輸送機が滑走路の端に待機している。絹は鞄を机に置き、深呼吸をひとつ。


「どうか、無事でありますように……」


 一歩一歩、医療団の隊員たちが機内へ歩を進める。絹はその背中を見つめながら、胸の奥で静かに呟いた。


――戦う国ではなく、護る国であるために。


――若者たちの命を、無駄にしてはいけない。


 滑走路の風が頬を撫でる。その風に、遠い欧州で戦死した日本軍将兵の声が、東京の街のざわめきと重なった。

 絹は手を合わせ、目に浮かぶ涙を飲み込む。


「戦争を終わらせるための戦争――私たちは、この戦争を必ずそういう形で終わらせる」


 機体のエンジンが唸りを上げ、隊員たちの顔に決意が浮かぶ。

 絹はそれを見つめながら、静かに祈る。

 モンテ・カッシーノの丘に、そしてそこに眠る若者たちに捧げる祈りだった。


 滑走路を離れ、空に吸い込まれる機体。晩夏の陽光が赤十字の徽章を輝かせ、希望の光が戦場へ向かう。

 絹の瞳に決意が光る。

 医療団の一歩一歩は、鉄血ではなく、医療で証明する戦いの始まりだった。

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