第42話 戦火の選択
1942(昭和17)年秋。
重苦しい午後の光が首相官邸の長机を薄く横切っていた。紙の束と地図が散らされた机の上には、緊張感が漂っている。
幣原喜重郎外相は、眉間に皺を寄せたまま一枚の公文書を置いた。室内のざわめきが消え、閣僚たちの視線が一斉に幣原に向いた。
「幣原君、では聞こう」
と、岡田首相が低く促す。白い髯の下で瞳が冷たく光った。
「閣下、諸君。先刻ロンドン郊外での協議を終え、帰朝の途につきました。合意として得られたのは、連合国側の一貫した方針――ドイツ及びその衛星国の打倒、そして戦後の秩序を再構築するという点です。その上で、我が国に対する正式な要請がありました」
幣原の声は、いつものように穏やかだが、今日は言葉に重さがある。
部屋に小さなざわめきが広がる。米内海相が紙の縁を指でなぞり、宇垣陸相は腕組みを深めた。
「要請の中身は?」
と、賀屋蔵相が訊いた。
幣原はゆっくりと目を上げた。
「第一の要請は、限定的かつ即時性のある軍事協力です。具体的には、連合軍が来年夏に予定しているシチリア島上陸作戦において、我が国の軍事力の一部を提供してほしい、というものです。英米側は地中海の制空・制海権と補給線確保が作戦成功の鍵と見ており、我が国の艦隊航空戦力が価値を持つと評価しています」
「シチリアだと?……遠すぎないか? 輸送も基地もどうするつもりだ?」
宇垣陸相の声は厳しい。軍事的に可能な現実への疑問が全員の胸にあった。
幣原は資料を広げ、地図を指で辿った。
「英国が支配する東南アジアからインド、エジプトへ至る基地を暫定的に使用させてもらう経路が確保されれば、航空機の段階的展開は可能でしょう。海上戦力については、主に船団護衛と対潜任務に限定する提案が出ています。要するに、我が国は地中海での主要上陸部隊を直接上陸させるというよりは、航空支援、護衛、情報支援という形で貢献することが期待されています」
「条件は?」
米内海相がすぐに核心を突いた。
「見返りは何だ?」
幣原は目を細めた。
「英米仏は明確に、戦後処理における我が国の『地位』についての保証を提示しました。具体的には、戦後国際秩序の枠組みにおける我が国の発言権の保障、経済復興に向けた協力、そして我が国が世界経済再建の一翼を担う役割の考慮——ただし、これは簡潔に言えば、『連合国の一員として戦後の協議に参加せよ』ということです。換言すれば、我が国を戦果と引き換えに国際的な秩序の中へ取り込みたいという申し入れです」
室内に緊張の色が濃くなった。岡田は呻くように言った。
「外交上の判断は難しい。だが、幣原君、その申し入れは日本にとって魅力的だ。戦後の地位を保障されれば、経済と軍事の両面で得るものは大きい。しかも今、このまま中立という名の孤立したままの状態で国際情勢が進めば、我が国として不利になる危険性まである」
「しかし私たちが『連合国側』として武力を行使する――このことを、国民にどう説明するのですか?」
絹は静かに問うた。彼女の声には、厚生大臣としての市民への責任が滲んでいる。
「それは最大の問題です」
幣原は頷いた。
「英米仏も認めています。ゆえに彼らは最初から限定的貢献を求め、国内向けに『非侵略的支援』『海上補給線の保護』『人道的連携』といった言葉を使うよう提案しています。さらに、参戦の有無は国会に諮るべきだと繰り返し述べました。彼らは我が国の国内正統性を尊重する姿勢を示しています」
宇垣が椅子から立ち上がる。
「我が軍を投入するとなると、太平洋の防衛はどうなる? こちらが手薄になれば、どこから敵意が生まれるか分からんぞ」
米内は短く笑った。
「海軍としての見込みを言えば、我が艦隊航空による制空・対艦の支援は、地中海の局地戦で役に立つでしょう。しかし、航空機を遠洋に展開させるには、燃料、整備、人的補充、現地の補給基地が必須です。英側の基地提供が本当ならやる価値はありますが、リスクは少なくありません」
賀屋が書類に目を落とし、小声で計算する。
「経済的な見返りは魅力的です。戦後の貿易回復、資源の確保、国際金融システムの再構築――これらは国の長期的安定に寄与する。しかし――」
賀屋はそこで一旦、言葉を区切ってから続けた。
「国民感情がどう動くか――そこがキモです。戦争を嫌う民意は強い。我々は説明責任を怠れません。『何のために戦うのか』を国民に分かりやすく提示できますか?」
絹は眼を伏せ、ゆっくりと言った。
「私たちが国民に示すべきは、戦闘参加そのものを『名誉』にするのではなく、戦後の子供たちの暮らしと、自由を守るための行動だと。もし参戦を決めるなら、我々は医療支援、救護、難民支援など人道的側面を前面に出すべきです。市民が納得する言葉が必要です」
幣原はテーブルの上の電報を指さした。
「英米仏は強調しました。これは妥協ではありません。彼らは大戦の結果を左右し得る協力者を求めています。日本には産業力と技術力がある。だが、同時に我が国はアジアに対する関心を強く持っている。交渉は続きますが、今、我々に求められているのは──参戦か否かを即答することではない。参加の『条件』を詰めることであります。まずは閣議で、政府として交渉方針を承認していただきたい。国会での議論を経て、国民への説明責任を果たす──その順序であるべきです」
室内は静まり返った。窓外を行き交う車の音が、いつになく遠く感じられる。
「幣原君、君の示す条件案を文書にまとめてくれ。幣原案に基づき政府として英米仏に正式回答する。だが我々は慎重に動く。閣議決定の後、国会に諮る。国民にわかりやすく、我が国の利益と国民生活を第一に据えた理由を示すべきだ」
岡田は静かに言った。
絹は静かに立ち上がり、窓の外の銀杏並木を見た。風が葉を揺らし、冬の冷たい光が路面に斑を落とす。胸の中に冷たい決意が膨らんでいくのを、彼女は感じた。
「私も賛成します」
と絹は言った。
「ただし、我々が関わる以上、人の命を預かる立場として、医療と救護、民間人避難の枠組みを取り付けてください。それが国民への約束になります」
閣議はやがて合意の方向へ動き始めた。幣原は深く礼をし、書きかけの文書を手に取った。外務省がこれから担う交渉の重さを、誰よりも幣原自身が知っていた。だが机上には、既に英米仏からの電報に添えられた約束――戦後の国際会議への我が国の正式参加という文言が確認できた。
扉の向こう、街はいつも通りに動いている。しかし今日の決定が、明日の街の形を変えるかもしれない。その予感が、官邸の室内に静かに立ちこめていた。
――シチリアへの小さな一歩が、極東の我が国を国際舞台へと引き戻す道となるのか。それとも、思わぬ代償を伴うのか。誰にもまだ分からなかった。
この年の12月、早朝の厚生省大臣室。川戸絹は開け放たれた窓から差し込む冬の光を浴びながら、手元の新聞に目を落としていた。
「東京タイムス」一面、見出しは大きくこう掲げられていた。
「戦火の深淵を見よ――我々は何を失うのか」
署名は「河合奈緒美」。絹はページを繰りながら、記事の一節を声に出した。
「……戦争は国家を破壊するだけでなく、心の自由も奪う。私たちは今、選択を迫られている。対独戦争か、中立か」
奈緒美の言葉は強く、しかし冷静だった。
絹は深く息をつく。
「日本は中立……で生きていけるのか?」
絹はページの端に書かれた文章に目を細めた。
「――私たちは、戦火の中で失うものがあまりにも多い。未来の世代に負の遺産を残すなと、声をあげねばならない」
新聞を閉じると、絹は書斎の窓から遠く東京の街並みを見つめた。官庁街の向こう、煙を上げる工場や騒がしい市場のざわめきが冬の朝に溶けていく。
胸に去来するのは、揺れる自身の覚悟だった。
この日、皇居では御前会議が開かれようとしていた。部屋には、重く冷たい空気が漂っている。外の松は陽光を浴びて輝いて見えるというのに、この場に座す者たちの表情は硬い。長机を囲むのは岡田首相、幣原外相、米内海相、宇垣陸相、賀屋蔵相と海軍軍令部長、陸軍参謀総長。そして会議室の奥には昭和天皇が着席していた。
議題はただ一つ──「独伊への宣戦と欧州派兵」。
それは、数年来の国際情勢の帰結であり、同時に取り返しのつかない扉を開くことを意味していた。
まず、岡田首相が口火を切った。
「既に周知の通り、欧州戦線においては来年7月に連合軍がシチリア島上陸作戦を計画しております。我が国は英米両国との協調の下、極東における安全を確保してきましたが、今や連合国側としての真価を問われております。独伊に対して明確なる敵対の意思を示し、共同戦線に加わること──これが本日の議題であります」
続いて幣原外相が静かに眼鏡を押し上げる。
「外務当局の見解を申し述べます。英国首相チャーチル、米国大統領ルーズベルト両氏より、重ねて正式の要請がありました。つきましては、戦後の国際秩序構築において、日本の発言力を担保するためには、この機会に参戦するのが得策と考えます。無論、国民感情や戦費の負担という課題はありますが、独伊の戦力は既に減衰しつつあり、勝利の見込みは薄いとの情報もあります」
幣原の声はいつもながら柔らかいが、言葉の底には冷徹な計算が潜んでいた。
米内海相が頷き、補足する。
「海軍としては、欧州派遣は可能と判断しております。機動部隊および潜水艦隊の一部、並びに基地航空部隊を分派し、地中海における制海権確保に寄与できます。独伊の海軍は既に地中海において劣勢にあり、我が艦隊の参加は連合軍の補給線をより安定させることでしょう」
その一方、宇垣陸相は眉間に皺を寄せたまま、言葉を選ぶようにして発言した。
「陸軍の観点から申せば、欧州派遣は大きな負担です。兵員、弾薬、戦車、航空機、いずれも膨大な輸送を要し、しかも先次大戦と同じく、異国の地で長期戦を強いられる可能性が高い。参戦は覚悟をもってすべきです」
賀屋蔵相は冷徹な表情で言った。
「しかし、戦後経済を考えれば、我が国が勝者の側に立つことは必要不可欠です。国際貿易のルールを我が国に有利に引き寄せるためにも、今、この時に連合国側として参戦する価値はあります」
次いで参謀総長が作戦計画の概要を説明し、軍令部長が輸送経路と海上護衛の安全性を保証する。
やがて、岡田首相が襟を正すような姿勢で言上した。
「この決断は、我が国の将来を左右する大事であります。陛下──」
天皇はしばし沈黙し、やがて低く、しかし明確な声で仰せられた。
「朕は、我が国の自由と平和を守るため、連合国と共に行動すべきと信ずる」
静寂が落ちた。議場の全員が深く頭を垂れる。
この時のやり取りを、御前会議に出席できなかった絹は後で岡田首相から知らされた。
──国益の名のもとに、また人を死なせるのか?
胸の奥で、小さな声がささやく。
絹は厚生省の大臣室の椅子に深く身を沈めた。窓の外は冬の曇天、白く濁った光が机の上の書類をぼんやりと照らしている。
日本は、連合国側として参戦する。
閣僚の一人として、その重みが、今になって鉛のように胸に沈んできた。
「国益のために……」
自分の口が勝手に呟いた言葉が、すぐに耳の奥で反響する。
国益のために――その陰でおそらく何千、何万という兵士たちが、異国の土に散るのだ。
厚生省の仕事は直接、軍の作戦とは関係がない。だが、兵士の医療、戦傷病者の援護、遺族への補償。厚生省の仕事は戦争と切っても切れない。今の自分は間違いなく、この戦争機械の歯車の一つだ。
机の上の紙束に、閣議で掲げられたスローガンが見える。
――戦争を終わらせるための戦争。
耳障りのいい響きだ。だが、その美辞麗句が現実の血と泥の中でどれほど空しく響くか、絹は痛いほど知っていた。
ふと、櫻井謙次の顔が脳裏に浮かぶ。
彼は笑って「すぐ帰ってくる」と言ったが、結局、帰ってきたのは名前の刻まれた木箱だけだった。
あの時と同じように、今もまた、多くの名前が木箱に詰められて帰ってくるのだろうか。
絹は机に突っ伏すように両手を重ね、その上に額を置いた。
声は出なかったが、熱いものが頬を伝い、静かに机を濡らしていく。
窓の外、雲間からわずかに日差しがのぞく。だがその光は、凍りついた心を温めるにはあまりに弱かった。
「私は……」
その時、執務室のドアがノックされた。
「失礼します、衛生局からの報告書です」
声の主は秘書官の若い女性。絹は慌てて顔を拭くと、
「入りなさい」
と言った。
秘書官から報告書を受け取る。
ふと、胸の奥にくすぶる葛藤を感じながらも、絹は自らに言い聞かせた。
「戦うべき時には戦う。だが、声なき者の声にも耳を傾けねば……」
絹の指先が、机の上のペンに触れた。
――これが私たちの選んだ道。
絹は心の中で呟いた。
そして、これから始まる苦難の時代を、覚悟をもって迎える決意をしたのだった。
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