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絹の国  作者: 喜多里夫
第六章 戦時下の活動

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第41話 歌声で目覚めた国

 10日朝、帝都には、まだ硝煙の匂いが残っていた。


 この日は与党民政党はもちろん、野党政友会、社会大衆党の呼びかけで、実に30万人以上の市民デモ隊が、いまだ叛乱軍が立てこもる国会議事堂を包囲しようとしていた。絹も民政党議員団と共に、このデモ隊の中にいる。


 一昨日と同様、日比谷公園を出発したデモ隊が霞が関を通る時は、ビルの上からデモ隊に向けて拍手が起こり、紙吹雪が舞い、声が掛かった。


「川戸先生っ! 民政を取り戻してくれぇ!」


 デモ隊の列は永田町の手前で止まった。

 前方には、叛乱軍が占拠する国会議事堂。銃剣が陽をはね返し、構内には軽機関銃が据えられている。

 占拠しているのは一個大隊、約千人。

 議事堂の窓からは黒煙が薄く立ちのぼっていた。


 デモ隊の市民たちを守るように、最前列では横須賀海軍陸戦隊の水兵たちがセーラーの制服を着て隊列を組んでいた。

 陸戦隊の指揮官が拡声器を使って叫ぶ。


「もはや勅命も下されているっ! もし発砲すれば、貴官らはただちに内乱罪に問われるぞっ!」


 その時、絹が市民たちの中から前に進み出て拡声器を使って叫んだ。


「お願いですっ! この国を……私たちの国を、戦場にしないでっ!」


 彼女の声は、はっきりと響いた。

 叛乱軍は、一瞬、たじろぐように沈黙した。

 そして、叛乱軍の若い将校が、そっと帽子を脱いだ。


「……私たちが守るべきは、国民だ……」


 この若い将校も、軍から派遣されて東京帝大法学部の聴講生になっていたのだった。


 国会議事堂前は、黒山の人波で埋め尽くされていた。旗や横断幕が風に鳴り、紙に刷られた「打倒軍閥!」「民政ヲ護レ!」の文字が、寒気の中でもなお熱を帯びて揺れている。


 市民たちの中から、自然発生的に『われら愛す』の歌声が沸き起こる。


 議事堂の敷地内にいる叛乱軍の隊列に向かって、絹はなおも呼びかける。


 「あなたたちは国軍の兵士です! 民を守るための軍です! みんなの国を取り戻しましょう! 暴力ではなく、勇気で!」


「陸戦隊、前へっ!」


 絹の声に続くように、海軍陸戦隊の兵士たちは議事堂へ向かって整然と行進を始める。

 その後ろに、絹ら市民たちの長い列が続く。

 叛乱軍の兵士たちは沈黙したまま、銃を構えようとすらしない。

 歌声と足音が重なり、議事堂の前庭を満たしていった。


 と、突然。

 叛乱軍の将校が現れた。

 彼は拳銃を構えたが、その手は震えていた。


 「これ以上、近づくな……撃つぞっ!」


 絹は立ち止まり、静かに言った。


 「あなたの父母兄弟も、この国に生きているのではありませんか?」


 その瞬間、この将校は自身の頭に拳銃を押し付け、引き金を引いた。

 パンッ、と乾いた音を立て、彼の体はその場に崩れ落ちた。

 指揮官の自決を目の当たりに見た叛乱軍の兵士たちは、一斉に手を上げて投降した。


 広場に歓声が起こる。


 上空には、テレビ局の飛行船が旋回していた。

 全国にこの映像が流れ、アナウンサーの声が重なる。


「ただいま、海軍陸戦隊および市民デモ隊が、国会議事堂を解放しました。叛乱軍は抵抗をやめ、投降しております。我が国は、再び民政を取り戻そうとしております!」


 その瞬間、川戸絹の頬を涙が伝った。

 それは恐怖でも悲しみでもなく、希望の涙であった。




 『われら愛す』の歌声は、ここ三宅坂にある陸軍参謀本部の窓硝子も震わせていた。


「やめろ、あの歌をやめさせろ!」


 参謀本部の会議室。くすんだ天井灯の下で、革靴の音と怒鳴り声が交錯する。机の上には地図と拳銃、そして半ば冷めた珈琲。

 そこには作戦部長の田中新一中将と同じく作戦課長の服部卓四郎大佐が顔を合わせていた。二人とも叛乱軍シンパにして親独派、根っからの軍人だ。


「話が違うじゃないか!」


 バンッと、田中が机を叩く音がした。


「市民の抗議デモ隊が帝都だけで何十万も集まるなんて想定外だ! しかも、軍と市民たちの衝突のありさまは、逐一テレビ中継されておる。我々は完全に悪者扱いではないかっ!」


「そんなもの、発砲して追い散らせばよいではありませんか」


と、服部が悪びれずに言った。それには、さすがの田中もギロリと目を剥いて、


「貴公、これだけの人数を全員殺せと言うのか? そんあんことをしたら、陸軍はもう終わりだ」


と言って、拳を握りしめた。なおも服部が、


「しかし、このままでは我々の要求が……」


と、言いかけたところ。


 バンッ!


 荒々しくドアを開けて、作戦課兵站班長の辻政信中佐が入ってきた。


「ダメです。議事堂にいた部隊も投降しましたっ!」


「なんだとっ?」


「兵士たちが、こちらの言うことをきかないのです」


 会議室の空気が凍った。


「なに……それでは革命ではないか?」


「我々は革命を起こす側ではなかったのか?」


 笑いとも怒号ともつかぬ声が重なり、次第に互いの視線が鋭さを増していく。誰かが机を叩く音が響き、灰皿の煙草が揺れた。


 外の歌声は途切れない。


 歌は寒空に溶け、まるで雪解け水のように兵士たちの胸を流れていく。


 その時、参謀本部の門前。二十歳そこそこの松原二等兵は、銃を握ったまま歌声に耳を奪われていた。


 ――やめろ……こんな時に……。


 彼はさっきまで、ただ命令に従って動いていた。上官の命令は絶対であり、銃は手足の延長だった。しかし今、その銃が急に重くなり、掌に冷たい汗がにじむ。


 ――俺の妹も、向こうで歌ってんじゃねえか……?


 彼は下町の豆腐屋の出で、妹は高等女学校へ通っている。小学校の頃、担任の先生からは「自分の意見をしっかり持ちなさい」と言われて育った。


「構え!」


 背後から小隊長の号令が飛ぶ。


「狙え!」


「……撃てませんっ!」


 兵士の誰かが叫んだその一言が、冬の空気を切り裂いた。


 会議室にもそれは伝わった。若い少尉が駆け込んできて報告する。


「兵士たちが……デモ隊への発砲命令を拒否しております!」


 椅子が倒れ、地図が床に滑り落ちる。


「抗命だ!?」


「奴らの頭を冷やさせろ! 重営倉ものだ!」


「無理です、すでに小隊単位で……デモ達の隊列に加わっております!」


 外からは、より大きな歌声が響いてくる。もはや群衆と兵士の区別がつかない。


 その瞬間、全員がはたと気づいた。


 「……ゾルゲ博士はどこだ?」


 顔を見合わせた一同の沈黙を破るように、廊下を風が通り抜けた。




 その頃、横浜港。ゾルゲは黒い外套の襟を立て、小さな貨客船のタラップをゆっくりと上っていた。冬の海は鉛色に光り、港のクレーンが鈍く動く。

 彼は誰にも見られぬよう、港湾労働者に混じって船腹へ消える。


 「馬鹿な日本人どもめ……まあ、せいぜい同士討ちしていりゃいいさ」


 低い声が海風にかき消される。


「イデオロギーに拘る者は、イデオロギーに死す、だ」


 汽笛が鳴り、煙突から黒い煙が立ちのぼった。遠ざかる陸地の向こう、東京の空に、まだ歌声が吸い込まれていくのが見えた。




 10日夕刻。

 市民たちのデモ隊と海軍の特別陸戦隊、そして叛乱軍鎮圧に動いた近衛師団の歩兵連隊が三宅坂の陸軍省と参謀本部を包囲していた。


 市民たちは口々に、


「陸軍よ、正気を取り戻せ!」


「この国は、お前たちに渡さないぞ!」


と叫び、「打倒軍閥!」の旗を振って気勢を上げる。


 と、そこに東部軍司令官兼憲兵司令官の田中(たなか)静壱(しずいち)中将が、わずかな部下を連れて馬に乗って現れた。

 彼は下馬して、民衆の前に立った。


 「私は、陸軍を代表する者ではない。ただの一介の軍人だ。だが、本日、我々は罪を犯した。だからこそ、ここで、国民の前に頭を下げる」


 そう言うと田中は、軍帽をとって深々と頭を下げた。


 市民の間に静けさが戻る。

 誰かがまた、『われら愛す』を口ずさみ始めた。

 その歌は、夜の闇に灯る焚火のように広がっていった。


 そして、ついに。

 参謀本部内に突入した鎮圧部隊が叛乱軍将校を拘束。

 田中、服部、辻らは憲兵隊に逮捕され、帝都を震撼させた叛乱劇は終結した。


 民衆は忘れなかった。

 銃に抗したのは、暴力ではなく、歌声だったことを。


 夜の帳が降りた帝都の各家庭や路上、駅の広場、そして工場の休憩所。

 どこからともなく流れてくるテレビの映像、ラジオの声に、人々は足を止め、耳を傾けた。

 その夜、絹はテレビの生放送でこう語った。絹の落ち着いた姿と声が流れた。


「銃を下ろさせたのは、怒号でも命令でもありません。それは、一つの歌声でした。私たちは今日、証明しました。自由とデモクラシーは、国民の手で守れるのだということを。暴力や憎しみの連鎖は、私たちの未来を奪うだけです。困難な時こそ、私たちは共に手を携え、平和を守らねばなりません。この国にはまだ、希望の光があります。どうか、その光を信じてください。私たちは一人ではありません。共に歩みましょう」


 街角の老人は目を細めて頷き、若い女性は涙を拭いながら周囲の人々と手を取り合う。

 ある男性はラジオのスイッチを切り、静かに言った。


「やっと国に光が戻ってきた」


 この放送を契機に、市民の間には「暴力に抗して議会主義を守れ」という機運が広がり、緊迫した状況の中で小さな光明となった。

 呼びかけは、疲弊した民衆の心を優しく包み込み、希望と団結のきっかけとなった。


 翌日、日本中の小学校では、自然と『われら愛す』が合唱されたという。


 この冬の叛乱は、国家の分岐点だった。

 そして、その中心には、「民の声」があったのだ。




 数日後、貴族院議長・近衛文麿の自宅に夜遅く、警官隊が到着した。

 家族や側近はただ事ならぬ気配に緊張を募らせる。

 警官隊の声が玄関に響く。


「近衛文麿閣下、逮捕令状を携えて参りました」


 しかし、応答はなかった。

 近衛は静かな書斎で、窓から外の様子をうかがっていた。

 その表情には深い絶望と諦念が隠されていた。


「私の歩んだ道は、果たしてどこで間違ったのだろうか……」


 幾度も自問自答した末、彼は一つの決意を固めていた。


「このまま牢獄に繋がれるのならば……」


 玄関先に響く警官隊の声が、彼の決断を促した。

 家族の動揺する気配を背に、近衛は静かに青酸カリを口に含んだ。

 短く苦しんだ後、彼の意識は永遠の闇に包まれた。


 警官が室内に踏み込み、薄暗い書斎の机の前に倒れ伏す近衛の姿を見つける。

 近衛は既に冷たくなっていた。

 遺書はなかったが、その死は多くの者の胸に重くのしかかった。


 叛乱軍派の将校たちの逮捕と近衛の死によって叛乱は事実上終結した。

 しかし、叛乱の背後にいたナチスドイツとソ連の二重スパイ、リヒャルト・ゾルゲは行方をくらませていた。

 混乱の隙を突き、密かに国外逃亡を図った彼の消息は最後まで掴めず、国家の不安材料として長く尾を引くことになる。


 静かに夜が明け、帝都には再び平穏が訪れたかに見えた。




 この叛乱の中心人物は軍法会議で厳しく裁かれ、厳罰を受けた。また、叛乱に直接参加しなかったものの、思想的に同一とみなされた軍人――すなわち、反民政派、親独派の将校たちは大量に退役させられ、以後、陸軍の政治介入は完全に封じられることとなった。


 この日本史上未曾有の事件は、首謀者の意図に反して、かえって我が国の議会制民主主義を強化する契機となったのである。民意の尊重と議会の権威は、この出来事を境に国民と国家の間に深く根づき、以後の政治の方向性を決定づけるものとなった。


 後世の史家は、この叛乱をこう評している。


 ――桂内閣打倒の第一次護憲運動から三十年近くが過ぎ、デモクラシーの精神は国民の間に根づきつつあった。陸軍の一部軍人はその潮流を読み誤り、力による政治の復権を図ろうとしたが、民衆の支持を得られずに挫折したのである。川戸絹の行動は、単なる政治家の勇気を超え、国民意識の成熟を象徴する瞬間となった。




 民政党町田内閣の総辞職を告げるニュースが流れたのは、12日のことだった。

 内外に衝撃を与えたクーデター未遂の責任を取ったものだ。実際、町田首相は、その「のんきなとうさん」とあだ名される容貌と相まって、平時なら有能な指導者であり得ただろうが、このような非常時の指導者にはいささか不向きであった。


 「憲政の常道」ならば、ここで政友会内閣が立てられたであろうが、代わって新たな首班に擁立されたのは、退役海軍大将の岡田啓介だった。

 陸軍によるクーデター未遂の後始末をつけるために、重臣会議では元軍人が首班の方がよいと判断されたのだ。

 ただし、民政党と政友会も一致協力して岡田啓介を支持することになった。

 そもそも岡田は英米にもパイプを持ち、かねてから陸軍親独派を抑えようとしてきた人物だ。政治的柔軟さと慎重さを兼ね備え、「中庸の人」とも呼ばれていた軍政型の人物だった。

 国民も、いざという時には海軍を頼りにした。そして、民政・政友大連立の挙国一致内閣が構想されたのである。


 首相官邸での組閣協議は、民政党と政友会の幹部が一堂に会する異例の場となった。


「この内閣は、国を守るための挙国一致内閣であります」


 岡田は低く、しかしよく通る声で言った。


 組閣は慎重かつ速やかに進められた。


 12月12日午後3時。首相官邸の記者会見室は、冬の午後とは思えぬ熱気に包まれていた。

 薄茶色の壁にかかる大時計の針がきっちり3を指した瞬間、記者たちのペン先が一斉に持ち上がる。フラッシュが焚かれ、鉛筆の擦れる音と、カメラのシャッターが間を切り裂いた。


「ただ今より、岡田内閣、閣僚名簿を発表いたします。」


 ラジオとテレビの同時中継が始まる。内閣書記官長・迫水(さこみず)久常(ひさつね)が落ち着いた声で読み上げる。

 その声に、室内の空気がさらに引き締まる。


「外務大臣、幣原喜重郎……大蔵大臣、賀屋(かや)興宣(おきのり)……海軍大臣、米内(よない)光政(みつまさ)……陸軍大臣、宇垣一成……


 名前が一つ挙がるたび、鉛筆の音が走り、記者たちの目が一瞬だけ鋭く光る。


 そして。


「厚生大臣、川戸絹」


 一瞬、報道陣の間にどよめきが走る。初入閣、そして女性大臣というニュース性に、全国のテレビの前の視聴者も息を呑んだ。


 迫水は読み上げを終え、静かに名簿を閉じた。記者たちは落ち着きを取り戻す。だが、誰もが知っていた――この内閣には、ただの政治家ではなく、国民の信頼と希望を背負った川戸絹がいるのだ、と。すなわち、誰もがすでに彼女の存在こそ、議会制民主主義の象徴であり、国民の声を政策に届ける鍵であることを理解していたのである。


「憲政史上初、女性の入閣ですが抱負は?」


 後で記者団に取り囲まれた絹は、ひとこと、


「国民の命と暮らしを守ることこそ、国政の根幹でございます」


と、答えた。その声には迷いはなかった。記者時代の取材、そして議員としての活動——全てがこの瞬間へと収斂していた。初入閣だが、経歴としては申し分ない。若き新聞記者から政界への転身、農地改革に尽力し、先日のクーデター未遂事件の際は国会議事堂を包囲したデモ隊と叛乱部隊の前で『われら愛す』を歌った豪胆。反対派からは「女のクセに」と罵られながらも、それゆえの支持者も多く、国民的人気がある。


 岡田内閣はただちにクーデター後の処理に着手した。

 親独派軍人の追放、陸軍部内の粛正、文民統制の強化、そして国民への声明発表。


「暴力に頼らぬ政治こそ、この国の誇りであります」


 岡田の言葉に、誰も異を唱えなかった。いや、たとえ異を唱える者であっても、声を上げられなかったというのが真実に近いのだろう。誰もが叛乱軍の軍人と一緒に粛清されたくなかったからだ。


 軍人や兵士たちに対する教育内容も改められた。国家主義的な内容は排除され、「軍は国民を護る国軍である」という意識が徹底させられるようになった。


 しかし、軍法会議でも頻繁に名前が挙がったリヒャルト・ゾルゲの行方はようとして知れなかった。




 1942(昭和17)年初頭。銀座通りを行くデモ隊は、晴れ渡った冬秋の空の下、統一された足並みで進んでいた。

 先頭の横断幕には大きく「日本は自由の側に立て」と墨痕鮮やかに書かれている。

 老若男女、洋装に着物姿が入り混じり、声を合わせて唱和する。


「独裁を許すな!」


「ファシズムは日本に不要だ!」


 新聞は毎日のように失敗に終わったクーデターについて書き立てていた。


 ――叛乱事件で逮捕された陸軍軍人たちの供述から、驚くべき事実が出てきた。

 ドイツ大使館勤務のリヒャルト・ゾルゲという男が、ドイツ本国の意を受けて日本 国内で政治工作を行っていたというのだ。

 軍部の一部や政界の親独派と接触し、日独伊三国同盟を締結させ、日本を枢軸国側として参戦させようと暗躍していたという。もちろん、これは表側の顔であり、ゾルゲは実はソ連のスパイとして日本を連合国側として参戦させたいという裏の顔を持っていたのだが。


 新聞記事には、親独派の秘密会合の日時や、軍部・政界の一部と結託した経緯までが詳しく書き立てられていた。


「やっぱり、奴らは日本をナチスドイツの手先にする気だったんだ!」


「ふざけやがって、あんな戦争屋なんかと組むもんか!」


 「外から操られていた」という事実は、国民世論を一気に反ナチへ傾け、デモの列はそれを映すように声を高めた。

 行進の後方で、年配の女性が澄んだ声で歌を先導する。


「♪ われら愛す――」


 銀座の空に、その歌声が高く、そして長くこだましていた。


 デモ隊の掛け声も、次第にこう変わっていった。


「ナチを撃て!」


民本主義(デモクラシー)を守れ!」


 絹はその光景を歩道から見つめていた。

 怒りに満ちた市民の声は、どこか悲しみにも似ていた。

 彼女の胸には、あの歌声と同じ、言葉にならぬ思いが広がっていった。




 欧州では、西部戦線ではドイツ軍がダンケルクから英仏連合軍をドーバー海峡へ追い落とし、東部戦線では——独ソ両軍が雪に覆われた戦場で、何百万人もの兵士や市民の血を凍土に流しながら戦っていた。


 そんな中、日本はアジアで先次大戦の時以上の経済発展を続けていた。




 1942(昭和17)年秋。


 ロンドン郊外、バッキンガムシャーの森に抱かれた首相別邸チェッカーズは、冷たい霧の中に沈んでいた。

 煙突から立ちのぼる煙はまっすぐに空へ伸びず、夜の湿気に絡め取られてぼんやりと滲んでいる。


 重厚な書斎の中では、英国首相チャーチルと米国大統領ルーズベルトが地図を挟んで向かい合っていた。

 壁には地中海からインド洋までを覆う巨大な地図が貼られ、無数の赤と青のピンが刺さっている。

 ドイツ・アフリカ軍団はカイロを目指して快進撃を続け、スターリングラードではソ連が血の海に沈みかけている――戦況は、決して楽観できるものではなかった。


 暖炉の火がぱちぱちと音を立て、チャーチルの葉巻の煙が天井にゆらめく。

 その沈黙を破ったのは、ルーズベルトの低い声だった。


 「ウィンストン……。日本をどう見る?」


 チャーチルは目を細めた。


 「難しい質問だな。あの国はもはや我々の知る『極東の島国』ではない。今や、太平洋の半分を動かす工業国家だ」


 「それだけではない」


 ルーズベルトは指で地図上の東京をなぞる。


 「彼らは軍閥を抑え、民政を立て直した。プロイセン流だった陸軍も再編されたという。今の日本は――もしかすると、我々以上にデモクラシーと秩序を信じている」


 「秩序、そして道義だ」


 チャーチルは短く答え、傍らの机の上に置かれた封筒を手に取った。

 封蝋には、菊花と日章の印。

 宛名は、

 "To the Prime Minister of Great Britain"

 差出人は――"Okada, Prime Minister of Japan"。


 チャーチルは封を切り、静かに読み上げた。


 ――我々は、力を秩序のためにではなく、人の尊厳のために使う国でありたい。

世界が暗黒に沈もうとする時、光を掲げるのは、銃ではなく理性であると信じる。


 読み終えたあと、部屋の中はしばし沈黙に包まれた。

 窓の外では風が唸り、雨が硝子を打っていた。


 「……見事な文章だ」


 ルーズベルトが呟くように言った。


 「この国がもし、我々の側に立つなら――世界は変わる。自由を求める人々は、希望を取り戻すだろう」


 チャーチルは、ゆっくりと椅子に腰を下ろし、葉巻の灰を落とした。


 「だが、代償は大きいぞ。日本は自らの帝国を持っている。アジアにおける主導権を我々と分かち合うことになる」


 「分かち合うべき時だ、ウィンストン」


 ルーズベルトの声には疲労と、それ以上の決意が滲んでいた。


 「この戦争は、もはや領土のためではない。人間の自由のためだ。彼らが同じ理念を掲げているなら――同じ旗の下に立つ資格がある」


 チャーチルは深く息を吐き、暖炉の火を見つめた。

 炎が一瞬、ゆらりと揺れた。


 「……国王陛下は何と仰せになるだろうな」


 「恐らく、慎重に。しかし賢明に」


 ルーズベルトは微笑んだ。

 「日本の天皇(エンペラー)は、戦を好む御方ではない。彼の国は、エンペラーと人民が同じ痛みを知る国だ」


 外の雨音が強くなる。

 やがて、通信士が入ってきて一通の電報を差し出した。

 宛先は「ロンドン・ホワイトホール」。

 差出人は「Tokyo Foreign Office」。


 チャーチルが電報を受け取り、開いた。

 そこには短い一文があった。


  ――日本は、いかなる暴虐にも沈黙せず、ただ、人類の理性に与する。


  チャーチルはしばらくその文面を見つめ、やがて静かに頷いた。


 「……フランクリン。もしかすると、我々の未来は東からやってくるのかもしれん」


 その夜、ロンドンの霧の中で、「対独共同作戦への日本正式招請」という極秘の合意が成立した。


 暖炉の火が小さく爆ぜ、煙が天井に昇る。

 外の雨はすでに止み、月が雲間から覗いていた。

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