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絹の国  作者: 喜多里夫
第六章 戦時下の活動

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第40話 歌は銃を止めた

 だが、すべてが霞が関のように上手くはいかなかった。


 ほぼ同じ頃。


 神宮外苑。まだ冬の冷気が残る並木道にも、すでに数千人の市民が集まっていた。 

 銀杏の枝は裸で、冷たい空を透かし、その下に「打倒軍閥!」「民政ヲ護レ!」などと書かれた白地の布が林立している。墨痕も鮮やかに、揺れるごとに陽を弾いた。


 学生たちは腕章をつけ、拡声器を手に、


「軍は民を撃つなぁっ!」


と、叫ぶ。母親の胸に抱かれた幼子の頬は赤く、労働者の列は旗を高く掲げて拳を突き上げた。


 「軍閥許さじ!」


 「政治を民に還せぇ!」


 地鳴りのような声が青空を震わせる。東京市会議員の女性が急ごしらえの壇上で演説を始める。手には紙に印刷されたスローガン、「打倒軍閥!」が掲げられ、声は凍てつく寒気を切り裂くように響く。


 その時、遠くからトラックのエンジン音が響き、続いて武器を携えた兵士たちが現れた。叛乱軍の一個中隊である。整然とした足音が地面を踏み鳴らし、列の先頭で中隊長とおぼしき青年将校が手を上げた。


「この集会は不法であるっ! ただちに解散せよっ!」


 マイクを通さずとも響き渡る大声。しかし市民たちは誰一人として退かなかった。

 最前列の労働者が叫ぶ。


「お前ら税金泥棒のくせに、何の権利があって我々に命令するんだ!?」


 その言葉に釣られるかのように、


「帰れ! 帰れ!」


のコールが広がる。旗が揺れ、どこかから石が飛んだ。兵士の一人が思わず肩をすくめる。青年将校は市民に向かって声を張り上げた。


「集会は解散せよ! 軍閥とは何だ? お前たちこそ何の権利があって、そんなことが言えるのだ!?」


 壇上の市会議員は毅然とした態度で言い返した。


「あなたこそ、何ですかっ!? あなたたちが叛乱を起こしたくせに。いったい、どの口が言ってるの? あなたこそ、この場にいる資格はありません。出て行きなさいっ!」


 そして、市民の波が叛乱軍に向かってどっと押し寄せた。


「このアマぁぁっ!」


 中隊長の目に怒りが宿り、壇上の市会議員を指さして命じた。


「あの、へらず口の女を撃てっ!」


 彼の手は、わずかに震えていた。なぜなら――軍人になって以来、生きている人間を撃ったことも、撃てと命じたことも一度もなかったからである。

 しかし次の瞬間、この婦人議員の身体は糸の切れたように壇上から崩れ落ちる。


 風が一瞬止まった。


 次の瞬間、怒号と悲鳴が渦巻いた。母親が子を抱いて逃げ、学生たちは石やプラカードを兵士たちに向かって叩きつけた。叛乱軍の兵士たちは混乱し、中隊長は再び叫ぶ。


「撃て! 暴徒は撃ち殺しても構わん!」


 乾いた音が連続して響き、周囲の空気が血の匂いに変わった。

 若者が倒れ、誰かが、


「医者を!」


と、短く叫ぶ。

 警笛が遠くで鳴り、鳩が一斉に飛び立った。

 泥と血にまみれた旗が倒れ、墨字の「打倒軍閥!」が地に伏す。


 それでも、市民たちは負けていなかった。

 投石をさらに強め、バリケード代わりに大八車を押し出す。

 兵士たちは応戦し、実弾が飛び交う。銃声が連続して響き、周囲は阿鼻叫喚の地獄と化した。


 怒りに駆られた市民たちは、射撃を命じた中隊長に集団で襲い掛かる。中隊長は携帯していたピストルを乱射して2,3人の市民を倒すが、すぐに弾が尽きると彼は何十人もの市民たちに素手や棒で袋叩きにされ、血まみれになって地面に転がった。

 それを目の当たりにした兵士たちは恐怖にかられ、再び実弾を発砲。煙と火薬の匂いが立ち込め、地面には血の赤が広がる。


 市民たちは投石で応戦する。大きな石が兵士の頭にぶつかり、銃床に血が飛び散る。銃声に応じて市民たちは散開し、再び集まる。まるで戦場のように広場が入り組んだ動線となり、兵士と市民の間で生死が交錯する。


 現場を取材していた報道カメラが、偶然その一部始終を捉えていた。


「なんてことだ……」


「帝都はもはや戦場と化した」


 この事件は後に「神宮外苑の惨劇」と呼ばれる。




 緊迫した一夜が明けた。


 帝都はまだ煙の匂いを帯び、テレビ、ラジオの放送や、新聞各紙は「神宮外苑で市民千余名死傷」と報じていた。

 このニュースを見た人々の怒りは、ますます膨らんだ。


 9日は、朝から代々木公園と上野公園に再び市民たちが集まった。「神宮外苑の惨劇に抗議する市民集会」と銘打たれ、学生、労働者、職業婦人や主婦たちまで。


 不忍池のほとりでは、昨年、初めて東京帝大に入学を許された女子学生たちが手を取り合い、輪をつくって歌っていた。

 歌はあの歌――「われら愛す」。

 絹が霞が関で歌った曲である。

 テレビ、ラジオの中継を通じて広がり、いまや市民たちが口ずさむ「平和を求める歌」になっていた。


♪ われら愛す 胸迫る 熱き思いに


 声は高く、真っすぐに空へ昇る。

 そこへ叛乱軍一個中隊が現れ、学生たちの周囲を取り囲み、銃を構えた。

 だが、学生たちは誰一人として退かない。

 むしろ、ひとり、またひとりと輪に加わり、やがて千人を超える合唱となった。


 中隊長は叫ぶ。


 「解散せよ! 繰り返す、解散せよっ!」


 しかし、その声すら歌に呑まれた。

 風が銀杏の枝を鳴らし、陽光が銃身を照らす。

 ある若い兵士が、銃口を下げた。

 彼の目に涙が滲んでいた。


 「俺の妹も……あの歌を歌ってたんだ」


 誰かが呟き、それが伝染した。

 次々に兵士たちが銃を降ろす。

 中隊長が怒鳴っても、もう誰も動かない。

 歌声がすべてを包み込み、暴力を無力にしていった。


 やがて、銃剣が一斉に地面に突き立てられる。

 その金属音は、祈りのように澄んでいた。


 その光景を目の当たりにした老いた労働者が呟いた。


 「勝ったんだ……声が、勝ったんだ……」


 彼の涙に濡れた頬を、初冬の風が撫でた。




 陸軍省は大騒ぎだった。

 今日も政府派の将官が叛乱軍派の中堅将校に、


「とりあえず、お帰り下さい」


と迫られる。将官は、


「何が維新だ!? 部下の下士官兵まで巻き込んでっ! 維新がやりたかったら、自分たちだけでやれっ!」


と一喝し、将校たちはそのあまりの剣幕に引き下がった。ある若手将校が、


「閣下と我々の考えは違うところもあると思うのですが、維新についてどう思われますか?」


と質問すると、


「俺にはよくわからん。俺の考えは、軍備と国力を充実させれば、それが維新になるということだ」


と素っ気なく答え、


「こんなことはすぐやめろっ! やめねば軍旗をもって討伐するぞっ!」


と再び一喝する。


 政府派の大佐は、叛乱派のシンパと目される大将に会って、


「馬鹿っ! お前みたいな馬鹿な大将がいるからこんなことになるんだっ!」


と面と向かって罵倒し、これに対して、


「何を無礼なっ! 上官に向かって馬鹿とは何だ、馬鹿とはっ!? 軍規上、許せん!」


と、激しい剣幕で言い返す大将に対して、大佐は、


「叛乱が起っていて、どこに軍規があるんだっ!?」


と、くってかかり、両者は一蝕即発の事態になった。




 上野公園では、叛乱軍一個中隊と対峙した学生たちが、


「みんな、武器を持たずして戦おう!」


と叫び、広場で手をつないで輪になり、『われら愛す』を歌い始めた。

 歌声は風に乗って不忍池を渡り、白い鳩が一斉に飛び立った。

 その輪の中には、前年、初めて入学を許された東京帝国大学の女子学生たちも混じっていた。

 彼女たちは震える唇を噛みながらも、声を合わせて歌った。


♪ われら愛す 胸迫る 熱き思いに――。


 最初のうちは、恐怖に震えた声だった。

 だが、輪が大きくなるごとに、歌声は次第に確かなものとなり、

 やがて冷たい冬の風をも押し返すような力を帯びていった。


 対峙している兵士たちは、銃を構えたまま、微動だにしない。

 指揮官の青年将校が声を張り上げる。


「射撃用意っ!」


 その瞬間、兵士の列の中で、誰かが嗚咽した。

 前列にいた若い二等兵が堪えきれないという表情で涙を流しながら歌い出す。


 「われら愛す……」


 唇が、歌詞をなぞっていた。

 隣の兵士も、その隣も、次々と銃を下げ、やがて歌に加わる。

 涙が頬を伝い、銃身の上に落ちた。


 兵士たちの異変に気づいた指揮官がヒステリックな声で命令を下す。


「一斉射撃、撃てっ!」


 しかし、誰も撃たない。

 歌声は膨れ上がり、鉄の隊列を包み込む。

 広場の真ん中で、学生と兵士の声がひとつに重なった。

 それは怒号でも叫びでもなく、ただ純粋な人間の声だった。


 「やめろっ! 撃てと言っているのだ!」


 指揮官は叫び、拳銃を抜いて空に向けて撃った。

 乾いた音が響いたが、もう誰も動かない。

 兵士の列は静かに崩れ、青年将校の手から拳銃が滑り落ちた。


 歌は止まらない。

 春の光が銀杏の梢を照らし、銃剣の刃がきらめいた。

 ある母親が幼子を抱きしめながら、嗚咽のようにその旋律を口ずさんでいた。


 誰かが言った。


 「武器を捨てた……歌が勝ったんだ……」


 その声に応えるように、広場のあちこちで拍手が起こる。

 やがて、兵士たちは銃を肩に担い、整列して学生たちに敬礼した。

 それは命令ではなく、心からの敬礼だった。


 凍えるような風が止み、遠く上野駅の時計が午後3時を告げる。

 空には、春の雲がゆっくりと流れていた。




 午後の光が、まだ薄く曇った硝子越しに差し込んでいた。

 天皇が無言でテレビの画面を見つめている。

 画面には、昨日の霞が関の混乱、神宮外苑の流血、そして現在の上野公園での学生たちの輪──『われら愛す』の歌声が流れていた。

 映像は、まだ新しい技術ゆえに不鮮明なところもあったが、それでも市民たちの表情、武器を構える兵士たち、倒れ伏した人々の影がありありと映っている。


 一人の侍従がそっと後ろに控え、陛下の様子をうかがう。

 長い沈黙の後、天皇は静かに、しかし明らかに怒りをこめて口を開いた。


「……叛乱軍であるな」


 その声には、一切の揺らぎがなかった。

 侍従はすぐに、


「は、はい。陸軍省は、事態を掌握しきれておらぬ様子にございます」


と答える。

 天皇はしばし無言でいた。

 画面では、学生と兵士が向かい合い、やがて銃を降ろし、互いに歌う姿が映っている。

 陛下はその光景を凝視したまま、低く呟いた。


「国軍の将兵が、国民に銃を向けるなど、まことに恥ずべきことだ」


 侍従は息をのむ。天皇の口元には怒りの震えが見えた。


「彼らは、陛下のためと申しておりますが……」


と、侍従が恐る恐る言いかけた時、天皇は侍従の方を振り返り、はっきりとした声で言った。


「朕は、かかる行いを決して許さぬ。国民を撃つとは、朕の名を辱めることだ」


 一呼吸置いて、天皇は侍従に命じた。鈴木侍従長は負傷し、町田首相は行方不明であるので、直接、内相と陸相へ伝えよと。


「朕の命令である。『叛乱軍』を断固として討伐せよ、と」


 侍従はかしこまって退出する。

 天皇は再び画面に目を戻す。

 上野公園の学生たちが、手を取り合い、涙を流しながら歌う。

 その姿を見つめながら、天皇はぽつりと言った。


「……この国は、まだ滅びてはおらぬようだな」


 その声音には、怒りとともに、わずかな安堵が混じっていた。

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