第38話 二重スパイ
1939(昭和14)年9月1日。ドイツ国防軍は、突如としてポーランド国境を越えた。
モータリゼーションと航空支援を駆使した「電撃戦」は、世界の軍事史を塗り替える衝撃をもたらす。ポーランド軍は粘り強く抗戦したが、機械化部隊と空軍の圧倒的な速度と火力の前に包囲殲滅され、9月下旬には首都ワルシャワが陥落。ソ連は独ソ不可侵条約の密約に基づき、東方から侵入し、ポーランド領を独ソ両国が分割占領した。
だが、ヨーロッパの戦火はこれで終わらなかった。
翌1940(昭和15)年春、ドイツ軍は矛先を西へと転じる。4月にはノルウェーとデンマークを占領。続く5月、オランダ、ベルギー、ルクセンブルクを瞬く間に制圧すると、主力をフランス本土へ投じた。アルデンヌの森という「戦車の通れぬ地形」を縫って進撃した機甲部隊は、英仏軍を背後から切り裂き、海岸の港町ダンケルクへと追い詰める。
この時点での電撃戦は軍事評論家たちの予想を裏切る速さで完結した。6月14日にはパリが陥落し、ペタン元帥率いるヴィシー政権が降伏文書に署名。英本土は孤立し、バトル・オブ・ブリテン――ドイツ空軍による英国本土空襲が始まる。
さらに1941(昭和16)年6月、ドイツは不可侵条約を結んでいたソ連に牙を剥いた。世界史上未曽有と称される400万の大軍と3,500輌以上の戦車、数千機の航空機が、バルト海から黒海に至る広大な戦線を一斉に越境する。ソ連軍は緒戦で壊滅的打撃を受け、キエフ、スモレンスク、ロストフといった主要都市は次々とドイツ軍の手に落ちた。
だが、日本列島では、この欧州情勢の激変を受けて、新たな選択が迫られていた。
この時、日本はまだはっきりとどちらの陣営にも加わってはいなかった。
政府内、軍部内、そして国民世論も意見は大きく対立していた。
一つは親独派。
陸軍の一部や右翼団体が強く推したのは、「この機に乗じてドイツと提携し、アジアに残る英仏蘭各国の植民地を一気に奪取すべし」という主張であった。マレー、ビルマ、インドシナ、インドネシア。フランスとオランダは本国がすでにドイツに占領され、イギリスは今や本国防衛で手一杯、この隙に動けば「大東亜共栄圏」の実現も夢ではないというわけだ。陸軍参謀本部の一部では、大陸進出よりも南進論が地図の上で熱を帯びて論じられ始めていた。
二つ目は親英派・連合国派。
海軍や外務省は、英国との長年の関係を重視し、「ここでドイツと敵対し、英国に貸しを作るべきだ」と説いた。英米との通商を確保し、戦後の国際秩序で発言力を高める狙いがあった。彼らは大西洋を越えて届く米国の工業力を冷静に評価しており、「緒戦はドイツの勢いがよいが、長期戦となると最終的な勝者は英米であろう」と読んでいたのである。
三つ目は中立派。
政界の一部と民間経済人は、「欧州の戦争に深入りすべきではない」との立場を取り、「アジア・モンロー主義」を掲げた。これは、列強の抗争に巻き込まれず、自国周辺の安全と経済圏の防衛に徹するべきだという考えである。先次欧州大戦で日本が参戦した結果、利益が果たしてあったのか――その教訓を引き合いに出す声も多かった。また、先次大戦の経験から非戦論、反戦論を唱える人々も多かった。
議会でも、新聞紙面でも、そして街頭の喫茶店や酒場でも、この三つの立場が入り混じった議論が飛び交った。
外務省は欧州情勢の分析を続けていたが、英仏の没落とソ連の劣勢は、政府中枢に「世界地図の書き換え」を現実味あるものとして見せつけていた。
一方、海軍軍令部は、ドイツと組めば必然的に米国との対立は避けられず、対米戦争を覚悟しなければならない、そうなれば日本は必ず負けると冷ややかに見ていた。
そして、この時期、すでに裏では諜報戦が始まっていた。
ドイツのアプヴェーア(国防軍情報部)は、東京の外交サークルや大学研究者を通じて親独世論の形成を試み、英国のMI6は在日外国人コミュニティと旧知の新聞記者を介して情報収集を行っていた。さらにソ連のNKVD(内務人民委員部)も、中国大陸を拠点に人脈を広げつつ、日本国内に工作員を潜入させていた。
こうして1941年、日本はまだ「中立国」という看板を掲げながらも、水面下では複数の大国の思惑が交差する舞台となっていた。
東京の薄暗いアパートの一室。壁には時折開けられた地図が貼られ、所々に赤い印がつけられている。机の上には活字の散らばった新聞の切り抜き、秘密裏に入手した軍の報告書、暗号文書が雑然と積み重なっている。外の街灯がかすかな影を落とし、部屋の隅の古びた電球はかすかな唸り声をあげている。
リヒャルト・ゾルゲは、かつては外交官としても名を馳せた男だが、今は二重スパイとしての孤独な道を歩んでいる。彼の青い瞳は冷静に光り、しかしどこか寂寥感を湛えていた。
彼の前には二つの机が並び、一つはドイツ国防軍情報部宛の公式報告書のために用意され、もう一つはソ連赤軍情報総局への暗号通信のための机だった。タイプライターの鍵盤を慎重に押し、ペンを走らせ、彼は両方の報告書を完成させねばならなかった。
「どちらも真実の断片だ。しかし、真実そのものは誰にも見せてはならない」そう自らに言い聞かせながら、ゾルゲはドイツ側の報告書に最後の句点を打つ。
暗号通信文
宛先:ベルリン 国防軍情報部本部
送信者:R.ゾルゲ(コードネーム「インコグニート」)
暗号種別:高位暗号(暗号書第7号使用)
送信日:1941年6月22日
件名:オペレーション「ドライ・プファイル」進捗状況
尊敬する上官殿、
皇道派将校団による政権掌握計画は着実に進行中です。日本側では荒木貞夫大将を中心に、熱心な日独協力派が結集しており、町田内閣打倒後は即座にドイツとの同盟締結を目指す意志を固めています。
進展状況:皇道派将校の動員は、陸軍士官学校・第1師団からの中堅層を中心に順調に進む。
武装手段としては、陸軍省倉庫および東京湾岸の補給所から小銃・弾薬を確保済み。
実行日は1941年第4四半期で調整中。天候条件と政治情勢を鑑み、最適な日を選定する。
見込み:
計画が成功すれば、軍事政権は速やかに成立し、日独枢軸の政治的・軍事的結束は飛躍的に高まる見通し。さらに、皇道派はソ連との対決を不可避と見ており、ドイツの戦略的利益に合致する。
要望:ベルリンからの政治的保証(新政権承認の即時通達)
必要な場合の追加資金融資(武装資材および宣伝費)
日本国内の諸勢力は分裂しているが、現時点では皇道派が主導権を握っている。私の立場は彼らの完全な信頼を得ており、計画実施に支障はない。
進捗があれば逐次報告する。
インコグニート
封筒を丁寧に封し、スタンプを押す。彼の指先はわずかに震えていたが、それを見せまいと堪える。
その直後、今度はソ連側への暗号報告を目の前に置く。そこには、ドイツへの報告とはまるで違う冷徹な真実が綴られていた。計画の弱点、将校間の不和、兵士の離反兆候、計画の失敗確率、さらには自らが進める情報操作の具体策まで。
暗号通信文
宛先:モスクワ中心部 第4局(赤軍情報総局)
送信者:R.ゾルゲ(コードネーム「ラムゼイ」)
暗号種別:高位暗号(手稿複写後焼却)
送信日:1941年6月22日
件名:皇道派軍人によるクーデター計画の進捗
同志諸君、
日本帝国陸軍の皇道派分子が、ドイツ国防軍情報部より秘密裏に支援を受けつつ、帝都において政変を起こす計画が進行中である。ドイツ側呼称は「オペラツィオーン・ドライ・プファイル」。
本計画の骨子は、
1.町田内閣の排除
2.戒厳令発動のもとでの政権掌握
3.対ソ強硬派内閣の樹立と日独同盟の即時締結
である。
私はドイツ側の信任を保持しつつ、計画の詳細を逐次把握。特に皇道派将校の動員リスト、武器配備経路、首班候補の名(近衛文麿)を入手済み。
計画は帝都の主要通信・放送施設を制圧し、国民向けラジオ演説で軍の掌握を宣言する段取り。実行日は未定だが、皇道派内部で1941年第4四半期との合意が形成されつつある。
評価:本計画は成功すれば日本をドイツの影響下に置くが、同時に陸軍の統制権を皇道派が握り、対ソ開戦の危険が急速に高まる。我が国の戦略的利益に照らし、このクーデターは未然に把握し、必要に応じて阻止または混乱させるべし。
提案:
1.ドイツ側への協力を装いながら、実行日直前に計画を一部漏洩し、政府側の事前防御を促す。
2.皇道派内部の不一致を煽るため、中堅将校の間に不信情報を流す。
3.必要なら私から日本政府関係者(信頼筋)へ匿名で警告を送る用意あり。
計画の全容が判明次第、続報する。
ラムゼイ
彼はペンを置き、深く息を吸った。窓の外では風が街路樹の枝を揺らし、遠くで車の走る音が途切れ途切れに響く。東京の夜は静かで、しかしその静けさの下に巨大な嵐が潜んでいるのを知っていた。
ゾルゲの心は複雑だった。彼は両国のために動いているが、どちらにも全てを明かしてはいない。情報の使い方ひとつで、数千、数万の命が左右される戦場にいるのだ。
「どちらが勝つかは問題ではない。どちらも敗北に導かなければならない」
そうつぶやくと、彼の唇にかすかな、しかし冷徹な微笑が浮かんだ。
灯りに映る彼の影が壁に揺れる。そこには、二つの顔を持つ男の孤独な姿が映し出されていた。
タイプライターの音が夜の静寂に響き渡る。彼はまた一枚、文書を叩き終える。二重の世界で一人、戦い続ける男。ゾルゲの孤独な戦いは、まだ終わらない。
1941(昭和16)年秋。その頃、東京の朝はまだ穏やかながら活気に満ちていた。
休日に絹は家族三人で銀座へ出かけた。
秋晴れの空は広く、低い木造の家屋や小さな商店が軒を連ねている。路面電車が忙しなく行き交い、喧騒のなかには子供たちのはしゃぐ声や屋台の呼び声が混ざっていた。
絹はその雑踏の中を歩きながら、ふと立ち止まった。目の前には鮮やかな布団屋の看板がはためき、遠くには活気あふれる市場のざわめきが広がっている。
「これが……私の目指してきたものかしら?」
絹は心の中で問いかける。選挙権拡大、農地改革、所得倍増……すべてはこの日のためだった。だが、同時に胸の奥には漠然とした不安も宿っていた。
街角の食堂では、若い夫婦が笑顔で食事をとり、近くの子供たちは竹馬やけん玉に興じている。働き盛りの男たちは活力に満ちて、街の建設と成長を信じて疑わなかった。
もはや日本は、農業と軽工業の「絹の国」ではない。
重化学工業の盛んな「経済大国」だ。
志村清は絹の隣を歩きながら、小声で言った。
「僕たちは休火山の上で踊っているだけなのかもしれないよ。」
「どういう意味?」
絹は足を止めて志村を見つめた。
「経済は確かに成長している。農民は自作農となり生活は安定した。けれど、その一方で人々は何か大切なものを忘れようとしている気がする。自然との調和、地域の絆、慎み深さ……世界恐慌から立ち直るために前を向いたが、気づかぬうちに失われつつあるものがある」
絹はしばし黙ったまま、目の前の街並みを見つめた。生活は明るいが、その裏側には工場の煙、増え続ける人口、そして新たな格差の影が忍び寄っている。
「でも、それも時代の流れなのかもしれないわね」
「そうだとしても、僕たちは目を閉じてはいけない」
背広姿の商社マン、着物姿の婦人、学生服の青年たちが行き交い、ショーウィンドウには涼しげなガラス器や、最新式のテレビ受像機が並んでいる。
ちなみに昨年、1940(昭和15)年には日本でもテレビジョン放送が、ついに幕を開けていた。
東京・芝の放送局屋上に高く掲げられたアンテナから、白い閃光のように映像が送られていく。
黒い箱の中に、ひときわ明るい小さな窓。そこには人の顔が、手の動きが、確かに映っていた。
音声はわずかにざらついていたが、声は届き、表情がわかる。
人々は息を呑んで画面を見つめた。
第一声を務めたアナウンサーは、緊張の面持ちで告げた。
「こちらは東京テレビジョン放送局であります。日本のテレビ放送、ただいまより開始いたします――」
人々の胸に走ったのは「これが未来だ」という確信だった。
川戸絹は、その試験放送を議員会館の応接室で見ていた。
「紙の時代が、終わりに近づいているのかもしれない」
と、彼女は小さく呟いたという。
そんな時、遠くからシュプレヒコールが響いて
「参戦反対! 軍拡反対!」
「我々は戦争につながる動員に反対しまぁす!」
歩道の向こうから、大きな横断幕を掲げた集団がやって来る。白地に赤い文字で「戦争反対」と書かれた旗が、秋空の下ではっきりと揺れていた。先頭には若い女性たちが立ち、麦わら帽子の下から日焼けした顔を覗かせている。その後ろには中年の男性、学生服の青年、作業着姿の男たち――年齢も職業もバラバラだが、声はそろっていた。
銀座通りの両側に立つ人々が、興味深そうに、あるいは警戒するようにその行進を見ている。だが、我が国ではこうしたデモは禁じられてはいない。警察官は少し離れたところから静かに見守るだけで、サーベルを抜くこともない。
少し離れたところからテレビ局の中継車がデモ隊を撮影している。もしかしたら、今晩のニュースにも流れるかもしれない。
絹は立ち止まり、少し距離を置いて彼らを眺めた。
スローガンの一つひとつが、胸の奥に響く。「戦争反対」という言葉の純粋さは、彼女の中の何かを震わせる。
だが同時に、冷静な視線が、彼らの足並みやプラカードの文言、その背後にある組織を探ろうとしていた。
「この人たちは、何を本当に望んでいるのだろう?」
ただ戦争を止めたいのか、それとも政権を揺さぶりたいのか。あるいは外国の思惑に知らないうちに利用されているのか。
足元に長い影が落ちていた。行進の足音が規則正しく響いていく。その音が遠ざかるまで、絹は動かなかった。
やがて群衆が去ると、銀座はふたたび買い物客と車の流れに飲み込まれた。さっきまでの熱気は嘘のように消え、どこかのカフェからジャズの軽やかな旋律が聞こえてくる。
絹は深く息を吸い、再び歩き始めた。頭の中には、今見た光景が鮮やかに残っている。あの声は、やがて彼女の政治判断に影響を与えるかもしれない。だがそれがどういう形になるかは、まだ分からなかった。
二人は誠を挟んで歩き出した。どこかに未来への希望と、そこに潜む危うさを見据えながら。誠が大きな声で指さした。
「ぼく、あれ食べたい」
デパートの食堂の「お子様ランチ」の看板だった。
夜、絹は家の小さな書斎に籠り、今日見た光景と自らの思いをノートに記した。
「豊かさが人を幸せにするとは限らない。失ったものに目を向け、守るべきものを見極めなくてはならない」
ページをめくる手が震える。これからも国のため、人々のために戦い続ける覚悟を胸に刻んで。
静かな夜の中、遠くの街灯がぼんやりと揺れていた。
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