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絹の国  作者: 喜多里夫
第五章 戦間期の活動

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第36話 改革

 小さなストーブの上で煮物がぐつぐつと音を立てていた。

 志村清はネクタイを緩めながら、新聞の一面に目を落とした。


「またか……君の党、また内務省批判を強めている」


 絹は夕刊をめくりながら顔を上げる。


「地方行政の非効率さをただしただけよ。統制よりも自治を大事にすべきじゃないの」


「だけど、その『統制』を支えてるのが内務省だ。地方財政も、警察も、衛生も全部……それを『非効率』の一言で片付けるのは、無責任だ」


 志村の語気が強まると、絹の眉がピクリと動いた。


「私たちは、内務省の存在そのものを否定してるわけじゃない。けれど、過度に中央集権的で、現場の声が届かない行政が、どれだけ生活を圧迫しているか、知ってる?」


「現場の声を聞く? 君の党の若手議員は、地方の制度の実務も知らずに改革、改革と叫んでいるだけだ。実現性も財源もない理想論を振り回して」


「それでも、何も言わずに黙って従うよりはずっといい!」


 激しい沈黙が流れた。子供が隣室で泣き始める。千代がそっと抱き上げて部屋を移った。絹は少し声を落として言った。


「私たちは、どちらもこの国を思っている。けれど、方法が違う。私は、『制度に従う』より『制度を変える』側に立ちたいの」


 志村は立ち上がり、窓辺に歩み寄る。


「君がそこまで強い信念を持っているのは、知ってる。だけど……絹。制度を変えるには、それを内側から支える人間も必要なんだ。僕はその役割を担っているつもりだ」


 絹は静かにうなずいた。


「そうね。だからこそ私たちは、正反対から同じ目標を見ているのかもしれない」


 志村は少し笑った。やわらかく、どこか苦い笑みだった。


「君とこうして毎晩議論するたびに思うよ。妻が政治家だというのは……なかなか骨が折れる」


 絹も笑った。


「夫が内務官僚だって、なかなか難しいわよ」


 その夜、絹は台所の窓から空を見上げた。秋の夜空は高く澄み、星のまたたきがかすかに揺れていた。


 彼女の隣に、静かに志村が立った。


 「君の考えている未来は、どんな国なんだ?」


 「子供が、自分の名前で呼ばれ、自分の意志で生きられる国よ」


 「……なら、僕もそこを支える一人でいたいな」


 二人の手が、そっと重なった。




 1933(昭和8)年。


 永田町の議場に響くざわめきの中心にいたのは、今や民政党内閣の看板、高橋是清大蔵大臣である。この齢八十にならんとする老政治家は、議場を見渡しながら、精力的な声を張り上げていた。


 「諸君、われわれは危機に立っておる。このままでは農村は崩壊し、都市は飢え、共産主義(コミュニズム)の赤旗が翻るであろう。ここで手を打たねばならん!」


 議場が静まり返る。傍聴席には軍服姿の軍人や背広姿の内務官僚の姿も見えた。彼らにとっても農村の荒廃は重大な問題である。農村が疲弊すれば兵役に堪える若者が育たず、農村暴動が広がれば治安も揺らぐ。


 高橋は続けた。


「そこで提案する。このまま地主制を温存しても、この国は救われぬ。土地を国が買い上げ、10町歩(約10ha)単位に整理し、アメリカのような経営規模の自作農を育成する。そして地主諸君には土地の代償として国債を与える。これを担保に、新興の工場や商社に投資すればよい。地主は没落するのではない。産業資本家へと生まれ変わるのだ!」


 議場の一部からはどよめきが起きた。伝統的な地主代議士は憤然と立ち上がりかけたが、周囲に制されて腰を下ろす。傍聴席にいた財界人たちは、顔を見合わせて薄く笑った。新しい投資資金が流れ込むことを確信しているのだ。


 軍部の革新派もまた頷いた。農地改革は「赤化防止」「兵力確保」に直結する。思想はどうあれ、彼らにとっては軍備拡充のための基盤となる。内務省の官僚は治安維持の観点から賛同を示し、改革は一気に国防・治安・経済の三方面から「必要不可欠な国家政策」として形を整えていった。


 だが、議場においてひときわ注目を集めたのは、民政党の川戸絹であった。彼女は演壇に立ち、新聞記者たちがペンを走らせるのを背に、柔らかな声で語りかけた。


「農民は長らく土地に縛られ、汗の実りを他人に奪われてきました。いま、ようやく彼らが自らの田を持ち、子どもに笑顔を見せられる日が来るのです。これは善意の改革であり、民衆の幸福のためであります」


 記者団のフラッシュが一斉に光った。記事の見出しには「川戸君、農民のために立つ」「女性代議士、改革を訴う」と踊るだろう。


 しかし、演壇を降りた絹の表情には一瞬の翳りが走った。彼女は財界人や軍人、内務官僚の思惑も知っていた。地主層を資本家へ転換させ、余剰農民を都市部の工場へ送り込み、工業立国化を図る。皆が善意で動いているわけではない。しかし、それでも改革を前に進めるのが自分の役割なのだと理解していた。


 絹は以前、志村が自分に言ったことを覚えていた。


 ——土地を得た農民が、共産党を支持するわけがないでしょう。安心して耕作できるなら、過激思想に走る理由がありません。まさに一石二鳥ですよ。


 議場に再び高橋が立ち上がる。老政治家の声は力強く響き渡った。


「農地改革だけでは終わらん。これを起点に、我々は日本経済を根本から建て直す。所得を十年で倍増させる所得倍増計画を推し進め、全国に新しい工業都市を築く新産業都市計画を展開する。そして、重工業と機械工業を五年のうちに飛躍的に発展させる工業整備五カ年計画を実行する!」


 議場は大きなどよめきに包まれた。農と工が一体となり、都市と農村が相互に支え合う未来図が描かれた瞬間だった。


 翌日の新聞各紙は、


《高橋蔵相、農地改革と所得倍増計画を発表 国会騒然》


《前代未聞の農政改革 議場は一時騒然》


などと、書き立てた。

 そして日本経済は、その後10年以上にわたる高度成長の坂道を駆け上がることとなる。




 その年の初夏、故郷の三重県へ帰ってきた絹は驚くべき光景を見た。


 かつて田畑が細切れに区切られ、農民の苦しい暮らしが続いていた村は、すっかり姿を変えていた。

 見渡す限り広がる水田は、もはや狭い畦道で分断されてはいない。10町歩ごとに区画整理された耕地の中央には、真新しいトラクターが黒い煙を吐き、まるで大きな獣のように土を耕していた。


「絹さん、あれが新しい『協同組合』の機械でしてな」


 白髪の混じった農民が誇らしげに指さした。


「村の若い者は工場へ出て行きましたが、残った者だけで、こうして広い土地を機械で回せるようになったんです。米の出来も、去年より二割は増えました」


 絹は、旧来の地主の屋敷の跡を見やった。今は空き家となり、門には貸家の札が掛けられている。


「この家の方々は……?」


と問うと、農民は少し表情を曇らせた。


「土地を国に売った代わりに国債を受け取りましてな。中には東京や大阪へ出て、商売や工場の株に投資して、別の形で財を築いた人もおります。けれど、ここに残った者は少ない。土地を失えば、この村にいても肩身が狭いのです」


 農民たちの顔は、しかし晴れやかだった。都市に移った次男三男は製鉄や造船の現場で働き、仕送りを欠かさない。残った家族は土地を守りつつ、組合で機械を融通しあい、以前とはまるで異なる、余裕のある暮らしを築きつつあった。


 絹は足を止め、眼前の風景をしばし見つめた。


 ——もし、この改革がなければ、この村はどうなっていただろう。小作争議に明け暮れ、借金に追われ、疲弊しきっていたはずだ。


「土地が人を縛るのではなく、人が土地を生かす時代になったのですね」


 彼女がそう口にすると、農民たちは声を揃えて「はい」と答え、深く頭を下げた。


 遠く、山の稜線に白く光る煙突が見える。四日市に新しく建った海軍燃料廠と石油化学工場だ。

 農と工が分かたれず、互いに支えあっている風景。

 それこそが、この国が新しい時代へ踏み出した証に他ならなかった。




 実家の庭先で風鈴が鳴る中、川戸尚人は姉の絹と向かい合っていた。


「姉さん……俺は迷ってるんだ。土地を国に売って債券をもらった人たちの中には、『第二の秩禄処分だ』と怒る声もある。東京へ出て投資や商売を始める者もいれば、ここに自作農として残る者もいる。僕は、どちらを選ぶべきなんだろう?」


 絹はしばらく黙っていた。障子越しに見える田の方では、昼間に見た新しいトラクターがまだ作業をしているらしく、遠くかすかなエンジン音が響いていた。


「尚人。昔のままの地主には、もう戻れない。それは、はっきりしているわ。けれど、選ぶ道は一つじゃない」


 彼女は弟の顔をまっすぐ見た。


「もし東京に出るなら、資本や学問を身につけて、新しい産業を支えることができる。もしここに残るなら、自作農として土地に根を張り、村を新しい形で守ることができる。どちらも、もう『地主』ではないの。自分の力で生きる道よ」


 尚人は苦笑いを浮かべた。


「姉さんは政治家だから、どっちでもいいって言えるんだろう」


「いいえ」


と、絹は首を振った。


「私は農民を守るためにここまで来たけれど、それは農だけを守るためじゃない。国を生かすための改革なの……秩禄処分の時、士族の子たちは学問に励み、商売を興し、軍に入って新しい時代を築いた。地主の子の私たちも、同じことができる。土地に縛られずに、選べる自由を持ったのよ」


 尚人はしばし沈黙した。夜風が稲の葉を揺らし、かすかな青い香りを運んでくる。


「自由、か……なら、僕はどう生きるか、自分で決めなくちゃならないんだな」


「ええ」


絹は微笑んだ。


「東京に出てもいい。ここに残ってもいい。ただ、あなた自身の力で生きること。それが、時代が私たちに課した答えなのよ」


尚人はしばらく黙って考えていたが、やがて言った。


「……僕は、ここに残ろうと思う。ここに牛舎を建てて、乳牛を10頭から始めて、やがては30、50と増やす。村の子供たちが都会に行かなくても働ける場所にするんだ。豚も飼う。肉は売るだけじゃない。ハムやベーコンにして、名古屋や大阪に出す……僕たちが、これからは『食』そのものを担う。村の仲間と一緒に店を持ち、商いまでやるんだ。土地を失って終わりじゃなく、ここから新しい農を始める。姉さんが東京で戦うなら、僕はここで支えるよ」


 絹はゆっくりと頷いた。


「ええ、それもいいと思うわ。あなたが成功すれば、この村の人たちも勇気づけられる」




 東京に戻った絹は、「農村改良研究会」の定例会でこの視察の報告をする。そでにその参加者は30名を超え、大蔵官僚や法学者、財界の有志までもが参加するほどになっていた。絹は彼らが並ぶテーブルの前で、静かに、しかし力強く話し始めた。


「皆様、農村が豊かになることは、単に農業従事者の暮らしを改善するだけでなく、内需拡大の大きな原動力になります。消費が増えれば、製造業や流通業も潤い、日本経済全体の活性化につながります」


 誰かがゴクリと唾を呑みこむ音がした。向かいの席の大蔵官僚はペンを止めた


「さらに、農業の機械化が進めば、農村から都市への労働力移動が促され、都市の産業発展にも資することになります。余剰労働力を効果的に受け入れ、雇用を創出できれば、都市の社会問題の緩和にも寄与します」


 何人かが声にならない声を上げた。


「この改革は経済の好循環を生み出し、ひいては国家の安定と成長の基盤になると確信しております。皆様のご理解とご支援を心よりお願い申し上げます。」


 ある若手実業家が静かに頷いた。


「川戸先生のおっしゃることには一理あります。我々も、これからの日本経済を見据えて対応していかねばならない。」


 絹は深く礼をした。

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