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絹の国  作者: 喜多里夫
第五章 戦間期の活動

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第35話 家族三人で

 年が明けて1933(昭和8)年2月——。


 休日の朝である。窓から差し込む冬の光は冷たく澄み、ストーブの上で薬缶が小さく鳴っている。

 志村が台所にいる絹に向かって、朝刊を手に言った。


「ふぅん……ドイツで政変があったらしい。1月30日に国家社会主義ドイツ労働者党を率いるアドルフ・ヒトラーって男が首相になったらしいぞ」


「アドルフ・ヒトラー? 国家社会主義……?」


 聞き慣れない名と言葉に、絹は眉を寄せた。ドイツといえばワイマール憲法、デモクラシーの模範のように思っていたが、今の語感には妙な硬さがあった。


「国家社会主義ドイツ労働者党? 何だか舌を噛みそうな名前ね……無産政党なの? 国家社会主義って、資本主義とも社会主義とも違うの?」


「さあな、民族主義と反共産主義を混ぜて、経済再建と軍備拡張を強調しているとか……あと、このヒトラーという男、演説はやたら上手いらしいが」


 二人の会話は軽い。


 ヒトラーはドイツの国家社会主義ドイツ労働者党いわゆるナチス指導者として、1920年代に登場し、ヴェルサイユ体制の打破、ユダヤ人の絶滅、共産主義の排除などを主張して世界恐慌後の不況に苦しむドイツ国民の心を捉え、1932(昭和7)年の総選挙ではナチスを第一党に押し上げていた。

 ヒンデンブルク大統領は、1933(昭和8)年1月30日、議会第一党の党首であるヒトラーを首相に任命し、ここにヒトラー内閣が成立したのである。こうしてヒトラーは政権を獲得した。ちなみに同じ年の3月、アメリカではフランクリン・ルーズヴェルト大統領がニューディール政策を開始した。


 しかし、日本ではラジオでも新聞でも、報道は淡々としていた。増税や失業対策の方がよほどの関心事だった。日本は軍備拡張する経済的余裕はなく、国際連盟常任理事国として英米との協調外交に努めていた。陸軍の一部には大陸への武力進出を夢見る者もいたが、予算も世論もその幻想を一蹴する。


「ふうん……権力を得た人間が何をするか、見極めないといけないわね」


 と、キッチンから焦げ臭い匂いが流れてきた。


「絹……これは?」


「……オムレツのはずだったの」


 皿の上には、形をとどめぬ黒い物体が横たわっている。


「政治より料理の方が難しい?」


「政治は理屈でなんとかなるけど、料理は理屈通りにいかないのよ」


 ふてくされたような顔をした絹を見て、志村は笑いながらエプロンを取り、手際よくフライパンを温めた。

 野菜を切る包丁の音が小気味よく響く。


「すごい。まるで台所の司令官みたい」


「そう? なら、ちゃんと統制(コントロール)してよ」


「失敗したら、責任は全部あなたにお願いするわ」


「……それは酷い」


 二人の笑い声が、朝の台所に温かく広がった。


 結婚して3ヶ月、絹は代議士としての顔とは別に、「志村家の台所」という未知の戦場に日々立たされている。包丁の刃はよく滑るし、塩加減は定まらない。それでも、志村は黙々と箸を動かしてくれる。


「まあ……まずくはない」


「ありがとう……もっと修行します」


 そう言いながら、二人は笑った。




 戸籍上は「志村絹」。だが今までの知名度もあるので、政治の世界では今まで通り「川戸絹」を通称としている。演説会や新聞記事では旧姓、家では新しい姓。二つの名前を行き来するうち、絹はどちらも自分であるような、不思議な感覚が芽生えていた。


 ある日、絹は、いつも通り議員会館の自室で演説草稿を直していた。原稿用紙を3枚目に差しかかったあたりで、急に胃のあたりが波打つように気持ち悪くなり、ペンを置いて席を立った。


「……これは、もしかして……」


 週末に医院で診てもらい、医師の顔がほころんだとき、絹は深く息をのんだ。


「五週目です。冷えに気をつけて、あまり無理はなさらぬよう」


「……ありがとうございます」


 帰る道すがら、絹の脳裏をよぎったのは政治のことではなかった。子ども、母親になること、志村の顔。


 そしてその次に――議席のこと。


 結婚から1年ほど経っていたが、彼女が「家庭人」になることを真剣に想像したのは初めてだった。


 志村に報告した夜、彼は珍しく言葉を失っていた。


「本当か……ありがとう、絹」


 彼はまっすぐに、けれど少しぎこちなく絹の手を握った。その指先に微かな震えがあったことを、絹はずっと忘れなかった。


 だが、喜びはすぐに現実に打ち砕かれる。


 議会の事務方に妊娠を報告し、産前産後の休暇を申し出ると、戻ってきた答えは素っ気ないものだった。


「議員には産休制度はありません。そもそも、前例がありませんから……」


「ない?」


 絹は声を上げそうになったが、堪えた。


 前例がない。制度がない。

 それは、かつて女性参政権がなかった時代と同じ論理だった。


「出産するには病休扱いか、それとも議員辞職をするか」


 そう告げられたも同然だった。


 夜、絹はいつになく無言だった。志村も気配を察し、夕食の準備をしながら様子をうかがっていた。絹の口から言葉が出たのは、湯気の上がる味噌汁を二人ですすっているときだった。


「産休が……無いのよ」


「……え?」


「議員に、産前産後休暇の制度が存在しない。国をつくる立場の私が、自分の身体と子供を守る制度の外にいる」


 志村は箸を置いた。


「それは……」


「皮肉よね。でも、現実なの」


 絹は眉を寄せ、しばらく俯いていた。


 当時、1911(明治44)年に制定された工場法では、5週の産後休業を定め、その後、産前4週産後6週に拡大されてはいた。また、文部省は1922(大正11)年に、女性教員・保母に初めて産前産後の有給休養を認めるよう訓令を発していた。

 しかし、産休制度はまだまだ不十分であった。


「でも、辞職はしない。絶対に。私が議席を持ったまま出産すれば、それが制度を変える力になる。そう思ってる」


 志村は絹の目を見た。そして静かに、深く頷いた。


「なら、俺は支える。何があっても」


 それは、短いが重たい約束だった。


 そして、その決意のまま、川戸絹は日本の女性代議士として初めて、在職中に出産を迎えることになる。


「女性は結構したらみんな、こんな感じなのかしら……?」


 こんな感じ——絹の腹は日に日に重くなり、階段の上り下りにも息が上がるようになってきた。


  1933(昭和8)年10月17日、男子が産声を上げた。(まこと)と命名した——志村誠、絹と志村清との間の一粒種である。




 出産からひと月後、絹は子守を雇って登院した。


 その日の朝、春の光がまだ柔らかい時間帯に、絹は小さな寝息を立てる赤子の頬にそっと唇を寄せた。


「今日はね、お母さん、大事な質問に立たなきゃいけないの。代わりに『お千代さん』とお留守番しててね」


 彼女の傍らには、30代半ばの落ち着いた女性、佐川千代がいた。もともとは絹が普選運動の時に知り合った元・教員。近所に住んでいる縁で、今は「家政と育児の専門家」として、絹の家に来てもらっている。


「議場へ行かれるなら、胸は搾っていったほうがいいですよ。張ると苦しくなります」


「わかりました……それにしても、登院と授乳の両立なんて、法律に書いてあったかしらね」


 絹の言葉に、千代は軽く微笑んだ。


「これから書いてもらうんでしょう。先生の仕事は、まだその途中ですよ」


 その日の本会議は、教育予算案の審議だった。


 議場に入ると、同僚議員たちが視線を向けた。


「お、戻ってきたな」


「あの人、産んだんだって」


「若手婦人代議士様も、もうお母さんか」


 ひそやかな声があちこちで交わされる。

 絹は真正面を見据えて、一礼し、席についた。

 誰に何を言われても、今は議員としての役割を果たすだけだ。


 だが、議会に出席しながらも、頭の片隅では「おっぱいの時間まであと何分」と数えてしまう。


 昼休み、絹は正装に身を包み、会館の廊下をまっすぐに歩いた。胸の奥には、ミルクを求めて泣くかもしれない息子の声が、実際よりずっと大きく響いている気がした。


 トイレの個室の中で、絹はこっそり搾乳していた。子どもを家に残して登院する母親の姿は、国会の制度にも、建物の設計にも、どこにも想定されていなかった。

 紙袋の中にガーゼと小瓶を隠して持ち込み、急いで処理をする。

 ドア越しに誰かが近づく音に、反射的に身体がこわばる。


 ――この不自由を、次の世代には背負わせたくない。


 そう思いながら、彼女は袖をまくり、小瓶のキャップを締めた。


 その日の質問で、絹は予算案に紛れて「育児と労働」「保育制度」「母性保護」の必要性を訴えた。明文化された制度の背後にある「暮らし」と「命」の重さを、彼女の言葉が淡々と、しかし明確に伝えていく。


 演説が終わると、与党席からは苦笑が漏れ、野党席からは拍手が起きた。

 だがその場にいた誰もが、「何かが変わり始めている」空気を感じていた。


 夜。帰宅すると、志村と千代が子どもを沐浴させていた。

 小さなあんよが湯の中ではしゃぎ、絹の顔を見つけて笑った。


「あら……いい子にしてた?」


「泣いたけど、私が歌をうたったらすぐ寝ましたよ」


「よかった……」


 絹はそっと子どもを受け取り、まだほんのり温かい肌に頬をすり寄せた。


「制度がなくても、法律が追いついてなくても、私は議員として、母として、やっていくわ」


 小さく、けれど確かに、そう誓った。


 やがて誠は元気に歩き出し、そして——イヤイヤ期に突入した。


「いや!」


「誠、もうお風呂の時間よ」


「いやぁぁ!」


 議会で政友会の反対に遭うより、わが子の全力拒否の方がずっと手ごわい。


 それでも絹は、母であることと議員であることの両方を諦めなかった。


 後年、絹は次のように回想している。


  ——私はあの頃、子供が大きくなっていく傍らで、志村が読み上げてくれる新聞 

  記事を、洗い物をしながら耳で拾っていました。ドイツの新しい政権、ヒトラー 

  という男の経歴、熱狂する群衆……。

   その時の絹は、まだ遠い国の出来事として聞き流していたのです。でも、後で 

  思えば、それは嵐の前の静けさだったのです。

  私はあの頃、後年ドイツがあんなことをするなんて思ってもみませんでした。

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