第34話 志村
絹が東京へ戻ってから2、3週間が過ぎた——。
1932(昭和7)年秋、夕暮れの東京。
街路樹の葉が、柔らかい陽光を受けて黄金色に輝く。風は冷たくもなく、木々の間を通り抜けるたびに、落ち葉の香りがかすかに漂った。銀座通りの歩道には、秋の装いの人々がそぞろ歩き、上品な帽子やショールが季節の移ろいを感じさせる。
空は澄み渡り、淡い藍色から夕暮れにかけて橙色に染まる。その色彩のグラデーションを、瓦屋根や洋館の屋根が静かに受け止めていた。路面電車の鈍い音が遠くから聞こえ、人々の談笑や下駄の音と混ざり合う。
日本橋川の水面には、秋の光が反射してきらきらと揺れ、川岸に並ぶ柳の影がゆらりと揺れ動く。空気はひんやりとして、温かな茶や酒の香りが町の小路からもれる。街角の小さな花屋には、コスモスや菊が並び、通行人の目を和ませていた。
東京の街は、喧騒や激動とはまだ遠く、穏やかな日常が流れていた。人々は忙しくはあるが、自然の美しさや季節の香りに目を止める余裕を残している。絹が歩くその道も、代議士としての重責を背にしつつ、ほんのひととき、秋の柔らかな光と風に心を休めることを許していた。
志村は絹を連れて、静かな庭園のベンチに腰を下ろした。街の喧騒から離れたその場所は、どこか二人だけの時間が流れていた。
志村は少し緊張した面持ちで、絹の手を静かに握った。
「絹さん、ずっと考えていました。君の強さ、熱意、そして優しさに惹かれてから、もう随分になる」
絹は驚いたように顔を上げ、彼の瞳を見つめる。
「志村さん……」
志村は続けた。
「君はただの記者でも、活動家でもない。政治家として、そして一人の人間として、一緒に歩みたいと思う。支え合いながら、これからの時代を乗り越えていきたい」
「君の心に今も戦死された彼がいること、僕は知っている。だけど、彼もきっと祝福してくれる。だから僕は、君と共に未来を築くことを誓うよ。彼にも祝福してもらえるように頑張るよ」
絹はしばらく沈黙した。激動の時代に、どこか不安もあった。
だが志村の誠実な瞳と、温かな手のぬくもりに、彼女の心は静かに揺れ動いた。
「……私も……志村さんとなら」
と、絹はようやく言葉を紡いだ。
川戸絹は晩年、この時のことを回想してこう述べている。
——あの時、私たちはまだ若くて、未来に何が待っているのかなんて、誰にもわ
からなかった。世界は不安定で、先行きは霧の中。
でも、志村がそばにいてくれたからこそ、私は怖がらずに一歩を踏み出せた
のだと思う。彼の手のぬくもりが、言葉にならない勇気をくれた。
あの夜の静けさの中で、私はただただ信じた。私たちは違うけれど、互いに補
い合える。
そして、どんな嵐が来ようとも、二人なら乗り越えられると。
その信念が、私の政治の原動力にもなった。志村と共に歩んだ道は、決して平
坦ではなかったけれど、確かな希望があったのよ。
だが現実は、なかなか簡単にはいかなかった。
議会、新聞、支持者、そして「女性代議士」としての責任。
そのどれもが、絹に「家庭」を持つ時間を許さなかったからである。
ある晩、夕刻、絹は志村と二人で銀座の裏通りにある洋食屋で静かに食事をした。
「ええと、今日は……ひとつだけ、お願いがあるの」
「なんだい?」
「議会や新聞では、これまでどおり『川戸絹』の名で通したいの。本名はもちろん志村絹になるけれど、政治の場では――あの名で戦ってきた私の責任がある」
当時の法制度(戸主制・民法)では、結婚後した女性は必ず夫の姓を名乗る必要があった。
志村は少し黙っていたが、やがて頷いた。
「君らしい。名前ひとつにも、君の覚悟がにじんでる」
絹は笑った。
「女が自分の名を持つことは、『わがまま』と呼ばれるでしょうね」
「でも、そのわがままが国を変えるのかもしれないよ」
ふたりの笑みが静かに重なった。
外では、夕立が通り過ぎたあとの路面に灯が滲んでいた。
栃木県宇都宮の志村家での挙式は、秋の柔らかな陽射しの中で執り行われた。親族とごく親しい友人のみの結婚式。
白無垢姿の絹の横顔は、婦人代議士ではなく、ひとりの女性としての柔らかな光を帯びていた。
志村の父は旧家の当主らしく、静かに誇りを滲ませ、絹は白無垢に身を包んで神前に立った。かつて記者として結婚式の取材もした彼女が、今は自らその中心にいる。玉串を捧げる手が、わずかに震えた。
東京に戻ると、政界や新聞界の友人知人たちが集う結婚記念パーティが開かれた。会場はさすがに帝国ホテルとまではいかなかったが、小さいながらも格式のある瀟洒な雰囲気の鳳凰館ホテルが選ばれた。装花には白百合と淡桃のカーネーションがあしらわれ、祝電は山のように積まれている。
民政党の若槻禮次郎や濱口雄幸をはじめ、陸海軍の軍人から婦人運動家らからの祝辞が次々に読み上げられ、賑やかな拍手が続く。
川戸絹は、緊張の面持ちでマイクの前に立ち、柔らかな声で言った。
「新聞社を辞してからの数年、私は政治の現場に身を置き、学ぶことばかりでした。志村さんは、そんな私を支え、時に叱り、時に励ましてくれた人です。これからは――共に歩みながら、この国の行く末を見届けたいと思います」
列席者の中には秘書の桐山薫の姿もあった。桐山はグラスを掲げながら、ひとりごちる。
「……あの方は、どんな立場になっても戦うんだなぁ」
絹のかつての職場である「東京タイムス」の面々や志村の内務省の上司、そして立憲民政党の代議士たちが次々と姿を現すに及んで、いつの間にやら、まるで政治パーティのような様相を呈した。
祝辞の間に政治談義が交わされ、華やかな宴席は熱気に包まれていった。
絹が微笑みながらも少し呆れたように、志村に囁いた。
「ねえ、これ、結婚式よね……立会演説会じゃないんだから」
志村は苦笑いしながら答えた。
「まあな。でも、これが俺たちの世界だ。君もこれからは、こういう場で顔を売らなきゃならない」
絹は周囲の議員たちが互いに名刺を交換し、政治談義に花を咲かせる様子を見て、フッと目を細めた。
「でも、みんなこうして政治を支えているのね……不思議と、怖さより頼もしさを感じるわ」
志村は真剣な目で絹を見つめて言った。
「そうだ。君は、ただの一婦人じゃない。政治家として、これから色んな壁を乗り越えていく。俺も全力で支えるよ」
絹は頷きながら、心の中で静かに決意を新たにした。
「そうね。これからも、私は私の信じる道を行く……あなたと共に」
二人の手がしっかりと絡み合い、周囲の喧騒が遠のいていくようだった。
やがて絹は、ふと志村のポケットに手を伸ばし、そこに入っていた小さな手紙を取り出した。
「これ、何?」
志村は一瞬戸惑いながらも微笑んで答えた。
「さっき、俺の部下から渡された。今日の結婚式の祝辞をまとめたものだ。少し堅苦しいかもしれないけど……君のことを話す言葉がたくさん詰まっている」
絹はそっとその手紙を開き、読み進めた。そこには彼女の新聞記者としての実績や、政治家としての志、そして何よりも彼女の人柄を称える温かな言葉が綴られていた。
読み終えた絹は、目を潤ませながら志村を見つめた。
「ありがとう……こんなに私のことを理解してくれる人がいるなんて、思ってもみなかった」
志村は優しく絹の手を握り返した。
「君が誰よりも苦労して、誰よりも真剣に向き合ってきたからだよ。これからも、共に歩んでいこう」
その時、会場の一角でにぎやかな笑い声が響いた。
「おっと、堅い話はやめて、さあ祝杯を上げよう!」
民政党の小泉又二郎がグラスを掲げ、場の雰囲気は一気に華やかに変わった。
絹はその光景を見て、深く息を吸い込み、穏やかな笑みを浮かべた。
民政党議員の一人が、絹の前へやってきて話しかけた。
「志村さんとのご結婚、心よりお慶び申し上げます。ところで、農村改良の件、次期会議での進捗はいかがですか」
「来月の非公式会合で具体案をまとめる予定です。土地制度だけでなく、教育や道路整備まで含めて議論いたします」
来賓の官僚は、名刺を交わしながらも手元のメモ帳にそっと走り書きする。形式上の祝辞に見えるやり取りも、実際には政策課題の情報交換の場となっていた。
別の若手議員が絹に近づき、ひそやかに耳打ちする。
「川戸先生、今日の席で皆さん、随分と関心を示していますね。金輸出禁止後の景気回復や南西アフリカ視察のお話も注目されております」
絹はにこやかに頷きながらも、目は冷静に場を見渡す。白いテーブルクロスの向こうで、政党の垣根を越えて、来賓たちが名刺を交わし、握手をかわし、ささやきあっている。談笑の合間には、政策の進め方や次期会議の段取り、農地改革や教育整備の話題が、静かに流れ込んでくる。
絹は心の中で、こう思った。——今日の祝宴は、単なる結婚式ではない。ここもまた、国の未来を形作る政治の小さな舞台なのだ、と。
料理が順次運ばれ、銀のトレイに盛られた秋の食材がテーブルを彩る。銀杏や栗の香りが穏やかに漂い、列席者たちは箸を手に取りながらも、名刺交換や会話を絶やさない。中には、議論が自然と熱を帯びる場面もあった。
「川戸先生、この資源開発案ですが、教育整備との連動は具体的にどうお考えです?」
と、農林省の役人が問いかける。
「現地の学校や職業訓練施設を整備し、鉱山や農業の技術を住民に提供することです。単なる資源採掘で終わらせてはいけません」
絹は穏やかながらも力強く答える。その言葉に、官僚たちは納得の頷きを返した。
それでも絹は、招かれた「東京タイムス」記者たちの前では、冗談めかしてこう言った。
「本名は志村絹になりましたが、皆さんの知っている『川戸絹』も、まだ退職するつもりはありませんから」
周囲に笑いが起こり、フラッシュが焚かれた。
だが、その瞳の奥には、絹の確かな決意が宿っていた。
――私は変わらない。
名が変わっても、志が変わることはない。
絹は志村に向かって言った。
「これが私たちの新しいスタートね」
志村も笑顔で頷いた。
「そうだ、ここからが本当の勝負だ」
志村は絹の手を握りながら、周囲の賑やかさを気にせず静かに語った。
「絹さん、僕は君と共に歩むだけでなく、政治家としての伴走者でもありたい。君の志を理解し、支え、時には盾になる。僕も国の未来に責任を持つ身として、決して逃げず、目をそらさずやっていく」
その言葉には、結婚という個人的な幸福だけでなく、官僚としての覚悟と、夫としての誠実さが滲んでいた。絹はその瞳を見つめ、二人の未来がただの祝宴ではなく、互いに支え合いながら挑む道であることを改めて実感した。
二人は肩を並べて、これからの道を静かに見据えた。
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