第33話 蒼き海、赤き大地
1932(昭和7)年2月20日。第18回衆議院議員総選挙でも、絹は当選した。
しかし、与党・民政党は、世界経済の影響を受けて経済が不況からなかなか脱却出来ないことに加えて、安達謙蔵派が離党して分裂していたこともあって大敗、濱口内閣は退陣して政友会の犬養毅内閣が成立した。
政友会は301議席を獲得して予想を上回る圧勝を収めたが、総選挙後、中橋徳五郎内相の病気辞任を契機として党内抗争が起こり、これを収拾するのに犬養が手間取ったことから、高齢の犬養の政権掌握力が低下していくことになる。
一方で、民政党は146議席と100議席以上減少させる惨敗を喫し、党勢の低下に歯止めをかけられなかった。
犬養内閣の高橋是清蔵相は、直ちに金輸出を再禁止し、日本は管理通貨制度へと移行した。高橋は民政党政権が行ってきた緊縮財政を180度転換し、積極財政策を採った。
金輸出再禁止により、円相場は一気に下落し、円安に助けられて日本は輸出を急増させた。輸出の急増に伴い景気は急速に回復し、1933(昭和8)年には他の主要国に先駆けて恐慌前の経済水準に回復することとなる。
それは総選挙後、すぐのことだった。
3月1日、まだ春浅い横須賀の港。冷たい潮風のなか、絹は海軍の練習艦隊「磐手」「浅間」が沖合に停泊する埠頭に立っていた。
絹の傍らには、長身のアフリカ人秘書ヨハネス・カンガ・ティチェミサが控える。日本の委任統治領である南西アフリカへ超党派の議員団での視察行。しかも,
この旅は単なる視察ではなかった。
「蒼いですね、海が」
と、絹の横でカンガが呟いた。
「ええ。日本を離れる時は、いつも胸の奥が疼きます」
「キヌさんはお忙しい。英国の次は南西アフリカですから……」
絹たちは、海軍省の便宜で今回の練習艦隊の航海に便乗させてもらうことになっていた。前海軍政務次官でロンドン軍縮会議にも出席した絹に対する慰労の側面もあっただろうか。
ちなみに練習艦隊とは、海軍兵学校を卒業したばかりの若者たちが乗り込む、いわば「海の教室」である。
練習艦隊司令官・今村信次郎中将は、海軍軍人ではあるが柔和な物腰の人物だった。挨拶の席で、彼は絹たちに笑いながらこう告げた。
「艦の上では、政治家も詩人も、ただの『乗員』です。波は地位も肩書も知りませんからな」
その言葉に、絹は小さく頷いた。そう、いま必要なのは、立場を離れてこの目で世界を見つめることだ。
艦が出港すると、乗員たちは即座に動き始めた。甲板での号令、整然とした操艦訓練、食事や掃除まで、すべてが訓練の一部である。兵学校59期の若者たちは、まだ少年の面差しを残しながらも、きりりとした制服姿できびきびと動いていた。
その中に、ひときわ眼光の鋭い少年がいた。名を杉野少尉候補生という。
絹は、試みに訊いてみた。
「杉野君、兵学校では何を一番に学びましたか?」
「はい。人を導くためには、自分がまず一番に従うということです」
その言葉に、絹は静かに驚いた。これはただの兵士ではない。国家を背負う器量を育てられている若者たちだ。
夜、司令官室に招かれた絹たちは、今村司令官と夕食を共にした。今村は、グラスの縁を見つめながらぽつりと語った。
「教育とは、『生き方を教える』ことです。技術や知識だけでは足りない。何のためにそれを用いるのか、それを教えねば」
「その言葉、海軍にいるからこそですね」
「いえ、むしろ軍にいるからこそ、でしょうな。銃も艦も、それを使う人間の心が問われます」
絹は何となく、玉川学園の小原國芳と会話を交わしているような気分になった。
その夜、夕食後に甲板上で爽やかな海風を受けながら、絹は数名の少尉候補生たちと談笑していた。
「議員として国の未来を考えるとき、軍の役割は常に議論の的になりますね」
と絹。
「はい。私たちは戦うために訓練していますが、それはあくまで国の平和を守るための準備です。戦争は最後の手段に過ぎません」
と杉野。
別の士官が口を挟んだ。
「しかし、有力な軍備が外交交渉の強みになることもありましょう」
「確かに」
と、絹は答えた。
「それでも私は、政治が軍を統制し、軍は政治の意志を実現するためにあるべきだと考えます。国民の暮らしを守るためにこそ、政治と軍は協調しなければなりません」
政軍協調の議論は深まり、若い候補生たちは徐々に絹の政治的視点と現実主義を理解し、尊敬を込めて耳を傾けた。
別のある日、夕食後には、杉野の方から絹に話しかけてきた。
「実は、川戸先生が三重県のご出身と伺いまして。自分も河芸郡の出であります」
絹の表情が、ぱっと明るくなった。
「まあ、そうだったの。河芸郡のどこ?」
「栄村であります」
「そうなの。私の実家は鈴鹿郡川崎村よ」
「存じております。あのあたりは、冬の鈴鹿おろしがきついですよね。うちは海が近いぶん、潮気が骨に染みます」
「ええ、そうなのよ。だから、東京の冬なんて、こっちからすると生ぬるいくらい」
二人は思わず笑い合った。
そのやりとりを少し離れた場所で聞いていた他の候補生たちは、意外そうに目を交わした。
「それにしても杉野というと、あの――」
絹が言いかけると、候補生は苦笑いで言葉を継いだ。
「はい、よく言われます。日露戦争の広瀬中佐の部下、杉野兵曹長の親戚筋であります」
「まあ……英雄じゃないの」
「いえ、先に行方不明になった側ですからねえ……」
肩をすくめる若者の笑みには、どこか照れと誇りが同居していた。
「英雄ですよ」
絹は、柔らかい口調で言った。
「行方不明だったとしても、名を残すことができた人は幸せです。生き残った人の記憶に残る限り、本当の死ではないわ」
杉野候補生は一瞬、真面目な顔になり、そして小さく頷いた。
「……ありがとうございます。先生の言葉、胸に沁みます」
甲板の外では、波の音が低く響いていた。
郷里の浜風と同じ潮の香りが、二人の間をそっと通り過ぎた。
航海は東南アジアを経て、順調に進んだ。シンガポールではイギリス海軍との儀礼的な交流があり、絹は英国士官の丁寧さに一驚を受けた。オーストラリアでは現地邦人との対話を果たし、移民政策や労働問題にも耳を傾けた。
艦上では、若者たちの生活が続く。ある日、カンガが若い候補生たちに囲まれていた。
「おまえ、日本語うまいな!」
「こんな肌の色、初めて見た!」
多少の無礼もあったが、カンガはにこやかに応じた。
「肌の色は変えられませんが、敬意は言葉で伝えられます」
絹はその姿を遠くから見つめ、涙がこぼれそうになった。彼は、言葉と笑顔で「他者」を乗り越えている。
5月、いよいよ練習艦隊はアフリカ西岸、ウォルビス湾沖に到達した。甲板に立った絹は、彼方に見える荒涼とした海岸線に目を凝らし、傍らに立っているカンガに話しかけた。
「ここが……あなたの故郷なのね」
カンガは小さく頷いた。やがて絹の視察と、カンガとの別れの時が迫っていた——。
ウォルビス湾に上陸した絹たちは、総督府の黒塗りの自動車でスワコプムントの官舎へと向かった。乾いた風と赤土の大地、遠くに見える砂丘と、点在するユーフォルビアの木々。日本とはあまりに違う風景に、絹は胸を詰まらせた。
「これが、あなたの国の匂いなのね」
「はい。懐かしいですが、少し変わりました。日本の建物、鉄道、電信線……いろいろと」
南西アフリカ。かつてドイツの植民地であったこの地は、大戦後に国際連盟の委任統治領として日本の統治下に置かれている。
総督府の迎えは丁重だった。出迎えた小柄な総督・梨羽男爵は、柔らかな笑みを湛えて絹に挨拶をした。
「ようこそ、南西アフリカへ。今やここは、アフリカにおける『日本の試験場』と言われております」
総督府庁舎の応接間には、日本の掛け軸や七宝焼が飾られ、畳敷きの一室もあった。
現地で生まれた日本人の子どもたちは、「モモタロウ」や「ハナコ」といった名を与えられていた。
「この子は『サクラ』。こっちは『ゴロー』です」
幼い子が日本語を話す様に、絹は苦笑した。愛情ゆえの命名ではあろう。しかし——。
「名を与えることで、責任も背負わねばなりませんね」
「……はっ、畏れ入ります」
絹のひと言に、梨羽は居住まいを正した。
滞在中、絹は幾つかの企業施設や鉱山開発地を視察した。ダイヤモンド、金、銅などの有望な鉱脈は確認されているものの、採掘は一部を除いてまだまだ順調とはいえなかった。
「資金も人手も、技術も……何もかもが足りません」
と、現地で奮闘する技師・藤倉は語る。
「ですが、一度設備が整えば、この地は間違いなく『未来の日本』を支える背骨になります。日本経済を成長させる鍵は、この大地にあると信じています」
絹は頷いた。資源が国家の未来を決する時代。それを握るのは、銃でも演説でもなく、鍬と測量機なのかもしれない。
とうとう視察の最終日がやってきた。
午後の陽が傾きはじめたウォルビス湾の浜辺に、金色の波が静かに寄せていた。
絹とカンガは、ほとんど言葉を交わさぬまま、砂の上をゆっくり歩いていた。
「……もう行くのね」
絹の声は、潮風にかき消されるようにかすかだった。
「はい。村まではまだ二日の道のりです。父母が待っています」
カンガの瞳は遠くの赤い砂丘を見つめていた。その奥に、彼の少年時代の記憶があるのだろう。
「あなたに会わなければ、私はただの『物』でした。この国に戻ることすら叶わなかったでしょう」
そう言ってカンガは深く頭を下げた。
「名前を取り戻したのね……ヨハネスではなく、カハンガとして」
「ええ。日本で学んだことを、この地のために使いたい。いつか、あなたの国と並んで歩けるような国を作りたいです」
絹は、唇をかすかに噛みしめた。
「人を導く力というのは、言葉ではなく、手の温もりなのね。あなたは、それを持っているわ」
ふたりの間を、乾いた風が吹き抜けた。
遠く、砂丘の稜線を橙に染めながら、太陽がゆっくりと沈んでいく。
「カンガ、さようなら……」
絹が手を伸ばすと、カンガはその手を両手で包んだ。
大きく、温かい掌だった。
「さようなら、キヌさん。……日本での日々は、私の誇りです」
そのまま、カンガはゆっくりと背を向け、赤い砂の道を歩き出した。
風が彼の衣をはためかせ、足跡だけが長く伸びていく。
絹はその背をいつまでも見送っていた。
涙が頬を伝い、乾いた砂の上に落ちると、すぐに消えていった。
「生きて……そして、いつかまた会いましょう」
夕陽は完全に沈み、空には群青が広がった。
蒼い海の彼方には日本があり、赤き大地の下には、まだ眠る未来があった。
帰路の艦内。絹は艦室で書き物をしていた。
「カンガ……」
と口にしかけて、はっとする。
彼はもう、ここにはいないのだ。
それにしても、南西アフリカは日本から遠すぎる。あの地は、近い将来、独立することになるのではないか——そんな予感が胸をよぎった。
その時、マストから大声が響いた。
「おおい、日本だ、日本が見えます!」
絹は立ち上がり、急いで甲板に出た。視界の先、緑の島影がかすかに見える。
それは、海に浮かぶ祖国日本の姿だった。
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