第30話 土に根ざす国
五月雨が町を湿らせていた。議員宿舎の窓に雨粒が細く伝い、ピタリと張りつく静けさの中で、絹は書類の束に目を通していた。母子保護法改正の草案、教育制度の見直し案、そして内務省から回ってきた農村実態調査の概要書──すべてがバラバラのようで、しかし根っこは一つに見えていた。
「貧困よ……やっぱり」
ふと呟いた声に、少し離れた机でペンを走らせていた桐山薫が顔を上げた。
「貧困……ですか?」
「そう。母子家庭の困窮も、小学校にろくに通えない子供がいることも、軍が少年兵に期待する理由すらも。突き詰めれば、農村の貧困が土台にあるのよ。そこを変えなければ、いくら法律を積み上げても砂上の楼閣だわ」
翌日、絹は内務省に志村清を訪ねた。廊下の奥、分厚い書棚と青い絨毯の応接室に案内されると、志村はすでに手元に書類を用意していた。
「君なら、来ると思っていたよ」
眼鏡の奥の瞳が、どこか嬉しそうに光る。
「君が提出した母子保護法の改正案、よく読んだ。だが、やはり農村の構造を変えねば、実効性は限られる」
「そう思っていた……そっちの、農地改革案の作成は進んでいるの?」
「内務省と農林省で動きがある。とはいえ、現状は調査段階だ。小作制度の撤廃、自作農の育成を軸に据える方針だ」
絹の目が輝く。
「具体的には?」
「いくつかの県でモデル地区を選定し、地主に対する買収交渉と並行して、小作人への分与制度を整備する。ただし、問題は山積している。土地の測量も曖昧だし、抵抗も根強い」
「だからこそ、政治の側からも支える必要があるのよ」
絹は立ち上がり、志村の机の上に自分の手帳を開いた。
「有志を募って、農地制度改革に関する非公式の意見交換会を立ち上げたいの。議員、官僚、学者、それに軍からも参加してもらう。名称は……」
「『農村改良研究会』……で、どうだろう?」
少し驚いて、絹は微笑んだ。
「考えていたの?」
「いや、君の顔を見ていると、自然と浮かんできた」
頬が火照るのを感じた。志村の声には、官僚の論理と冷静さがあったが、その奥にある温度が、絹の胸の奥にじんわりと沁みていた。
二週間後、第一回の勉強会が開催された。場所は虎ノ門にある小さなビルの貸会議室。集まったのは、絹が声を掛けた立憲民政党をはじめ超党派の若手議員5名、内務・農林両省の中堅、若手官僚3名(その中には志村清も含まれていた)、東京帝大と私学の農政学者、そしてなんと陸軍から、この春に東京歩兵第3聯隊長となったばかりの永田鉄山歩兵大佐が姿を見せた。
「私は軍人だが、陸軍兵士の3分の2は農村出身だ。農村を立て直すことが、軍の体質を変える道であると信ずる」
永田の言葉が終わるや、会場の空気がわずかに波立った。
若手議員が隣と目を見交わし、小声で何事かをささやく。
――陸軍が内政に口を出そうとしているのではないか?
そんな疑念が漂ったのだ。
絹は、永田が農村の疲弊を憂慮していることは、わかっている。だが、周囲がその気持ちを理解しているとは限らなかった。
この時、川戸絹は政治家として、社会の根幹にある農村の近代化こそが国の安定につながると確信していた。農地改革は彼女の重要な政策の柱だった。農民の生活を安定させ、貧困や不満を和らげる。これはこの政策の「表」の側面である。
一方、官僚たちはこの政策が及ぼすであろう「裏」の結果――治安対策――に注目していた。すなわち、過激な革命運動やファシズム的な暴力の芽を摘み取るということである。そこに官僚側と協力する余地がある。
絹は志村の存在に大きな信頼を寄せていた。彼の冷静な判断と現実的な視点は、理想を追求しながらも実効性のある政策を進めるうえで欠かせないものだった。
農地改革を成功させ、日本の農村に新しい息吹を吹き込むこと。それが、絹の政治家としての志であり、国の未来を切り拓く鍵であった。
出席者全員の簡単な自己紹介の後、早速、志村が低く落ち着いた声で切り出した。
「まず、現状の数字を共有いたします。現在、自作農率は全国平均で34%にすぎません。農村の多くは小作に依存しています。問題は、それが単なる土地制度ではなく、生活全体を縛っていることです」
部屋には、幾人かの議員の頷きがあった。
「つまり、地主制度の維持は、労働力の再生産構造と一体化している、ということですね?」
と、ある議員がペンを握りしめたまま尋ねる。
「まさにその通りです。小作料は年平均で収穫の45%近くを占め、貨幣で支払う地域では高利貸との連携も指摘されています。このことは、個々の地主の良心ではどうにもならない構造です」
絹は頷きながら、ノートの端に走り書きをした。
——構造的暴力。それが農村の空気を殺している。
「農地の所有上限を定めるべきだと思いますか?」
と、民政党の若手議員が訊ねた。
志村は一瞬、間を置いた後、
「所有上限ではなく、貸付面積の上限規制を検討すべきです。土地所有そのものを規制すれば、都市部の中産階級にも波及しますから」
と、冷静に返した。
絹は、その言葉の背後にある計算の緻密さに、舌を巻いた。
——この人、ただの理論家じゃない。
実務の泥に足をつけた言葉だった。
「私の地元でも、小作農が『夢を持てる仕事じゃない』と口を揃えます。食べていける希望があれば、東京に娘を奉公に出すこともないはずなんです」
絹の声は、少しだけ震えていた。
「志村さん、私は農地改革で何を成し遂げたいのか、明確に言葉にしたいのです。まず、農地の所有と耕作の分離を進め、耕作する農民に直接権利を与えること。小作農が安心して土地を耕せるようにし、収穫の果実を公正に得られなければなりません……また、農村の生活基盤の充実も欠かせません。農業技術の普及、道路や水路の整備、そして学校教育の充実です。これらを合わせてこそ、農村の安定は実現できる。さらに、農民の負担を軽減する税制改革も必要でしょう。過度な小作料や借金に苦しむ農家が多すぎます。彼らの暮らしを根本から支え直すことが、日本の社会を健全にすることにつながるはずです」
永田は絹の言葉を黙って聞いていたが、無言で頷いた。
志村が口を開いた。
「川戸先生、その政策は理想的です。しかし現実には反対勢力も強い。地主層や保守派は既得権益を手放すまいと必死です。政治的な駆け引きや妥協も避けられません。また、予算をどう振り分けるかが課題です。ですので、次回は大蔵省側の担当も交えて会合を持つべきかと」
議員たちの間に、
「それがいい」
という声が上がる。
ここで永田鉄山歩兵大佐が発言を求めた。
「私は軍人として、多くの兵士たちを見てきた。その三分の二は農村の出身者だ。彼らの多くは、家が貧しく、学校にもろくに通えず、生活の糧を求めて軍隊に入ってくる。言わば、農村の困窮がそのまま兵士の生活に反映されている」
部屋に一瞬、静寂が訪れた。反軍的な若手議員の中には眉を顰める者もいた。
「もちろん、軍が内政に口を出すつもりはない。しかし現実を見てほしい。兵士たちは、国防の前線に立つためだけでなく、日々の生活のためにも戦っているのだ」
彼は資料を一枚取り、会場に広げた。そこには、出身農村ごとの兵士の生活状況が数字と写真で示されていた。
「家が崩れ、畑は荒れ、兄弟姉妹も働かなければ食べていけない。軍はその一部しか救えない。だが、もし農村が立て直され、生活が安定すれば、若者たちは希望を持って生きられる。兵士としても、国民としても、誇りを持って立つことが出来る」
彼の言葉は、初めこそ懐疑的だった議員たちの胸に、じわりと響き始めた。農村の現実と兵士たちの苦しみが、政策の必要性を肌で理解させるのに十分だった。
永田はさらに静かに言葉を添える。
「農地の改革、教育の充実、水路や道路の整備――これらは単なる経済施策ではない。若者が希望を持ち、国を支える力を育てるための基礎である。軍も、国も、そして何より人も、この恩恵を受けるのだ」
その瞬間、会場の空気が変わった。初めは警戒していた参加者たちの視線が、真剣さと共感に変わるのがわかった。絹もまた、永田の声を聞きながら、農村政策が国全体の安定につながる確信を新たにした。
非公式会合の初回は、予定よりも長引いた。
会の終了後、絹が資料を片づけていると、志村が静かに近づいてきた。
「絹さん、先ほどのご発言、私にはとても響きました」
「そう言ってもらえると、救われます。現場に通っても、実際の制度にどれだけ届くのか、不安になる時もあるので」
「届きますよ。誰かが橋を架け続ければ、いつかは渡る人が現れる」
そう言って笑った志村の笑みに、絹も思わず笑い返していた。
彼女は心の中でそっと呟いた。
——これは、ただの政策づくりじゃない。未来を変える種を蒔いているのだ。
会の後、絹は控室で志村と並んで座っていた。肩が自然と近づく距離にあることが、なぜか心地よかった。
「……君が立ち上げたこの会は、一つの転換点になるだろうな」
「私一人じゃ無理よ。あなたがいてくれたから、こうして形になった」
志村は黙って、しばらく何かを考えていた。そしてぽつりと口を開く。
「君は、国を愛しているね。人を、信じている」
「甘いかしら?」
「いや、希望だよ」
その一言に、絹は目を伏せた。言葉の奥にある感情を、今は受け止めきれなかった。
その夜、絹の部屋の明かりは遅くまで灯っていた。勉強会の議事録をまとめながらも、ふとペンを置いて窓の外を見つめる。雨は上がり、月が雲間から顔をのぞかせていた。
──志村清。
思えば、あの男に初めて会ったのは震災前だった。「東京タイムス」の取材記事。その後、メーデーの取材。震災の時は、大杉栄と伊藤野枝に関する情報もくれた。志村の冷静な判断力の中に、絹は人間としての芯の強さを見た。
それ以来、幾度となく会い、言葉を交わし、ともに働くようになっていた。
彼のことを、どう思っているのだろう?
まだ、それに名前を与えるのは怖かった。
けれど──
人の営みは、土に根ざしている。農村を豊かにし、人が誇りを持って生きられる社会をつくる。その先に、きっと「国」というものがある。そう信じている限り、彼となら同じ地平を歩けるかもしれない。
絹は静かにノートを閉じた。
夜はまだ深く、しかし確かに、夜明けへと向かっていた。
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