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絹の国  作者: 喜多里夫
第四章 代議士への道

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第29話 永田町に立つ

 当選後、地元の支持者たちにお礼に回った後、絹は家族に別れを告げると、カンガと桐山を伴って上京した。


 上京した絹が最初にしたことは、麹町の立憲民政党本部を訪れることだった。慣れぬスーツ姿に緊張しながら受付で名前を告げると、一足先にここへ来ていた川崎克が現れた。


「おめでとう、川戸さん」


「川崎さん、いろいろとお世話していただき、ありがとうございます」


 堂々と歩く川崎に連れられ、絹は階段を上り、大会議室へと向かった。


「あなたがここにいることを、不思議がる者もいるでしょう。ですが、時代の方がもう『婦人代議士』を求めている。堂々と胸を張っていなさい」


 大会議室に入ると、川崎はそこに屯していた数名の代議士に声をかけた。


「紹介しよう。三重一区から当選した川戸絹君だ」


 数名の代議士のうちの一人、小柄だが眼光の鋭い男が絹に近づいてきて右手を差し出した。


「神奈川二区の小泉(こいずみ)又二郎(またじろう)だ。聞いてるよ。鈴鹿のお嬢さんが、政友会を二人に抑えたってな」


「小泉先生?……あの2時間半ぶっ通しでやったとかいう伝説の『大演説』で有名な!」


 小泉又二郎は演説家として有名である。


「いやいや、俺のは吠えるだけだ。君は違う。言葉を『届ける』力がありそうだ」


と、小泉はニヤリと笑って言った。


「まっ、君が当選したことで、うちの連中が『婦人票の勉強会』を開くはめになったよ。ありがたいこった」


一同が笑い、絹もほっと肩の力を抜いた。




 総選挙後初めての議会になる第55回帝国議会は、1928(昭和3)年4月23日に開会された。選挙の結果、与党の立憲政友会は218議席、野党第一党の立憲民政党は216議席と勢力は伯仲していた。


 登院の朝、国会議事堂前には、初の女性代議士たちを見ようと人だかりができていた。

 その中を、川戸絹はゆっくりと歩いた。

 背筋を伸ばし、コートの襟を正して。

 その眼差しは、冬の空に向かって凛と澄んでいた。

 待ち構えていた新聞記者たちが駆け寄ってくる。かつての同僚、他社の知人たちもいる。「東京タイムス」政治部の伊藤と目が合うと、一瞬互いに微笑んだ。


「記者時代とは立場が変わりましたね。新聞に書いていたことを政治で実現する覚悟は?」


 絹は目を輝かせ答えた。


「そうです。言葉だけでなく、行動を。皆さんの取材と批判は、私の最大の糧です。記者と議員、どちらの役割も大切だと心に刻んでいます」


 そう言うと、また歩き始める。


 絹の右隣には、桐山薫。地味な黒い詰襟に身を包み、手帳を胸ポケットに差して立っている。顔つきは硬いが、その目は以前のように怒気に染まっていない。


 左隣には、黒人青年、ヨハネス・カンガ・ティチェミサ。欧州大戦後に日本の委任統治領となった南西アフリカ出身。留学と称して連れてこられた日本で、港湾作業に従事させられていたところを絹が見出し、今や彼女の影のように寄り添っている。今日も口数は少ない。


「緊張してますか?」


と、桐山が訊いた。

 絹は少しだけ微笑んだ。


「ええ。でも、こういう緊張は、逃げるものじゃないわ。踏み出すための呼吸みたいなものよ」


 桐山は黙ってうなずいた。

 初めて出会ったあの日、絹に短刀を突きつけようとして自分は制せられた。それからの数週間、彼女と何時間も話をし、政治資料を読み漁り、秘書としての仕事に身を置くことで、自分の「信じていた国」がどれほど小さかったかに気づかされた。


「この石段……よく磨かれてますね」


 カンガが低く言った。


「きっとね、ここを上る人たちが、いつも靴を鳴らして通ってきたからよ」


 絹が言った。


「でも、私は今日、ここに『沈黙の靴音』を連れていくつもり」


「沈黙の……?」


「これまで語られなかった声。議事録に載らなかった人生……誰にも聴かれなかった、けれど確かに生きていた人々のこと」


 絹は石段をのぼり始めた。

 桐山とカンガがついてこれるのは、ここまでである。

 一段、また一段と、絹の靴音が大理石に吸い込まれていく。

 遠くの空には薄陽が差し、議事堂の尖塔に鈍く光が反射していた。


 川戸絹の記者から代議士への転身については、当時も後世も多様な評価が存在する。報道活動における独自の視点と筆力を維持すべきだったとする批判もあれば、女性初の普通選挙期における議会参加の意義を重視する肯定的な見解もある。この転身が昭和初期の議会政治に与えた影響は、議論の対象となると同時に、政治史上の重要な事例として位置づけられることが多い。




 その日の夕方、少し冷たい風が街路樹の葉を揺らしていた。

 絹は、待っていた志村の姿を見つけた。


「絹さん!」


 志村は歩み寄り、真剣な表情で彼女を見つめた。


「選挙期間中に暴漢に襲われたと聞いたけど……大丈夫だったのか?」


 絹は落ち着いた声で答えた。


「ええ、幸いカンガが間に入ってくれて、無事でした。それに……その男の子も私の仕事を手伝ってくれることになったのよ」


 志村はほっと息をつきながらも、眉をひそめる。


「君らしいが……政治の場は危険も多い。今まで何人もの政治家が暗殺や暗殺未遂の目に遭ってきた。正直言って、君にはあまり無理をしてほしくない」


 絹は志村の目をまっすぐに見返し、微笑んだ。


「心配してくださってありがとうございます。でも、これが私の戦いです。恐れるわけにはまいりません」


 志村はしばらく黙っていたが、やがて優しく語りかけた。


「それでも、君には守るべきものもある。無理をせず、時には頼ることも覚えてほしい」


 絹は頷き、柔らかな表情を浮かべた。


「はい、志村さん。これからも、あなたの力を貸してください」


 志村はその言葉に小さく微笑んだ。


「もちろんだ。君の傍にいることが、僕の喜びだからな」


 二人は夕暮れの東京の街に溶け込みながら、静かに歩き出した。




 1928(昭和3)年4月23日、第55回帝国議会が開会された。


 我が国初の男女普通選挙を経て初めて選ばれた女性議員たちは、この春の開会を「時代の変わり目」と受け止めていた。だが、絹たちの期待とは裏腹に、議場の空気は想像以上に鈍重だった。


 そもそも第一党である与党・立憲政友会は過半数に届かず、高橋是清内閣の基盤は不安定だった。高橋自身は経済政策では定評があったが、党内外の政治的駆け引きは得意ではない。そこで政友会は少数政党である実業同志会と政策協定を結び、さらに野党第一党・立憲民政党議員を裏から切り崩す策に出た。それに対抗して、立憲民政党はかねてより問題視していた選挙干渉を理由にして内相・鈴木(すずき)喜三郎(きさぶろう)に対する弾劾決議案を提出する。


 選挙干渉は確かに行われていた。投票所への警官配置、野党候補へ対する不当な圧力、新聞報道の封殺。絹も実際に目にしてきた――例えば、桐山が街頭演説をしている絹に向かって突進してきた時、本来なら警備の警官が止めるべきではなかったか(もっとも、警察沙汰にならなかったおかげで、結果的に絹は桐山を心服させることが出来たわけだが)。これを問わずして「選挙の正統性」はありえない。だが、政友会は会期中、繰り返し停会戦術を取り、弾劾案の審議そのものを封じようとした。


 しかし、その策も尽きた。


 5月3日。衆議院の本会議場で、弾劾決議案はついに採決に付され、可決された。

 高橋内閣は鈴木を更迭し、事態の沈静化を図ったが、議場に漂う疲弊と閉塞感は拭えなかった。


 絹もまた、その空気に呑まれつつあった。




「議会って、もっと政策を論じる場所かと思っていました」


 閉会後、彼女は市川房枝、山川(やまかわ)菊栄(きくえ)ら数名の女性議員と神田の小さな料理屋で顔を合わせていた。議員バッジを胸元に留めたままの絹は、素直な言葉を漏らした。


「政争に明け暮れて、肝心の民衆の課題が後回しになる。これでは一体、誰のための政治なんでしょうか?」


「だから私は無所属を選んだのよ」


 と、東京選挙区から当選していた市川房枝が静かに言った。白いブラウスの襟元を正しながら、杯に注がれた麦茶に視線を落とす。


「政党に属すれば、多数派になれる。政策も通しやすい。けれど、そのたびに妥協も求められる。誰かの顔色を窺わなきゃいけない……私たちは、男と同じようなことをするために代議士になったのかしら?」


「……分かります。けど、私はそれでも民政党を選びました」


 絹は視線を合わせた。


「制度の中で政策を通すには、後ろ盾がいる。今の国会で、完全な無所属では出来ることには限界があると感じたからです」


「でも、利用されるよ、きっと。最初は『期待の女性議員』として重宝されても、すぐにお飾りになる」


「市川さんは、理想をお持ちです。でも私は……」


 言いかけて、絹は言葉を選ぶ。


「私は、やるからには『政治家』を目指したいんです。妥協もある、駆け引きもある、綺麗ごとじゃない……だけど、そこに踏み込まなければ変えられないものがあると思っています」


 市川は、少し驚いたように目を丸くしてから細めた。


「……なるほど。あなたは腹が据わってるわ」


「怖くないわけじゃありません。でも、私は、待ってる人の顔を知ってますから。地方で、女手一つで子どもを育てている母親たちの顔。学校にも行けず、働かされる少女たちの掌。その子たちの未来を考えたら、私は既成政党の中でも声を上げます」


「母子保護と、教育改革。あなたの旗印ね」


「はい。次の会期では『母子保護法改正』を提案するつもりです。婦人相談所の全国整備も。それから、義務教育年限の延長と、就学援助制度」


「私も協力するわ。党は違っても、目的は同じ」


 市川が初めて、絹に穏やかに微笑みかけた。


 その瞬間、絹は思った。この人は、真正面からぶつかってくれる人だ。妥協ではなく、対話の人だと。


 夜、議員宿舎に戻った絹は、書類の束に手を伸ばした。母子保護に関する資料、各地の相談所の実態調査、そして現行制度との折り合いをどうつけるかの法案構想。

 まだ道は遠い。だが、どの道を選ぶかは、すでに決めている。

 窓の外では、東京の夜風がそっと吹いていた。星は見えない。でも、確かに風はあった。通らない風でも、吹き続ければやがて道を作る。

 絹は、万年筆を握りしめた。


 議会は5月7日に会期切れとなった。

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