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絹の国  作者: 喜多里夫
第一章 出自と家風

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第2話 上京

 日曜の午後の日差しは、机の上の便箋を白く照らしていた。

 川戸絹は万年筆を握りしめたまま、書きかけの言葉を見つめている。高等女学校四年、卒業を控え、今は出征している婚約者の櫻井謙次のことをしばしば思い出す。彼が凱旋した暁には、どういう生活が待っているかと想像を膨らますことも度々あったが、この日はなぜか心が筆に乗らなかった。


 庭の桑の木はすでに葉を落とし、めっきり冷たくなった風に枝が震える。

 その音に誘われるように、絹の意識は不意に遠い日へと戻っていった。




 春――朝の光がまだやわらかい頃、村のあちこちで同じ音が立ちはじめる。

 ざくざく、ざくざく。桑の枝を鎌で刈る音だ。


 絹も小さな籠を背負い、母のあとを追って畦道を歩く。背丈より大きな桑の木の葉は露を帯び、朝の匂いを強く放っている。指先で葉を摘むたびに青臭い香りが立ちのぼり、籠はあっという間に山盛りになった。


「お蚕さまに遅れたらあかんで」


 母が急かす。


 桑を抱えて蚕屋に入ると、むっとするほどの熱気と匂いに包まれる。大きな棚に何段も敷かれた蚕が、一斉に桑の葉を食んでいた。


 シャリ、シャリ、シャリ――。


 最初は気味悪くも思った音だが、今はもう慣れている。雨音のようでもあり、祭り囃子の遠い響きのようでもある。耳を澄ませば、部屋全体が蚕の咀嚼で脈打っているように思えた。


 手を伸ばして桑を置くと、白い小さな虫たちがいっせいに頭をもたげ、葉に取りついた。口の先からはかすかに甘い匂いが漂う。それは吐き出される糸の匂いだった。


「眠に入ると、じっとしてしまうんや」


 母が囁く。


「死んでしまったみたいやろ。でも、そのあと一斉に動き出すんやで」


 やがて、蚕が育ち、棚いっぱいに広がるころになると、「上蔟」の時期がやって来る。絹は祖母と一緒に蔟を並べた。藁で編まれた小さな枠を何段も積み上げる。そこへ蚕がもぞもぞと這い上がり、静かに丸まっていく。


 やわらかい体から、きらきらと光る糸が吐き出される。その糸が絡み合い、やがて繭の形を作る。透けるような白や淡い黄の繭が、ひと晩ふた晩のうちに姿を整えるのは、子供心に奇跡のようだった。


「お蚕さまが絹を生んでくれる」


 祖母は、手を合わせて呟いた。

 だがその絹は、ただの奇跡では終わらなかった。


 大鍋に湯を沸かし、繭を放り込むと、ふわりと白い湯気が立ちのぼる。独特の匂いが鼻をつき、絹は思わず顔をしかめる。


「かわいそうやなあ」


 そう言うと、母は、


「これが人の暮らしや」


と、静かに答えた。


 女たちは糸を引き出し、指先でくるくると操る。細くて切れやすい糸をまとめるのは至難の業で、絹が手を出すと、すぐぷつりと切れてしまう。


「お前は不器用やな」


 笑われて、絹は頬をふくらませた。

 けれど、切れた糸を指先でそっと撫でたときの感触は忘れがたかった。あたたかく、柔らかく、そして強い。


 ――人の手で育てられ、人の暮らしを支える糸。


 蚕の吐くその糸と、自分の名前「絹」とが、いつの間にか重なっていくような気がした。

 小学校の同級生の中には、四日市にある紡績工場の工女になった者も何人かいる。


「糸を取るのはうちだけやない、あの子らも同じや」


 祖母の言葉が耳に残る。

 村全体が糸を吐き、国全体が織物のように編み上げられていく――。

 子供の絹の胸に、ぼんやりとした予感が芽生えていた。


 ――糸は命から生まれる。


 子供ながらに胸に刻んだその感覚は、今も消えずに残っていた。


 机に突っ伏しかけた絹のまぶたが、うつらうつらと重くなっていく。夢と現のあわいに、繭の白さが浮かんでは消える。




 そのとき――。


「絹さま、大変じゃ!」


 扉を荒々しく開け放ち、下女が駆けこんできた。絹ははっと顔を上げる。


「なにが……?」


「櫻井様が……戦地で……」


 言葉は最後まで聞き取れなかった。胸の奥が凍りついたように感じられ、耳に届くはずの声が途切れていく。

 机の上の原稿用紙に、万年筆の黒い雫がぽたりと落ちた。




 1917(大正6)年10月26日 ベルギー パッシェンデール高地 夜明け前


 陸軍歩兵中尉 櫻井謙次


 三重県出身。地元の中学校卒業後は一高を経て東京帝国大学法科に進み、卒業後は東京で新聞記者として筆を振るっていた。

 「言葉で戦う」ことを信じていたはずの彼が軍服に身を包むことになったのは、欧州大戦の臨時動員によるものである。

 そのとき謙次は、筆を銃に持ち替える覚悟を受け入れた。「真に平和を記すためには、戦場に身を置かねばならぬ」と信じたからだ。

 彼は予備役陸軍歩兵少尉。京都第十六師団津歩兵第三十三聯隊所属の小隊長として欧州に出征した。

 この物語の主人公(ヒロイン)、川戸絹とは、出征前に両家合意のもと婚約した。


 激しい雨が数日間降り続けた後の戦場は、地面ではなく泥の海だった。

 深くぬかるんだクレーターに水が溜まり、倒れた兵士たちの顔も身体も、地形の一部のように静かに沈んでいた。

 謙次の率いる小隊は、英軍の隣に展開している。

 夜明け前、突撃を控えた塹壕の中。

 謙次は部下たちに命令を下した後、ふと空を見上げた。

 雨雲の切れ間から、わずかに星が覗いていた。


「お前たちはいい。若い者は、できるだけ下がれ」


 部下たちが止めるのも聞かず、謙次は自ら突撃の先頭に立つ覚悟を決めていた。

 

 ピィィィィィィッ!


 耳をつんざくようなホイッスルの音。

 総攻撃の号令とともに、泥の海に身を投じた彼の小隊は、次々とドイツ軍の機銃掃射の前に倒れていった。

 謙次も左腿を負傷しながら、横で倒れた兵士を助け起こそうとした刹那。

 彼の身体をドイツ軍の砲弾の破片が貫いた。


 何も聞こえなかった。

 空は鉛色に変わり、視界は土と血に覆われた。

 やがて彼の身体は無言でぬかるみに沈んでいった。


 陸軍歩兵少尉、櫻井謙次。1917(大正6)年10月26日、ベルギー、パッシェンデール高地の前線において敵陣地に攻撃を敢行中、戦死。享年二十六歳。


 櫻井謙次戦死の報は翌月、陸軍から櫻井家に届き、それから櫻井家の当主である謙次の父貞蔵(ていぞう)が川戸家に駆けつけることによって絹に知らされた。

そこで絹は、謙次から絹への最後のものとなった葉書を受け取ることになった。




 拝復

 御身益々御清祥奉賀候。

 此度戦地に在りて日々砲煙の間に身を置き候へども、尚心は常に君に在り候。君、勉学を怠らず積まば、必ずや大成致すべく候。我れ戦地に在りと雖も、常に君が前途を思ひ遣り候。君が筆を執りて世の理不尽を記し、衆庶の声を伝へ給はば、我が志、空しからず候。再び相見ん日を期し、筆を擱き候。

 恐惶謹言


 大正六年十月

               櫻井謙次拝

 川戸絹様


追伸 砲声の間に、ふと空を仰ぎ見れば、雁の群れ北に向かひおはしました。故郷にも、すでに平和なる秋の到来あらんことを、思ひ遣り候。




 絹はその場で膝を崩し、震える指で何度も「尚心は常に君に在り候」と書かれた部分をなぞった。

 薄墨の文字、確かな筆跡。

 そして、文の最後の箇所に差しかかると、彼女の手がふと止まった。


「君が筆を執りて世の理不尽を記し、衆庶の声を伝へ給はば、我が志、空しからず候」


 絹は唇を噛みしめた。涙は出なかった。

 それよりも、胸の内にゆっくりと立ち昇ってくる熱――怒りとも、哀しみともつかぬ感情。


「……なぜ、あなたが死なねばならなかったの?」


 欧羅巴(ヨーロッパ)での(いくさ)など他人事だと思っていた。

けれど、もはや違った。彼の命が喪われたその場に、自分は、いなかった。


「誰かが書かなきゃいけない。この国の今を、これからを……私は、あなたの代わりにそれをやる」


 彼の死は、虚しく終わってはならない。彼の願ったように、私の筆で遺志を継がねばならないのだ。

 絹の心には、「繭の糸が幾重にも紡ぎあって国を支えているように、自らもまた筆をもって人々の声を紡がねばならぬ」という静かな決意が芽生えていた。 




 1918(大正7)年、3月下旬。

 鈴鹿山脈の残雪が日に照らされ、うっすらと霞んで見える。川崎村の田畑には麦の緑が芽吹きはじめていた。川戸家では、ひときわ慌ただしい朝が訪れていた。

 絹は、この日いよいよ上京するというので、家じゅうはその支度で騒がしかった。


 母登美は、前夜から落ち着かぬ面持ちで台所に立ち、行李に詰める保存食の支度を繰り返していた。味噌を少しばかり包み、梅干しを瓶に詰め、干した芋を紙袋に入れる。


「東京では口に合うものがあるかわからんでなあ。せめて最初のうちは、これを食べて凌ぎなされ」


 登美はそう言って、ふと絹を見やると、胸が詰まった。女学校を卒業したばかりの娘が一人で上京するなど、想像するだけで心配でたまらない。


 一方、父忠吉は、居間に腰を下ろし、煙草をくゆらせながら黙って娘の荷造りを見守っていた。若い頃、この地から上京して数年間、学問と政治に胸を躍らせた日々が自分にもあった。自由民権運動の集会に出入りし、志を語り合った友の顔もまだ覚えている。


 ——女子に学問は不要、という者もいる。だが時代は変わりつつある。


 忠吉は、娘が文章に秀で、地元新聞に投書してきた父親譲りの筆力をもっていることを誇りに思っていた。村会議員や郡会議員を務めた忠吉は、心のどこかで「この子は俺の代わりに夢を叶えるのかもしれん」と感じてもいた。だからこそ、妻の心配を押し切ってでも上京を許したのだ。


 弟の尚人(なおと)は、まだ十歳。この春から尋常小学校五年生だ。姉を見上げては、なんとなく居心地悪そうにしている。


「姉ちゃん、ほんまに東京へ行ってしまうん?」


「そうよ。東京で働きながら勉強するつもりやから。尚人も、しっかり勉強しいや」


「……ぼくも、汽車に乗ってついて行きたいなあ」


 そう呟いた弟の顔を見て、絹は笑いながらも胸が熱くなった。


 家族が総出で加佐登(かさど)停車場(ていしゃじょう)まで歩いて行く。加佐登停車場へ向かう道。絹は肩から風呂敷包みを下げていた。中には母が縫ってくれた襦袢と、友人の千代から贈られたしおりが一つ。大きな行李は父が担いでいた。下男が持つはずだと母は言ったが、父は「娘を送り出す荷物くらい、自分で運ぼう」と聞き入れなかった。

 春まだ浅い田んぼのあぜ道を、村の人々がすれ違いざまに声をかけてくる。


「川戸さんとこの絹ちゃん、東京へ行かはるんか。はあ、えらいことや」


「大女やさかい、どこに行っても負けんやろ」


 からかうような言葉もあれば、本気の激励もある。絹は笑顔で答えながら、背筋を伸ばした。


 加佐登停車場の構内には、石炭の匂いと汽笛の余韻が満ちていた。名古屋行きの汽車が、間もなく入線してくるという。

 父は言葉少なに娘の荷物を持ち、母はしきりに手を動かして着物の襟を直す。尚人はじっと線路を見つめ、落ち着かない。

 汽車がホームに滑り込む。鉄の車輪の響きに合わせて、家族の心臓も早鐘のように打ち始める。


「お母さん、お元気で。お父さん、尚人のこと、頼みます」


「絹、気張るんやぞ。行くからには、途中で投げ出すな」


 父の短い言葉に、すべてが込められていた。母は目を潤ませながらも、最後まで泣くまいと唇を固く結んでいる。


 汽笛が鳴り響き、絹は振り返って両親に深く頭を下げた。

 汽車が動き出すと、尚人が走り出し、必死に手を振る。

 絹は窓から身を乗り出すようにして、笑顔で応えた。胸の奥では、何かが張り裂けそうに疼いていたが、それを涙に変えるまいとこらえた。


 と。


「絹ちゃぁぁぁぁん!」


 聞き慣れた声が線路のわきの田んぼから聞こえた。

 女学校時代の親友である田中千代だった。


「千代ちゃぁん!」


「頑張ってぇ! さようならぁ!」


「さよならぁ!」


 絹は堪えきれずに涙声になってしまった。


 汽車が速度を増し、田園の風景が後ろへ流れていく。鈴鹿の山影が遠ざかるにつれ、絹の胸に不思議な静けさが訪れた。


 ——これから始まるのだ。私の人生が。


 父が若き日に抱いた志を、自分は女子の身で担うのかもしれない。母の不安を裏切らぬように、必ずやり抜かなければならない。

 絹はそう心に誓い、窓の外に広がる広大な空を見つめ続けた。

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何卒よろしくお願いいたします。



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