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絹の国  作者: 喜多里夫
第四章 代議士への道

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第28話 鈴鹿の空に風が吹く

 選挙戦終盤。


 この日は四日市市の演説会場で立憲民政党候補者による合同演説会が開かれていた。

 会場にはざっと千人近い人々が集まり、ざわめきと熱気が渦を巻いていた。立憲民政党の候補者3名――川崎克、木村正興、川戸絹の合同演説会が、まさにこれから始まろうとしていた。

 舞台には大きな横断幕が掲げられていた。


   立憲民政党合同演説会 三重第一区 川崎克・木村正興・川戸絹


 幕の前に立った司会役の男が、声を張り上げる。


「ただいまより、立憲民政党三重第一区候補による合同演説会を開催いたします!」


 拍手と歓声が沸く中、最初に登壇したのは木村だった。落ち着いた声で、経済政策や農村部への支援政策を語り、誠実な印象を残す。


 次に登場した川崎は、さすが地元財界にも顔の利く人物らしく、四日市の都市開発や商工業の振興に力を入れると力強く語りかけた。


 そして三番目に、川戸絹が壇上に立った。

 演壇の下で見守る聴衆の中には、白いエプロン姿の女工や、袴姿の女学生、子供を連れた母親たちの姿が目立つ。

 万が一に備え、カンガと桐山は舞台上手と下手に分かれて周囲を見張っていた。


「皆さん、こんにちは。川戸絹です。農家の娘として生まれ、東京で記者として働いてきました。そこで、私は知ったのです。この国の政治が、現場で苦しむ人々の声を、どれほど聞いていないか――」


 静かな声だったが、演説が進むにつれ、その言葉に引き込まれるように聴衆の表情が変わっていく。


「政治を『お上のもの』にしてはいけません。誰かに任せるのではなく、私たち自身の手に取り戻す。それが、普通選挙の意味ではありませんか?」


 あちこちから拍手が起きた。


「女性の皆さん。今回が初めての選挙です。私たちの声を、今こそ議会へ届けましょう!」


 その声には、叫びでも怒りでもない、深い決意が宿っていた。

 演説の後、再び壇上に三人が並んだ。


「さて、今日ここに立つ我々三人、全員名前の頭文字が『K』であります。川戸、川崎、木村。ですから、ぜひ覚えてください!」


 川崎が茶目っ気たっぷりに叫ぶ。


「3Kを、よろしくお願いします!」


 この軽妙な締めの言葉に、聴衆は大いに沸いた。笑いと拍手が渦を巻き、まるで祭りのような空気が広がった。


 しかし、その裏で、政友会陣営の動きは苛烈さを増していた。

 特に川戸絹に対しては、露骨なネガティブキャンペーンが展開され始めていた。街頭で配られるビラにまで、


   女のくせに政治? 家庭を守るのが女の務めでは?


   新聞記者上がりの小娘が、代議士を目指すなどとは片腹痛い


 といった文言が並び、女性蔑視と職業差別が剥き出しになっていた。

 だが、これが思わぬ逆効果を生んだ。


「こんなビラを配るなんて、よっぽど絹さんが怖いのね」


「誰が『女のくせに』よ。時代錯誤も甚だしい」


 と、特に若い女性有権者の間では、政友会候補に対する反発が強まり、逆に絹への支持が広がっていった。


 さらに、先日発生した桐山薫による襲撃未遂事件も、絹への同情と共感を集める要因となった。

 選挙演説中に襲われながら、絹は周囲に「このような方法では決して黙りません」と言い、桐山には「彼は、話がしたくて来たのだと思います」と言った。地元紙も東京の新聞もその姿勢を好意的に報じ、ラジオでも特集が組まれた。


「男より胆が据わっている」


「あんな目に遭っても立っているなんて」


 と、絹の姿に感動したという声が、特に主婦層や若者層から相次いだ。


 合同演説会の後も、木村が苦笑しながら言った。


「川戸さん、すごい追い風ですね。僕もおこぼれにあずかれるかな」


 絹は困ったように微笑んだ。


「おこぼれなんて言わないでください。みんなで風を起こしたんですから」


 それを聞いた川崎が笑いながら言った。


「3K、全員当選を目指しましょう」


 そして、投票日が迫る中、川戸絹は胸の内にある確信を強くする。


 ――私は、もう「女のくせに」と言われて黙っている時代には戻さない。これは、私一人の選挙じゃない。私たち全員の、未来への選択なのだ。


 第16回総選挙の投票日、2月20日が迫っていた。




 そして、いよいよ2月20日月曜日の投票日となった。三重県鈴鹿郡亀山町にある、絹の選挙事務所。


 昼を過ぎた頃、事務所の引き戸がガラリと開いた。

 入り口に立っていたのは、腰を曲げた農家風の年配の女性だった。頭には手拭いを巻き、作業着のままのような姿で、手には一枚の紙切れを大事そうに握っていた。


「……これ、見せに来たんやわ」


 女性がそう言って差し出したのは、投票済み証明書だった。

 彼女は証明書を指先でポンポンと叩いてみせる。


「わしが、生きてるうちに、こんなもんをもろて、こんなふうに持ってこれる日が来るとはなぁ……ありがとな、絹ちゃん」


 絹は思わず、胸に何かがこみ上げてくるのを感じながら、その手をそっと取った。


「私の方こそ……ありがとうございます。そのお気持ち、決して無駄にはしません」


 そのやり取りを、事務所の片隅で見ていた一人の女性が、静かに嗚咽を漏らした。

 絹が尋常小学校時代の同級生、小学校卒業後に四日市の紡績工場で女工をしていたが身体を壊して実家に戻ってきていた川邊ハナだった。選挙が始まってすぐ、手弁当で応援に来てくれていたのだ。

 彼女はハンカチで目を覆いながら、首を振った。


「……だめ。こんなの、泣かずに見ていられないよ……」


 午後4時。

 三重県内の各投票所では、定刻通りに投票箱の蓋が閉じられた。

 川戸絹の選挙戦、そして日本で初めて女性が投票に参加する総選挙の日が終わった。

 鈴鹿郡亀山町の選挙事務所には、早くも関係者が詰めかけていた。電話係、伝令役、帳簿を管理する事務方、それに候補者である絹とカンガ、桐山、豊田ら中核スタッフ。

 事務所の片隅には、大きな鉄瓶と湯飲みがずらりと並び、差し入れの煮豆や握り飯が積まれている。


 午後5時。町役場の開票速報が始まるとの情報が入り、桐山が町役場まで走る。

 しかし最初の1時間は「無効票の確認」や「封筒の開封」ばかりで、各候補の得票数はなかなか出てこなかった。


 午後7時。

 ようやく最初の速報が戻ってきた。中勢地方の小規模な町村で、川戸候補がトップ票を得ているとの報告に、事務所に安堵の声が広がった。


「でも、これで決まったわけじゃない。都市部の票がまだ残ってる」


 絹は気を引き締めて言った。


 午後9時。

 四日市、津など都市部の開票作業が続いているが、票が割れるため決定打は出ない。


 その頃、東京の「東京タイムス」本社では、伊藤、奈緒美ら元同僚たちが応接室のラジオをつけ、定時の番組を聞きながら、三重一区の情報を待っていた。


「川戸さん、どうかな……」


「東京にいても、やっぱり気になりますよね」


「大丈夫だよ、あの人だもの」


 編集局の片隅では、提携している各地の地方紙と電報でやりとりしながら、明日の朝刊の印刷準備も進められていた。


 一方、亀山の事務所では、夜も更けて湯気の立つおにぎりが差し入れられた。

 持ってきてくれたのは、選挙戦初期にも来てくれた地元の少年だった。


「おばあちゃんが、これ食べてって」


「ありがとう。おばあちゃんによろしくね」


 午後11時。

 疲労が重なり、豊田はうつ伏せに眠り込み、桐山は湯飲みを片手に黙って帳簿をにらんでいた。カンガは、うつらうつらし始めた絹の背中に、毛布を1枚かけてやる。


 午前1時30分。

 四日市の開票率が8割を超え、立憲民政党3候補が上位を占めているとの速報が入る。


 午前2時すぎ。

 亀山町の選挙管理委員会から、正式な使いの者が自転車で駆けつけてきた。


「川戸絹候補、三重一区、首班当選、確実です!」


 一瞬、事務所が静まり返り、次の瞬間、大きなどよめきと拍手が起こった。

 絹は毛布を肩にかけたまま、目を見開いていた。


「……え?」


「やった……!」


と桐山が呟き、豊田が万歳を叫ぶ。

 カンガは静かに、だが深く頷いた。


 絹自身は、興奮の渦の中心でただ茫然と立っていた。歓声も拍手も耳に入らず、胸の奥で「ここからが始まりなのだ」という冷たい実感だけが強く鳴り響いていた。  

 万歳の声に押し上げられるように、彼女はようやく小さく手を振り、深く一礼した。


 晩年の絹は、当時のことをこう回想している。




 ――あの選挙のことを、私は今もはっきりと思い出す。

三重の田畑に吹く風の冷たさ、農家の土間に腰を下ろして聞いた嘆き、若い書生たちの熱に浮かされたような目――すべてが胸に刻まれている。


 選挙戦は、華やかな舞台どころか、泥に足を取られるような日々だった。戸別訪問のたびに、票と引き換えの無理な願いを突きつけられることもあった。あの時、私は理想を口にしながら、果たして人の心をどこまで掴めているのかと何度も自問した。だが同じ日、粗末なおにぎりを差し出して「絹さん、体を壊さんように」と言ってくれる老婆がいた。その掌の温もりが、どんな演説よりも私を励ました。政治とは数字ではなく、人の心に宿るものなのだと気づいたのは、あの瞬間だったかもしれない。


 投票日の朝は、不思議なほど静かで、私は胸の奥に氷を抱いたようだった。結果が出るまでは、世界が息をひそめているように思えた。やがて夜更け、事務所に飛び込んできた声が「当選」と告げたとき、私は喜びよりも、深い責任の影に打たれた。人々は万歳を叫び、肩を叩き、涙を流した。だが私は、その渦の中で立ち尽くし、「ここからが始まりなのだ」と自分に言い聞かせていた。


 年月を経た今も、あの夜の熱気は胸の奥に残っている。政治家として歩んだ長い道のりの中で、いちばん強く思い返すのは、勝利の喜びではなく、選挙戦のあの泥臭さと、人々の温もりと、背筋を凍らせるような責任の重さである。あの経験があったからこそ、私はその後、どれほど嵐に巻き込まれようとも、踏みとどまることができたのだ。




 その朝、地元紙「伊勢日報」の朝刊第一面に、こう大きく見出しが躍った。


   川戸絹君、三重一区にて首班当選 民政党三議席を奪取 政友会大敗北


 日本の政治に、新たな風が吹き始めていた。

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