第27話 旗の下に集う声
名古屋駅からは関西本線に乗り継ぎ、絹とカンガを乗せた汽車は、冬の夕陽を浴びて伊勢平野を滑るように進んでいた。
「このあたりが……キヌさんのふるさと?」
カンガが車窓の外に目を向けた。麦畑と桑畑の間にポツンポツンと集落があり、西には鈴鹿の山並みが静かに連なっていた。
「そう。ここは鈴鹿郡。あの、前に見える山の向こうが伊賀よ。私はこの土地で育ったの」
故郷の空気は、東京とはまるで違っていた。冬とはいえ、どこかぬくもりを感じさせる日差しがあり、湿った土の匂いが鼻をくすぐった。絹は、懐かしさと少しの緊張を胸に抱えながら、カンガに言った。
やがて汽車は加佐登駅に滑り込んだ。
絹はホームに降り立つと叫んだ。
「帰ってきた。帰ってきた。帰ってきたぞぉ!」
実家にたどり着くと、もう真っ暗だった。
何年ぶりだろう。
門をくぐり、玄関で挨拶する。
「絹ですっ! ただいま戻りましたぁ!」
「姉ちゃん!」
真っ先に奥の居間から出てきたのは、絹の弟・尚人だった。現在、県立神戸中学の生徒で、背丈はすでに姉を超えていた。
「尚人……大きくなったね」
「もう姉さんを見上げることはないよ」
と尚人が得意げに言ったあと、後ろから母・登美と父・忠吉が続いた。
母はすぐに涙ぐみ、娘の手を握りしめた。
「よう帰ってきたなあ……ほんま、よう頑張った」
「ありがとう。これから、もっと頑張るわ」
絹の背後でカンガが一歩下がって頭を下げた。
「ご家族の皆さん、こんにちは。ヨハネス・カンガ・ティチェミサと申します。これからの選挙、川戸さんを支えるために三重に参りました」
丁寧な日本語に、母の登美は一瞬キョトンとしたが、すぐに笑顔を返した。
「はあ、なんてしっかりしたお方……あんたが新聞に出てた人やね」
父・忠吉が短くうなずいた。
「頼もしい人やな」
カンガは少し照れたように頭をかいた。
その夜、久しぶりに囲む夕餉の席では、話が尽きなかった。母は鯛の塩焼きと赤飯まで用意していた。
「国政選挙ちゅうのは、そんなにたいへんなのか?」
かつて村会や郡会の議員を務めたことのある父の問いに、絹はうなずいた。
「政党に公認されているとはいえ、支持者を一人ずつ、自分の足で増やしていくしかないわ」
尚人が口を挟んだ。
「でも姉さん、三重で女の人が出馬するなんて初めてだよ。新聞の人もたくさん来るんじゃない?」
「そうかもしれないけど、話題性だけじゃ票は貰えない。私が訴えるのは、教育と労働問題、そして女性の声が政治に届く社会よ」
二日後、絹は立憲民政党三重支部の紹介で、亀山町の旧東海道沿いにある古い町家を訪れた。
「ここが、選挙事務所になる予定の建物です」
案内したのは、地元の青年会出身で民政党支援者の豊田三太郎。
「豊田?」
絹には覚えがあった。初めて上京する時、家の前で見送ってくれた老人――。
「……東京に行っても、あんたみたいな人を待っとる人間は、きっとおる」
そう言われた。
そのことを豊田に言うと、
「あっ、それっ、ぼくの祖父ですわ」
との返事。
「お祖父様は息災ですか?」
と絹が訊ねると、
「ええ、元気にしてますよ」
「また、お会いしたいわ」
「ははは、呼ばなくても、そのうち来ると思います」
とのこと。
「さてと……一階は応接と事務机。二階はちょっとした集会にも使えます。駅からもわりと近いし、商店街の人たちも顔なじみばかりです」
絹は建物の格子窓から、町並みを見下ろした。
「亀山は、街としては小さいけれど、関西本線と参宮線が交わる交通の要衝。ここで情報を発信できれば、郡部にも影響は大きい」
絹がそう言うと、豊田はうなずいた。
「そのとおりです……ところで、我が党からは今回は定数5のうち3議席を狙っています。政友会は強いですけど、女性票が動けば分かりませんよ」
「そう簡単に女性票は動きませんよ。女性の多くはまだ政治が『遠いもの』だと思ってる」
「だからこそ、あなたが必要だと若槻さんは言ったんでしょう?」
絹は静かに笑った。
「ありがとう。じゃあ、ここで『戦』を始めます」
カンガが荷物を運び入れていた。
「まずは机と電話と、お茶道具ですね……あっ、あと布団も」
町の女たちが差し入れを持って集まりはじめた。誰もが「ほんまに出はるんやね」と驚きながらも、次第に表情をほころばせた。
「しっかりな、絹ちゃん。あんたみたいな人が、ほんまに国をよくしてくれると思うわ」
その声に、絹はまっすぐに答えた。
「国を変える前に、まずはこの町の声を国へ届けます。どうか力を貸してください」
小さな町の選挙事務所に、絹の旗が立った。
それは、新しい時代の始まりを告げる、風を受けた布の音だった。
亀山の選挙事務所に朝日が差し込む頃、絹はすでに起きて活動の準備を始めていた。手拭いで髪を束ね、野良着に身を包み、長靴を履いて出発の支度を整えると、玄関先でカンガが待っていた。
「本日は、関町から加太の山里に入ります。移動は汽車と……歩きです」
「いいわよ。そこに住む人たちの顔を見たい……けど、ごめんね。カンガには苦労をかけるわね」
「あなたの後ろに立てるのは名誉です」
とだけ言って、カンガは黙々と絹の後についてきた。
選挙戦が始まって一週間。今や事務所には十数人の支援者が常駐し、スローガン入りの幟やビラが町内に掲げられていた。けれども――。
「絹ちゃん、悪いけど、うちの娘の就職口ひとつ世話してくれんか?」
ある集落の青年団長に言われた。真剣な表情だったが、それが「票」と引き換えであることは明白だった。
「川戸さん、もし当選したら……ウチの旦那を役場に推薦してくれまへんか? 支持団体でまとまって票を入れますさかい」
河芸郡内のある商店主夫人に囁かれたその言葉は、柔らかな微笑みの裏に、露骨な見返りを求める匂いが漂っていた。
さらには――
「ほぅ……えらいべっぴんの候補者やな。握手だけで票がもらえるっちゅう話もあるんやな、がはは」
中年の町会議員OBが、握手のふりをして絹の肩を掴もうとしたその瞬間、背後からカンガの鋭い視線が光った。
「ご挨拶は握手だけで十分です。どうぞ次のお話を」
静かながら、はっきりとした声に、男は鼻白んだように手を引っ込めた。
事務所に戻った絹は、湯呑を手に息を吐いた。
「……正直、堪えるわね」
カンガは黙って彼女に茶を差し出した。
「理想だけでは……人間は、動かないのね」
呟くように言ったその声に、カンガはそっと頷いた。
「けれど、理想を持たない人は、動かせません」
ふと、事務所の扉が開いた。小学生のような男の子が、木箱を抱えて入ってきた。
「これ……ウチのおばあちゃんが持たせた。絹さんに食べてほしいって」
開けてみると、ふかし芋と、海苔を巻いたおにぎりが入っていた。
「なんにもできひんけど、応援してるて伝えてって……」
絹は、両手でおにぎりを持ち上げた。
「ありがとう。伝えてね、すごく嬉しいって」
この瞬間、彼女の胸に、じわりと温かいものが広がった。
その翌日。ある山間の集落での演説会。
「私は、言葉だけの政治を終わらせたい。女であること、地方に住むこと、働く者であること……それだけで政治が遠ざかってきたなら、私は、皆さんの代表になります」
少し離れた場所で聞いていた農婦が、ポツリと呟いた。
「この人は……ほんまに、うちらのこと見て話してる気がする」
終わった後、年配の女性たちが小走りで近づいてきた。
「お嬢さん、立派なもんやね。あんたみたいな人に、うちらも票を入れたろかいな」
また別の町では、青年団の集会に招かれた。演説後の質問に、ある若者が言った。
「うちの妹が、先月まで女工で働いてたけど、身体を壊して田舎に帰ってきました。給金は少ないし、休みも無かったって……川戸さん、そやつらも、政治で変えられますか?」
絹は、真っ直ぐに答えた。
「今すぐには無理かもしれません。でも、変えようとする政治家がいなければ、ずっと変わらない。だから私は、ここにいるのです」
静かな拍手が起こった。
夜。事務所に戻った絹は、カンガと二人、粗末な卓袱台で夕食をとっていた。
選挙戦はまだ折り返し地点だった。だが、票の動きには、微かなうねりが見えていた。政友会支持の地元有力者が、「うちの嫁が川戸さんに入れたがっててな」と冗談めかして言ったという話も伝わってきた。
「カンガ……少しだけ、風向きが変わってきたかもしれない」
彼は頷いた。
「はい。風は、静かに変わる。声が届けば、人も動きます」
「でも……あんなに、欲や損得ばっかりで動く人が多いなんて……分かっていたけど、やっぱり、ちょっと……ね」
「理想を失わないためには、現実の泥を知る必要があります」
絹は、ふと笑った。
「……あなたって、いつも核心を突くわね」
その夜、布団に入った絹は、天井の木目をぼんやりと見つめながら、呟いた。
「それでも……私は、この土地の声を、国へ届けたい。たとえ票にならなくても、届けたい声があるの」
風が障子の隙間を鳴らした。彼女はその音に耳を澄ませた――あの声は、きっとまだ届く。
1928(昭和3)年2月、三重県津市。
午後の陽が傾きかけた大門商店街に、熱気とざわめきが渦巻いていた。川戸絹の街頭演説を聞こうと集まった群衆は、100人を優に超えている。子供を背負った若い母親、鳥打帽をかぶった工場帰りの男たち、袴姿の女学生、そしてパナマ帽をかぶった中年の商人風の男たち――この町にしては珍しい、雑多で熱心な聴衆だった。
「……私は、皆さんに『考えてほしい』のです。ただ票をくださいなんて言うつもりはありません。皆さん自身が、どう生きたいのか、その手でこの国の未来を選ぶ、それが選挙です」
絹はマイクも使わず、地声で語りかけていた。足元の木箱の上に立ち、顔を赤らめながら全身で言葉を投げる。
木箱の上に立っている絹と、横に黙って立っているカンガの背の高さが同じくらいなのが、何となくユーモアを誘う。
「私は女です。農家の娘です。上京して新聞記者として、取材してきました。だから、言える。現場で苦しむ人の声が、いま、政治に届いていない。それを変えるために、私はここに立っています」
「いいぞぉっ!」
何人かの声援が飛び、拍手がわき起こる。
だがその拍手の輪の外、聴衆の姿にまぎれて、一人の少年が立っていた。
桐山薫、17歳。
まだ頬に少年らしさを残しながら、眼光だけは異様に鋭い。
そして彼は右手に刃渡り20センチはあろうかという短刀を握っていた。着物の袖の中に隠れるように、それを胸元に押し当てる。
――こんな女に、この国の何がわかる?
頭の中で、無数の言葉が渦を巻く。
――軍縮して、英米と外交で妥協して……それが国のためなのか? そんな弱腰でこの国が守れるのか?
青年の胸の中には、彼の所属している組織で教えられた言葉と、そして彼自身の孤独感がない交ぜになって、グルグルと絡まり合っていた。
青年は前方に立っている絹を見据えながら、人混みをかき分け前へ前へと進んだ。
そして――。
「女のくせにぃぃっ!」
桐山は大きく叫ぶと、群衆をかき分け、猛然と絹をめがけて一直線に駆け出した。その顔には怒りとも焦燥ともつかない激情が刻まれていた。
「キヌさんっ、危ないっ!」
絹の隣にいたカンガが、とっさに絹の前へ飛び出した。
聴衆は一瞬、何が起きたのかわからず息を呑む。
短刀を握った桐山が絹に体当たりをかまそうとした直前、カンガが中に割って入り、桐山は猛烈な勢いで絹ではなくカンガに体当たり。
しかし、痩せて小柄な桐山の身体は、カンガの巨体に弾かれ、演壇の脇に転がった。
その刹那、短刀の刃先が絹の羽織の袖をかすめ、布地を切り裂いた。破れた袖がひらりと舞い、群衆の悲鳴が上がる。
「きゃぁぁぁぁぁぁっ!」
「このやろぉぉぉぉぉぉっ!」
女性の悲鳴が上がり、周囲にいた民政党関係者や支持者たち数名が桐山を寄ってたかって押さえつけた。
「川戸さん、大丈夫ですかっ?」
「警察、警察を呼べっ!」
現場は騒然となった。
絹は一瞬、自分の腕を見た。裂けた袖の下の肌には、かすり傷一つなかった。助け起こそうとするカンガの腕を借りて立ち上がる。
「私は……大丈夫です!」
震える声ながらも、絹は群衆に向けてそう告げた。
「皆さん、驚かせてすみません。私は無事です。今の出来事も、選挙の現実の一つかもしれません。でも……私は、このような方法では決して黙りません」
その声に安堵した聴衆から歓声があがった。
「おい、こいつ刃物を持ってやがったぞ!」
桐山の顔は、地面に伏せられたまま赤くなり、次第に涙と泥でグシャグシャになっていった。
「痛い、痛い、放してくれぇぇっ!……俺は……ただっ!」
泣き声とも叫びともつかぬ声が喉から漏れた。
すぐに町の顔役が駆けつけ、その場を収めるように叫んだ。
「とにかく、怪我人はないか? この若造……お前は、どこの誰だっ?」
「……きっ、桐山薫、です……」
絹は、それを制するように言った。
「ちょっと、待ってください。彼は、話がしたくて来たのだと思います」
「な、何言ってんだい、今にも刺されそうだったんだぞ!」
と男は叫ぶが、絹はきっぱりと頷いた。
「ええ。でも、私にはわかる。これは対話の不在が生んだ暴力です」
カンガが桐山をじっと見つめて言った。
「彼の目は、殺す目じゃなかった。怒って、迷って、ぶつける場所がわからなかっただけです」
その場は警察沙汰にせず、桐山はそのまま陣営の控え室へ連れて行かれた。彼は俯いたまま、一言も発しなかった。
それから2時間ほどして。
街頭演説の騒ぎも落ち着いた頃、控え室の小さな和室に、桐山は一人座らされていた。目は腫れ、顔を上げられずにいた。
そこへ、絹が入ってくる。
破れた羽織は脱ぎ、控えの着物に着替えていた。帯も締め直されているが、足元にはまだ埃が残っている。
「……あなた、なぜあんなことをしたの? あなたが、どうしてあんなことをしたのか、私は知りたい」
「……あんたみたいな女が、選挙に出るのは間違ってるって、そう思って……」
「だから刺すの?」
絹の言葉は静かだった。
桐山は目を伏せたまま、かぶりを振った。
「違う……でも、俺には、他に方法が思いつかなかったんだ……」
「あなた、何かに怒ってたんだね」
「……」
「私も、ずっと怒ってた。女だから、と笑われて、記者だから、と邪魔されて……でも、私は、刃物じゃなく、ペンを持った。だから今、ここに立ってる」
桐山は、ようやく顔を上げた。
「どうせ……俺なんかの話なんて、聞いてくれないと思った」
「あなたの話を聞かないまま、私が代議士になったとしても、それは意味がないでしょう?」
絹は、膝をついて桐山と視線を合わせる。
「国を強くしたいと思う気持ちは、間違ってないわ。ただ、そのために誰かを傷つけたり、考えを押しつけるのは違う。あなた自身も、誰かにそうされたのでしょう?」
桐山は、拳を握り締めた。
「……両親は死にました。その後、飯も仕事もなくて。街でビラを配っていた男に声をかけられて、大日本参政党に入った」
「大日本参政党……」
絹の顔に、微かな陰が差す。最近、勢力を伸ばしている右翼結社だった。
「そこでは、『敵は内にある』と教えられた。女、新聞記者、軍を批判する奴……みんな、日本をダメにする連中だって」
絹はしばらく黙っていた。そして、ゆっくりと口を開いた。
「桐山君、もしよかったら……私の選挙を、手伝ってくれませんか?」
桐山が、はっと顔を上げた。
「はあ?」
「あなたの視点で見えるものが、きっとある。私は女性で、新聞記者で、農家の娘。だけど、あなたのような若い目が、私を助けてくれるなら、私はもっと遠くが見える気がする」
桐山は、言葉を失ったまま絹を見つめた。やがて、ポツリと口を開いた。
「……本当に……いいんですか? 俺、さっきまであなたを……」
「過去より、これから何をするかが大事だよ。あなたが変わりたいなら、私は応援する」
桐山の瞳に、涙が浮かんでいた。
「じゃ、じゃあ……」
彼は深く頭を下げた。
「先生、どっ、どうか……先生の秘書、いや、書生をさせてください!」
絹は、一瞬キョトンとして、それから笑った。
「……まだ当選していないのに、秘書だの書生だなんて気が早いわ」
二人の間に、ふっと笑いが生まれた。
カンガが襖の向こうから顔をのぞかせる。
「お二人とも、いい話は終わりましたか? そろそろ、夜の打ち合わせですよ」
絹は立ち上がり、桐山を振り返った。
「じゃあ、秘書見習いとして、最初のお仕事。打ち合わせの準備、手伝ってくれる?」
桐山は、土下座して答えた。
「はいっ! 先生っ!」
それは、国家を変えるには程遠い、小さな和解だった。
だが、それこそが政治の出発点だった。
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