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絹の国  作者: 喜多里夫
第四章 代議士への道

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第26話 風を受けて、立つ

 1927(昭和2)年6月1日。


 梅雨入り前の東京市内に、異様な熱気が立ち込めていた。

 上野精養軒――ここが、この日だけは政党政治の聖地となった。

 憲政会と政友本党の合同による新党、「立憲民政党」の結党式が開催されたのだ。

 総裁に濱口(はまぐち)雄幸(おさち)、党顧問に若槻(わかつき)禮次郎(れいじろう)(前首相・憲政会総裁)・床次(とこなみ)竹二郎(たけじろう)(政友本党総裁)ら4名、幹事長に櫻内(さくらうち)幸雄(ゆきお)、総務に安達(あだち)謙蔵(けんぞう)町田(まちだ)忠治(ちゅうじ)小泉(こいずみ)又次郎(またじろう)斎藤(さいとう)隆夫(たかお)ら10名という顔ぶれである。


 政策としては、「議会中心主義」の理念を掲げていた。綱領の第一にも「議会中心政治を徹底せしむべし」と盛り込まれている。さらに「資本と労働の平等」・「国際的な原則に基づく世界平和」・「教育の機会均等」・「行政改革」も掲げている。保守的な立憲政友会とは一線を画し、「自由」と「進歩」を党の基本理念として掲げるリベラルな政党だった。


 川戸絹は、「東京タイムス」の記者証を付けながら、報道席の最前列に座っていた。

 背筋を伸ばし、手元の取材ノートを片時も離さず、壇上の一言一句を拾い書きしていく。


「これが、政治というものか……」


 壇上で演説する濱口雄幸の口調には、情熱があった。理知的で、穏健で、それでいて強靭な芯を感じさせる。


「我らは、市民のための国家を創る。民衆は国家の資源ではなく、国家の目的である!」


 その言葉に、絹は静かに胸の奥がざわつくのを感じた。


 結党式の数日後、絹が「東京タイムス」本社の自分の机で原稿の構成を練っている時に、政治部の伊藤が慌てふためいた様子で駆け寄ってきた。


「かっ、川戸さん、ちょっと来てぇ!」


「なに?」


「来客だよ、来客!」


「だれ?」


「わっ、若槻さんだって!」


「わかつき……だれ?」


「ええい、じれったい!」


 伊藤は絹の手を掴んで引っ張った。


「若槻禮次郎! 立憲民政党の!」


「若槻……?  禮次郎さんが?」


「そう。川戸さんに個人的に話があるってさ!」


 伊藤に連れられ、絹は応接室に入った。

 そこには、柔らかな表情をした若槻禮次郎が待っていた。


 若槻禮次郎――元首相にして憲政会の重鎮。立憲政友会で長年政治家として活動した後、憲政会総裁として新たな政党「立憲民政党」の結党に関わる。温厚な笑みと落ち着いた声、ゆったりした身のこなしから、初対面でも威圧感を与えない。しかし、その柔和な佇まいの奥には、政界を長年渡り歩いた老練な洞察と、民本主義(デモクラシー)を信じる揺るぎない信念がある。かつて首相として政務を担った経験は、議会内外での発言の重みとなって滲み出る。政治家としての威厳を保ちながらも、個人としては穏やかで、議論では相手の思惑を見抜く観察眼に長けていると言われる。


 今も目は細めながら澄み、柔らかな笑みを浮かべている。声を発すると、驚くほど穏やかで落ち着いており、耳に心地よく響いたが、その奥には確かな意思の強さが感じられた。


「川戸絹さん。先日の結党式の取材ではご苦労様でした」


 彼は机に手を軽く置き、少し前かがみになって絹の目を見つめる。仕草は控えめだが、一つひとつの動作に丁寧さと、長年政治に携わってきた知性が滲んでいる。絹は自然と背筋を伸ばして向き合った。


 心の奥で、絹は思った。


 ――柔らかいのに、確かに強い……この人には、相手を包む温かさと、揺るがぬ意思の両方がある。言葉を受けるだけで、信頼と覚悟が伝わってくる。


「あなたの書かれる記事は、我々の議論のなかでもよく話題になります」


 話しぶりは穏やかで、威圧感はない。だが、言葉の端々に政治家としての経験と洞察が滲み、絹は思わず息を呑む。まるで空気を読むように、相手の心の奥に触れる力があるのだ。


「実は……今日は一つ、お願いというか、打診がありましてね」


 若槻はゆっくりと椅子に腰を下ろす。手を組み、軽く指先を組み替えながら語るその姿は、静かな威厳と親しみやすさを同時に備えていた。絹の目には、穏やかさと強さの対比がくっきりと映る。


 ――この柔らかさは欺瞞ではない。声の低い瞬間に、内に秘めた決断力が滲む……初めて会った人間でありながら、何かに導かれるように心が落ち着くのは、どういうことだろう?


「来年の第16回総選挙、つまり我が国初めての男女普通選挙に、あなたに立憲民政党の公認候補として出馬していただけないかと、私や濱口総裁らで検討しているのです」


 言葉は穏やかだが、一瞬だけ低く落ちる声のトーンに重みを感じる。絹の胸に、選挙や政治の冷徹さではない、人を信じて任せる決意の光が差し込む。


 ――文章で人の心を動かす力はあると思っていた。でも、この人のように、声と姿で訴えかける力には、言葉だけでは及ばない力がある……。


 絹はそっと息を吸った。これから自分が歩むかもしれない道に、確かな現実感と責任の重さが迫ってきた瞬間だった。


 若槻は続けた。


「三重一区から。あなたの郷里ですね。われわれ立憲民政党には、川戸さんのような人材が必要なんです。婦人参政権が実現してから、民衆の声にもっと直接耳を傾けられる者が求められている。特に女性有権者の声に応えるためには、女性候補が必要です。あなたはその第一人者の一人だと、われわれは考えているのです」


 絹は、ゆっくりと息を吸ってから答えた。


「私は……新聞記者です。書くことで社会と向き合ってきました。選挙に出ることが、私にできる最良の方法かどうか、まだ……」


「もちろん、即答は求めません。ですが、あなたのように、社会の底辺や女性の視点から国家を見つめてきた人間が、いま議会に必要なのです」


 若槻は穏やかな笑みを浮かべながら言った。


「私たちが理想として掲げている民本主義(デモクラシー)、それを実際に歩いているあなたのような人物こそが、それを体現できると信じます」


 部屋の窓からは、夕暮れの淡い光が射していた。

 絹は、その光をじっと見つめていた。


 ――この国が変わろうとしている。


 筆ではなく、言葉ではなく、自分自身の声と姿で、誰かに訴える日が来るのだろうか。


――もし、私が議場に立ったとして……新聞の紙面のように、誰かの言葉を正確に写しとれるだろうか? 感情に流されず、でも冷たくならずに。選ぶのは言葉ではなく、法律だ。それが、私に出来るのか……?


 若槻が帰った後、絹は慌てた様子の荒井に話しかけられた。


「おっ、おい、川戸君。君、若槻さんから来年の総選挙に出馬する話があったって、本当か?」


「……まだ決めていません。でも、今のこの国が進む道に、責任を持ちたいとは思っています」


 荒井は少し黙ってから、笑って言った。


「君が行くなら、応援はする。ただ、たとえバッジをつけても、鉛筆は手放すなよ。君の文章には、人の心を動かす力があるんだからな」


 絹は深く頷いた。


「もちろんです。私はどこにいても、声なき人の代弁者でありたいですから」


 その夜、机に向かった絹は、久しぶりに記事を書くペンを置いた。

 代わりに、一通の手紙を書き始めた。


 宛先は、故郷・三重の父。

 娘が、もしかしたら代議士として、新たな道を歩もうとしていることを知らせるために。




   父上様


   東京の空も、そろそろ梅雨に入り申す頃にて候。そちらの田の様子は如何に   

  相成り居り候や。此のたびは、ある大きな決断につき御報せ仕り度、筆を取り 

  候……。




「女が代議士に立候補する時代が来るなんて、誰が想像しただろう」


 呟いた声は、自分のものとは思えなかった。

 絹は亡き婚約者の最後の手紙を開いて、そっと目を閉じた。


   君が筆を執りて世の理不尽を記し、衆庶の声を伝へ給はば、我が志、空

  しからず候。


「もし、あなたが生きていたら、私はどうしていただろう。家に入って、子を産み、筆を執らなかったかもしれない。でも……今の私は、別の道を歩いてきてしまった」


 自問は尽きなかった。記者としての信念。選挙という舞台の荒々しさ。政党の論理。票取りの現実。汚職や派閥争いに巻き込まれるかもしれない。


 だが、それでも心の奥に芽吹いている感情があった。


 ——本当に世の中を変えたいのなら、外側から批判するだけでは足りないのではないか?


 それは、新聞記者として世の中を見た日から感じ始めたものだった。


 翌日の夕方、絹は仕事帰りの志村に会った。


 二人は薄暗いカフェの隅のテーブルに向かい合って座った。


 絹は、若槻禮次郎から総選挙への出馬を要請され、その決意を固めた、と志村に伝えた。

 志村は静かに珈琲をすする。


「絹さん、いよいよ政治の世界に足を踏み入れるんだね……」


 絹は少し緊張しながらも、胸の高鳴りを抑えられないでいた。


「はい。正直、自分でも驚いています。でも、これが私の新しい役割だと感じているんです」


 志村は柔らかく微笑んだ。


「やっぱり、君は記者でも社会運動家でもなく、政治家向きだと思ったよ。文章を書く力も、理想を語る力も大切だけど、結局は『決めて動く力』が政治には必要だからね」


 絹はその言葉に少し照れくさそうに笑った。


「志村さんにそう言ってもらえると、心強いです。でも怖さもあります」


 志村は肩をすくめ、冗談めかして言った。


「怖いのはみんな一緒さ。ただ、君ならきっとやれる。あと、時には軽口も叩いてくれよ。政治の場はな、堅苦しいだけじゃ疲れてしまうからな」


 絹はその言葉にホッと息を吐いた。


「わかりました。志村さん、これからもよろしくお願いしますね」


 志村は微かに目を細めた。


「こちらこそ、よろしく。さあ、覚悟を決めて、行こうじゃないか」




 6月某日。

 麹町(こうじまち)の一角にある、立憲民政党の本部は、築地小劇場にも似た簡素なモダンさを湛えていた。

 磨かれた板張りの床、青灰色の壁紙、そして壁にかかった一枚の額には「民本」の二文字が力強く書かれていた。


 川戸絹は受付で名前を告げ、階段を上った。

 応接間ではすでに、若槻禮次郎が温かな笑顔で待っていた。


「やあ、川戸さん。お忙しい中ありがとう。さて、今日は……?」


 絹は静かに、姿勢を正した。


「立候補の件です。お受けします。私は、立憲民政党の公認候補として三重一区から出馬いたします」


 それを聞いた若槻の顔がパッと明るくなった。


「そうか、それは素晴らしい! 濱口総裁にもすぐ伝えましょう。あなたが加わってくれれば、我が民政党の旗印は、まさに『新時代』を象徴するものになる!」


「ありがとうございます……でも、私は政治家ではありません。一介の新聞記者です。民衆の声を聞き、問い、書いてきました。今はそれを、現実の力に変えたいと思っています」


 若槻は、静かに頷いた。


「あなたのような人物がこの政党に必要なんです……では、あなたの選挙区、三重一区の情勢について少しご説明しておきましょう……おい、誰か」


「はい」


 秘書だろうか。呼ばれるとすぐに顔を出した。


「高杉君を呼んできてくれ」


「はい、ただちに」


 近くで待機していたのだろうか、「高杉」と呼ばれた男は、1分も経たないうちに応接間へ入ってきた。歳の頃は40代くらいか。彼が入ってくるなり、若槻は指示した。


「高杉君、こちらは三重一区の立候補予定者になる川戸絹君だ。選挙区の状況を簡単に説明してくれたまえ」


「はい……それでは失礼します」


 高杉は鋭い目つきでギロリと絹を見た。絹はまるで自分が値踏みされているような気がして内心ゾクッとした。


 高杉は、壁に貼られた大きな日本地図に視線を移した。つられて若槻も絹も地図に目をやる。千島列島の果てから台湾までが版図に収められている。

高杉はその地図の三重県のあたりを指しながら低い声で言った。


「さて、川戸さんもご存じの通り、今回の選挙では、従来の小選挙区制から中選挙区制に変わりました。三重一区の定数は5名です。ここは、津や四日市のような伊勢湾岸の都市部と、川戸さんの郷里のような農村部が混在しています。これは諸刃の剣です。民政党の支持基盤は都市の中間層や知識人、対して政友会は地主層や農村の保守層を押さえています」


「つまり、私の実家の周辺では、政友会のほうが強い、と?」


「今までは、そうでした。しかし今回は違います。初めての男女普通選挙です。女性が票を持つ。この変化に、政友会はまだ本気で対応できていません。立候補予定者は民政党、政友会とも3名ずつですが、是非ここで3議席取って政友会を圧倒したい。それくらい出来ないと、政権は取れません」


 若槻は書類を一枚取り出した。そこには有権者の男女別の統計が記されていた。


「特に川戸さんのような立候補者は、都市部では非常に注目を集めます。農村部でも、教師や看護婦、若い女性たちからの支持が得られる可能性が高い……我が党からは現職の川崎(かわさき)(かつ)君と新人の木村(きむら)秀興(ひでおき)君も出ますが、彼らにはすでに話を通してあります。あなたと協力して選挙戦を進める手筈になっています」


 絹は思わず目を見張った。


「……川崎さんや木村さんとは、面識がありませんが」


「二人とも真面目な人物ですよ。議論もできるし、地元の産業界にも顔が利く」


と若槻が言うと、高杉も、こう付け加えた。


「しかも川崎先生の地元は伊賀上野(いがうえの)、木村さんの地元は員弁(いなべ)郡なので、鈴鹿郡出身の川戸さんとは票を食い合いません。地盤を上手く分割した上で、浮動票をつかめれば、三人とも十分当選圏内に入れると踏んでおります」


 ――すごい。これが「選挙参謀」と呼ばれる人なのだろうか。


 少し間が空いた。絹が訊ねた。


「ただ……女性票の行方は未知数です。若槻さんがおっしゃったように、女性の政治参加は始まったばかり。どうしたら、私の声が彼女たちに届くでしょうか?」


 若槻は両手を組みながら、考え込むように言った。


「君は、難しい質問をするね。だが一つだけ言えるのは、『女らしい訴え』ではなく、『人間としての訴え』が重要だよ。家庭の問題も、労働の問題も、戦争と平和も……女性の人生と無関係なものは何一つない。君は、それを誰よりも知っているはずじゃないかね?」


 絹の胸の奥で、なにかが灯った。


「伝えます。『女』としてではなく、『この国の未来を担う一人』として、話します」


 若槻は、にっこりと笑って言った。


「それでこそ、我が党の候補です。期待していますよ。川戸さん」


 この年の年末にかけて、民政党本部では、党の選挙参謀によるブリーフィングが連日行われた。

 ポスターのデザイン、演説日程、推薦人の顔ぶれ。

 そして、最も重要なのは「誰に何を語るのか」だった。

 絹は、原稿用紙の代わりに街頭演説の草稿を前にペンを走らせる日々を迎えた。

 主婦にも、労働者にも、農村の青年にも、自分の言葉が届くかどうかを何度も自問しながら。




 1928(昭和3)年1月。年が明けてまもなく、日本の政治は大きく動いた。


 前年に結成された立憲民政党は野党第一党として、政治改革と財政健全化を掲げて国民の期待を集めていた一方で、与党・立憲政友会は揺れていた。

 高橋(たかはし)是清(これきよ)内閣は、世論の変化と都市中間層からの批判に対応しきれず、党内でも保守派とリベラル派の間で亀裂が深まりつつあった。

 政局は次第に行き詰まり、ついに昭和天皇の御裁可のもと、1928(昭和3)年1月25日、衆議院が解散された。

 投票日は、2月20日。

 これは、日本の歴史上初めての「男女普通選挙」であると同時に、政党政治の未来を左右する大きな闘いでもあった。

そしてその戦いの場に、川戸絹も立つことになったのである。


 衆議院が解散された翌日。

 冬の風が神田の街を鋭く吹き抜ける朝だった。

 絹は、いつものように東京タイムス社屋の正面玄関をくぐったが、今日はいつもと様子が違った。

 絹が使っていたデスクの上には、もう何も資料は置かれていない。原稿用紙も、校正紙も、編集会議の呼び出し状も、もう無い。

 朝の編集部はいつもどおりざわついていた。タイプライターの音、電話のベル、記者の怒号、笑い声――どこか懐かしくすら聞こえる。


 だが、今日の絹はもう記者ではない。


「川戸君!」


 編集長の荒井が編集部の入り口で腕を組んで立っていた。

 太い眉を吊り上げながらも、どこか照れくさそうに笑っている。


「言っとくがな、うちを辞めたと思わんでくれよ。出馬というのは、一時的な『派遣』だ。なぁに、役人みたいなもんだよ」


 絹はフッと笑った。


「でも、給料はもう貰いませんよ」


「そりゃそうだ。でなきゃ他の連中が黙っちゃいない」


 その「他の連中」が、いつの間にか背後に集まっていた。


 社会部の村岡デスクが、わざとらしく手を叩いて言った。


「はい、はい、今から立候補する人に拍手、拍手ぅぅ!」


 政治部の伊藤が花束代わりの茶封筒を差し出した。


「これ、カンパ。ほんの気持ちです。ささやかながら『選挙資金』ってやつでさ」


「ありがたく受け取ります。でも記事になったら困りますよ、『タイムス記者、現金授受』って」


 ドッと笑いが起きた。

 その中で、ひときわ静かな足取りで、河合奈緒美が近づいてきた。

 新人記者として入社して以来、絹の側にいた彼女は、唇を結び、懸命に何かをこらえているようだった。


「川戸さん、私……私も、絶対あとを追いますから。私、選挙には出られませんけど……書くことで闘います。声にならない声を、女の立場から伝えます」


「うん、奈緒美さんなら、出来る。あなたにはそれが出来るって、ずっと思ってたわ」


 そっと手を取り合う二人の姿を、誰も邪魔しなかった。


 時計の針が午前10時を指していた。


「そろそろ行くわね」


 そう言って鞄を肩に掛けた絹を、皆が一斉に見送る。


 荒井が、最後に言った。


「お前さんの初登院のときゃあ、記者証首から下げて取材に行ってやる。そんときゃ、いい顔で出てこいよな」


「もちろん。質問されても、はぐらかさないですよ」


「そりゃ、いいな」


 笑いながら、絹は階段を下りていった。

 その背中を、誰もがまっすぐに見つめていた。


 玄関を出ると、風が一層冷たく感じられた。

 だが、絹の心には、すでに別の熱があった。


 ――いよいよ、三重へ。故郷へ。生まれ育った土地で、今度は「言葉を書く」のではなく、「信任を得る」という行動を始める。


 東京駅のホーム。

 汽笛が鳴るたび、絹の心臓も小さく跳ねた。

その時。

 ホームに現れたのは、背の高い、陽に焼けた肌の青年だった――絹にはすぐ分かった。


「カンガ!」


その姿を見つけた絹が、大声を上げて手を振った。


「キヌさん!」


「まさか、三重まで一緒に来てくれるとは思ってなかった」


「キヌさんがここまで来るってことは、わたしも来るしかないでしょう?」


 カンガはそう言うと、絹の選挙ポスターを入れた大きな包みを肩に担ぎ直した。


「わたしは敵が誰であっても、キヌさんを守る。そう、誓っているから」


 カンガはそう言うと、絹と一緒に汽車に乗った。

 二等車の切符を握りしめ、絹は乗車口に立った。

 スカートの裾を押さえながら、最後に東京の空を見上げる。


――少しの間、さよなら東京。また戻ってくるからね。


 そう、絹は忘れられてきた人々を、置き去りにされた声を、この国の真ん中に届けるために戻ってくるつもりだった。


 車掌の笛が鳴り、扉が閉まった。


 列車がゆっくりと動き出すと、絹はもう後ろを振り返らなかった。

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