第25話 来るもの、ゆくもの
1926(大正15)年、4月。
「東京タイムス」社屋の一室に、桜の香をまとったような若い空気が流れこんだ。
「新人が来たらしいぞ。女の子だ。東京女高師卒だってさ」
「おお、また『お姉さま』が増えるのか」
「いや、お茶の水って言ったらガチのエリートじゃねぇか。下手すりゃ、うちの社長より論理的かもな」
「にしても名前が……なあ、あれ聞いたか? 『河合奈緒美』っていうんだとよ」
「おう、もろ『痴人の愛』じゃねえか!」
谷崎潤一郎が「東京朝日新聞」と「婦人」に連載した『痴人の愛』は昨年、改造社から単行本化されベストセラーになっている。
そのヒロインの名前がナオミ――漢字で書くと「河合奈緒美」なのである。
「おい、言ってやるなよ、聞こえたら気を悪くするぞ……」
その時、ちょうどドアが開いて、廊下から背筋を伸ばした若い女性が入ってきた。
濃紺のシンプルなスーツ、揃いのスカートに白襟、髪はきちんとまとめられているが、前髪だけが少し反抗的に額にかかっていた。
新人は部屋に入るなり、一瞬空気のざわめきを感じとったようだったが、怯むことなくぺこりと一礼した。
「河合奈緒美と申します。本日からお世話になります。よろしくお願いいたします」
奈緒美はそう言うと、肩からぶら下げた大きなカメラをそっと机上に置いた。古い型だが、手入れが行き届いている。
「おお、きたきた」
「本物の『ナオミさん』だ」
「ホントに言うんじゃないよ」
後方で囁き合う男たちの空気を感じたのか、奈緒美はふと振り返り、声を張った。
「あのぉ、『痴人の愛』のヒロインって言うの、やめていただけますか?」
一瞬、静寂。
「あれは谷崎先生の創作であって、私とは何の関係もありませんから」
奈緒美が嫌がるのも無理はない。
『痴人の愛』は、男性の偏愛と女性の奔放さを描いた恋愛小説である。主人公の河合譲治は真面目な男だったが、カフェーの女給であった15歳のナオミと出会い、妻にする。しかし、性的にも奔放で魅惑的なナオミの言動に翻弄されながらも執着していくという内容で、一般的には「悪女」といわれているのだ。
これは河合奈緒美の鋭さというより、冷静な自己主張だった。軽口を叩いていた記者たちは、目を逸らしたり、咳払いしたり、曖昧な笑みを浮かべたりしてその場を繕った。
そのやりとりをドアの外で聞いていた絹は、クスッと笑って部屋に入ってきた。
「ようこそ。川戸絹です。政治部の末席にいます。女性記者の先輩ということで」
「お噂は、学校でも伺っておりました。光栄です」
「いえいえ。光栄だなんて……じゃあ、あなたは、教育畑からこちらに?」
「はい。私は子供たちに教えるよりも、その親たちに物事を伝えたくなったんです。家庭科の教案より、世の中の構造の方に関心が向いてしまって……」
「その気持ち、わかります……あ、でも変な質問。『子供は好き?』」
奈緒美は一瞬だけ目を泳がせ、それから笑った。
「子供は好きです。でも、あの子たちが育つ社会の方を、もっと好きになりたいんです。だから、書きます」
「……うん、いいね。たぶん、あなた、うちに合うわ」
背後から、
「おお、川戸のお墨付きだ」
「絹さんが言うなら間違いない」
と茶化すような声が聞こえてくる。
「ほら、ああいうところ。慣れるのに少し時間がかかるかもしれないけれど、悪い人たちじゃないわ」
「わかります。でも、悪ふざけは悪ふざけとして、見過ごさないようにしたいです」
絹はその答えに満足そうに頷いた。
「それでこそ。じゃ、配属はもう決まってる?」
「はい、婦人部の予定です。まずは女学校の新課程や婦人会の動向、それから……婦人参政運動の話題も取り上げたいと上司には伝えてあります」
「婦人欄って言っても、意識の持ちようで変わるからね。私は婦人欄の一行が、政治欄の社説より人を動かすことがあると信じてる……いい記事、書いてね」
「はい。頑張ります、川戸さん」
「名前呼びでいいよ。ここは肩書より、鉛筆の芯の硬さで勝負してるから」
廊下の窓から差し込む春の光が、奈緒美の横顔をやわらかく照らした。
「じゃあ、今度カフェで一杯ごちそうする……あっ、もちろんお茶よ」
「ええ、お供します。けど先輩、私、けっこう辛口の批評家ですよ」
「それはますます楽しみだわ」
社屋の外では、震災の瓦礫が片付きはじめた東京の街に、新しい息吹が芽生えつつあった。
この日、赤坂の労働会館は異様な熱気に包まれていた。
「社会主義諸派連絡協議会」と銘打たれた無産政党の統一協議の場には、十を超える党派の代表者がひしめき、開会前から怒声が飛んでいた。
川戸絹は壁際に立ち、静かに鉛筆を走らせていた。
思想犯を裁く治安維持法も特別高等警察も存在しない。ゆえに、こうして各派が自由に言いたいことを言い合える。だが──自由とは、必ずしも結集を意味しないらしい。
「われわれは議会主義に妥協せず、革命政府を目指すべきだ!」
「それでは大衆がついてこない!」
「ついてこないのは、君たちが人民を信じていないからだ!」
「……なんだとぉ?!」
怒号が飛び、机が叩かれ、椅子が引き倒され、ついには「統一協議」は解散となった。
絹は、吐息のような苦笑を漏らした。予想通りだ。むしろ、これで「まとまった」と言われたら驚いたかもしれない。
「見てると、だんだん悲しくなるね」
隣から声がした。振り向けば、志村清。内務省の若手キャリアだ。
「相変わらずの内ゲバ体質だな。大衆の生活よりも、理論と綱領の正しさにこだわる。自分たちの中で勝ち負けをつけることに夢中になってる」
絹はふと、視線を一角に向けた。会場の隅、古びたソファに腰掛け、黙って事の成り行きを見守っていたのは──大杉栄。
かつて暴風のような言葉で東京を揺るがせた男は、今や痩せ、眼鏡の奥に物憂げな光を湛えていた。
「彼……今日は一言も話さなかったわね」
「もう喋らないんじゃないかな。甘粕事件以降、本人なりに変わったんだろうよ」
「でも、現場には来てる」
「そりゃ来るさ。彼はもう『伝説』だからね。静かにしていても、象徴になってる」
志村は煙草に火を点け、淡々と言葉を継いだ。
「前にも言ったと思うけど……陸軍が、震災のとき大杉を本当に殺していたら、彼は永遠の殉教者になって、もっと厄介な偶像になっていたはずだ。泳がせておいて、政治的には『無力化』する。それが賢い支配のやり方さ」
「じゃあ、今も、あの人を……泳がせてるの?」
「は、は、は。内務省はバカな陸軍とは違って、あからさまなことはしないよ。ただ、民間からの『出版補助』がなぜか通ったり、会館の使用許可がすぐに下りたりね。そういうことが、あるだけさ」
「狡猾ね」
「政権ってのは、夢や思想じゃ動かない。使えるものは使うのが原則だよ」
──それが現実。だが、理想を持たねば腐る。
絹はそう思いながら、大杉と野枝の背中を見つめた。二人は並んで座っていた。すでに何かを語るというよりも、語られる存在になりつつある──そんな印象を受けた。
「私は……あの人たちの言葉に教えられることもあったの。でも、今は……」
「今は?」
「距離をとりたいと思う……現実を動かしているのは、別の力だって、もう気づいてしまったから」
志村は頷いた。
「ふうん……君は記者じゃなくて、政治家向きかもな」
「そう? じゃあ、あなたの部署の農地改革の取材、またお願いするわね」
彼女の瞳はすでに、別の世界へと向けられていた。
無産政党が泥沼の路線闘争に明け暮れるその裏で、内務省と農林省は着々と農地制度改革に動いていたのである。
──全国に広がる農村に、希望を埋め込む。
「土地を得た農民は、もう左翼政党を支持しないよ」
志村は煙草の灰を落としながら、静かに言った。
「『失うもの』を手にした人間は、革命なんて望まない。それが現実だよ、絹さん」
絹は黙って頷いた。
理想は風のように消えていくが、土の上には、未来を耕す手がある。
──政治とは、土に根を下ろすものなのかもしれない。
パシャッ!
「いいのが撮れた!」
振り返ると、そこにいたのは新人記者の河合奈緒美だった。大きなカメラを首から下げて、ニコニコしている。
「ちょっと、何撮ってるのよ?」
絹が驚いて訊ねると、奈緒美は悪びれもせず答えた。
「もちろん、殿方と絹さんのツーショット。いい雰囲気ですよっ!」
絹が少しムッとした顔で、
「協議会の取材? あなた、婦人部でしょ?」
と訊くと、奈緒美は肩をすくめて答えた。
「今、無産政党は、女性労働者、主婦層へのアプローチを強めていて、党内に『婦人部』や『婦人連盟』などの下部組織が生まれ始めているんです。そこで、政治参加を訴える女性たちの動向を取材したいと思って。婦人会や女学校では見えてこない現実が、ここにあるんじゃないかなぁって……でも、無産政党の人たちって、いちいち用語が面倒くさいと思いませんか? 『プロレタリアート独裁』だの『ブルジョア民主主義の欺瞞』だの。分かるけど、記事に書けない」
「難しくなりすぎたら、誰もついてこないよ」
と、絹は淡々と言った。
「それに、一般の人は『明日の米の値段』が知りたいの。議論じゃなくて、答えが欲しい。だから彼らは、大衆の不安を代弁してるようで、実は置き去りにしている」
絹は、ため息をつきながらも笑ってしまった。
数日後、東京タイムスの編集部。
掲示板に、この写真が貼り出されていた。
演壇を見つめる絹と志村の後ろ姿――並んだ二人の姿は、どこか親密にも見える。
「なあなあ、これ記事より話題になってないか?」
「いよいよ『東京タイムスの看板女記者』、そろそろ片がつくのかもな?」
「で、相手は未来の内務次官候補か? さすがに手が早いっ!」
冗談半分の声が飛び交う中、河合奈緒美だけは得意げに微笑んでいた。
晩秋の帝都は、静かに沈んでいた。
大正天皇はこの10月頃から体調不良が報じられ、新聞や官報で「天皇御病気」や「天皇御養生」といった表現が使われ始めていた。この夏に若槻内閣の下で金解禁が実施されても景気は堅調に推移していたが、街の空気には言いようのない不安感が漂っていた。
宮城前の銀杏並木はすでに葉を落とし、行き交う人々はどこか声を潜めて歩いている。
そんなある日の昼下がり、「東京タイムス」政治部の絹の机上に、一通の封書が置かれていた。宛名の筆跡は弱々しく、差出人の名は――山科冴子。
かつて「中央日報」で筆を振るった婦人記者であり、絹が目指してきた女性。
そこには、かすれた筆跡でこう記されていた。
「どうか一度だけお会いしたい――駿河台・共立病院三階、二一号室。 山科冴子」
絹はすぐに立ち上がった。
風は冷たく、神田の坂道には枯葉が積もっていた。
薄曇りの空から、時おり細かい雨粒が落ちてくる。
病院の前に着くころには、午後の光がもう黄ばんでいた。
白い廊下を進んで病室に入ると、窓際のベッドで冴子が横たわっていた。
頬はこけ、肩は薄く、まるで骨と皮だけのようだった。
しかしその瞳だけは、燃えるように冴えていた。
「……川戸さん、来てくれたのね。」
「ええ。お手紙を見て、居ても立ってもいられなくて。」
冴子は薄く笑った。
その唇の端に、かすかに血の色が滲んだ。
肺結核――長い闘病の末、もう話すこともやっとだった。
「世の中は、変わるかしらね……陛下の御容態ばかり報じられてるけど、女たちの声なんて、まだどこにも届いていないわ……」
絹は答えを探したが、上手く言葉にならなかった。
冴子は枕元から、書きかけの原稿用紙の束を取り出した。
題名は『女の声を封じる国で』。
鉛筆の線は途中で途切れ、紙の端には淡い血の跡があった。
「これを……あなたに託したいの。私にはもう、最後まで書き上げる力が無い。でも、あなたなら――続けてくれると思うの。」
「冴子さん……私なんかに」
「あなたしかいないのよ。私はもう、新聞の活字のように、すり減ってしまった。でも、あなたはまだ生きて、書ける……声を、続けて。」
その言葉は、かすれながらも力を持っていた。窓の外では、病院の庭に植えられた欅の葉がはらはらと落ちていく。
灰色の空の向こうから、夕陽がひと筋、冴子の顔に差した。
それはまるで、秋の陽が最後の記憶を照らすようだった。
冴子は静かに笑い、遠くを見るように目を細めた。
「……ねえ、川戸さん。あなたがこの国を変えてね。紙面でも、議会でも。どちらでもいい。女が声を上げられる国にして……」
「……はい、必ず……」
絹は涙をこらえながら頷いた。
――彼女はもう長くはないだろう……。
絹が病室を出ると、帝都の空は鈍い夕暮れ色に沈んでいた。
風が落葉を巻き上げ、どこか遠くで鐘が鳴っていた。
絹は胸の中に、冴子の原稿を抱きしめた。
それはまるで、言葉という炎の遺骨のように温かかった。
後年、絹は、こう記している。
「あの晩秋の日、山科冴子さんの手から託された紙束は、私の中の『政治家としての誕生』を告げていたような気がします……あの原稿は今も、私の机の引き出しに眠っています」
この年の12月の空は、どこか重く低く垂れ込めていた。商店街の通りを行き交う人々の足取りは、普段よりもずっと静かで、ざわめきはなく、街の時計の針さえ控えめに刻まれているように感じられた。新聞の号外が配られるたび、人々は足を止め、顔を曇らせ、手にした紙面をそっと抱きしめた。
ラジオのアナウンサーは静かに「大正」という時代の終わりを伝えた。
「陛下が……崩御なされた……」
その声は囁きのようにしか街に響かず、それでも確かに耳を打った。幼子たちは母親の胸にしがみつき、商人は暖簾を半ば引き下げ、行き交う車夫も馬車を止めて頭を垂れた。人々の間には、言葉にならない重みが漂っていた。
しかし、ただ悲しみに沈むだけではない。人々の表情の奥には、国を思い、時代の節目を意識する静かな覚悟も見えた。街路を行き交う群衆の沈黙の中に、日常をつなぐ小さな営み――子どもが走る足音、荷車の軋む音、遠くの寺の鐘の音――が混ざり、都市は悲しみとともに、少しずつ次の朝へ向かって動き始めていた。
12月25日、大正天皇が崩御。即日、皇太子裕仁親王が践祚した。新元号は「昭和」と決定した。
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