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絹の国  作者: 喜多里夫
第三章 関東大震災における体験

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第24話 学ぶ者たち

 へラリアの話題と前後する。

 1925(大正14)年の春、新学期が始まってしばらくした頃。


 東京・成城学園にある成城小学校には校長・沢柳(さわやなぎ)政太郎(まさたろう)の下で新教育運動に邁進している主事・小原(おばら)國芳(くによし)がいた。

 川戸絹は、取材のためその地を訪れていた。


「ようこそ、川戸さん。ここから日本の未来が始まるんですよ」


 にこやかに迎えたのは、小原國芳本人だった。まだ30代後半、瞳の奥には熱い理想が宿っていた。


「教育は、人間を全人として育てること。知識だけじゃない、心と体、そして魂の成長がいるんです」


 絹は、メモを取りながら静かに相槌を打った。


「それが『全人教育』ですか」


「はい。人間は、ただの労働者じゃない。国家の歯車でもない。自分で考え、他者と生きる者です。だから私は、この学園に神も科学も芸術も自然もすべて詰め込むつもりです」


 絹は、目の前の人物に驚きを抱きながらも、同時にどこか釈然としないものを感じていた。

 小原の語る理想は壮大で、熱量も本物だった。だが、その語り口にどこか舞台演出めいた響きがある。


 ――現場を支える教師たちや生徒は、その理想にどう応えるのか。理念が人を育て   

  るのか、人が理念に従うのか……。


 校内を案内され、子どもたちの授業や畑仕事の様子を見ながら、絹は静かに筆を走らせた。


 ――自分で考えられる人間に、か……。


 彼女の脳裏には、南西アフリカ出身の少女・へラリアのことが浮かんでいた。あの子にも、こうした学びの機会があれば――。


 絹は率直に思ったことを口にした。


「けれど、先生……『全人教育』という言葉は、理想が大きすぎて、教師の側をも追い詰めるものにもなりませんか?」


「おや、鋭いですね」


 小原は笑った。だがその笑みの奥に、ほんのわずかな陰りが見えた。


「理想は、大きすぎていいんです。けれど、それを押しつけてはいけない。教育とは、教える者の『背中』で示すものです」


「理想を掲げつつ、なお現実に足をつける。そのバランスが難しい……」


「川戸さん、あなたは新聞記者ですね。情報を伝えることと、真実を届けることは違う。教育も同じです。『教える』と『育てる』は、似て非なる営みなのです」


「……うぅぅん、最近、私は『学ぶこと』を忘れていたのかもしれません」


 小原は首を横に振った。


「忘れているもんですか。あなたの文章には、学びがあります。痛みと、希望も……だからこそ、私たちは同じ時代に生きている意味がある」


 絹はしばらく沈黙し、そしてぽつりと呟いた。


「……自分で考えられる人間に、私はなりたい。これからの子どもたちには、是非そうあってほしいんです」


「それを叶える場所が、ここだと私は信じています」


 小原はそう言うと、木陰のベンチに腰をかけながら、しばし黙って空を見上げた。絹も隣に座り、取材ノートを閉じた。

 蝶が風に舞い、遠くから子どもたちの笑い声が聞こえてくる。


「川戸さん」


 小原が、ふと低い声で言った。


「近いうちに、またお会いするかもしれませんよ」


「えっ?」


「まだ少し先の話ですが……教育も、報道も、国政で交わるはずです。その時、あなたのような人が必要になるでしょう」


 意味深なその言葉に、絹は一瞬返す言葉を失った。


「先生、それは――」


「いずれ、わかりますよ」


 小原は、立ち上がると笑みを浮かべて帽子のつばを整えた。


「さあ、学園の昼食をご一緒に。今日は子供たちが作った野菜のスープがあります」


 その背中を追いながら、絹はその「謎」を胸に残しつつ、また一歩、未来への問いに近づいていた。




 その「謎」は、意外とすぐに解けた。


 5月末、絹は思いがけない人物から招待を受けた。


 ――陸軍省より、宇垣(うがき)一成(かずしげ)陸軍大臣から直接の御招待。


「……陸軍から? 私に何の用が?」


 絹は以前、加藤友三郎大将や井上成美少佐を取材したおかげで海軍とは多少の縁があったが、陸軍とは今まで縁が薄かった。

 東京タイムス社内も少しざわついた。


「絹さん、陸軍省に呼び出されて、いきなりぶった斬られるわけじゃあ、ないでしょうね?」


「よせやい、まさかそんな……」


「いや、わからんぞ。甘粕の一件もあったしな……」


 しかし、荒井は肩をすくめながらこう言った。


「せっかくだから、行ってきなさい。まあ、向こうさんも実がある女を相手にしたいってことかもな」




 そして当日、地味なワンピースに身を包んだ絹は、陸軍省の玄関前で一度深呼吸をし、持っていた革の鞄の取っ手を握り直した。


 女性がここに足を踏み入れること自体、まだ珍しかった。だが招いたのは、現職の陸軍大臣、宇垣一成その人である。どうもきっかけは、以前に絹が書いた『青年たちへ――震災後の再建は教育から』という署名記事だった。震災直後の取材に基づき、国の再建にはまず青年たちの教育と生活環境を整えることが不可欠だと訴えた内容で、「東京タイムス」に掲載されてから、じわじわと軍関係者の間でも読まれていたという。


「川戸記者、お待ちしておりました」


 応接室に通されると、すでに着座していた三人の男たちが絹の姿を見て立ち上がった。


「宇垣です。本日は、ようこそおいでいただきました」


 そう言ったのは、陸軍大臣の宇垣一成。丸顔でニコニコしており、意外と愛想が良さそうだ。その隣にいた男を宇垣が紹介した。


「こちらは永田(ながた)鉄山(てつざん)歩兵中佐。陸軍大学校の教官をしております。将来の陸軍を背負って立つ男だよ」


「よろしく」


 そう言いながら永田は、鋭い視線を絹に投げかけた。こっちは腹に一物ありそうな顔をしている。


「で……こちらの方は、もうご存じだね」


「川戸記者、よろしくお願いします」


 そう言って頭を下げたのは、先日、取材で会ったばかりの小原國芳だった。


 ――この組み合わせは?


 挨拶を交わした絹が訝しげにソファに腰を下ろすと、宇垣が口を開いた。


「川戸記者、お忙しい中、恐縮です。読ませてもらいましたよ、君の『青年たちへ――震災後の再建は教育から』。いや、なかなか鋭い。お嬢様気質では書けないものだ」


「恐縮です、大臣。ただ、私は『軍事』を書くつもりではなく、『暮らし』を書いたものでして……」


「その『暮らし』こそが、軍の根っこなのだよ」


 宇垣は立ち上がり、窓際に歩く。外では兵士たちの号令が微かに聞こえる。彼はしばらく外を眺めた後、再び席に着いた。


「君の書いた通り、兵士の多くは小学校卒。だが、かなりの数が読み書きもおぼつかず、命令の意味も戦術の原理も理解しないまま、上官の号令一つで動いている。これは軍にとって良くないことだ。そして国家にとってもな」


「……私も、まさにその点を感じておりました。小作農の家に生まれた青年が、徴兵され、教練で初めて時計の読み方を覚える。そうした話をいくつも取材で聞きました」


「そうだろう。だから、私は陸軍の兵力を14個師団まで縮小する代わりに、質を徹底的に上げたい。それは新兵器の導入といった物質的なものだけではない。考える兵、動ける兵、そして民としても役立つ兵士を育てる。それには、国家全体の教育水準を引き上げねばならん」


 絹はその言葉に、思わず顔を上げた。


「……そのために、私をお呼びになったのですか?」


 宇垣は頷いた。


「軍に『教育の大切さ』を説くには、内側からの論理だけでは限界がある。だが、君のように社会を見つめ、しかも世情に通じている者が、『教育こそが国の礎』と語れば、それは軍人の耳にも届く」


「私は軍部のために筆を執ってきたわけではありません、大臣」


「だが、結果として君の言葉が、軍にも国にも必要なのだ……どうだ、今度は『軍と教育』の関係を一筆、書いてみてくれんか」


 絹は一瞬、沈黙した。軍と教育。今までは、むしろそれは対立するものだと思っていた。だが今、目の前の男は、教育を通じて軍を、社会を立て直そうとしている。まるで、軍を「近代国家の一機関」として再構築しようとしているようにさえ思えた。


「それが、子供たちを『兵士にする』教育ではなく、『人間にする』教育であるなら……」


「その違いを、君の言葉で説明してくれればよい。私はそれを軍の中で通す努力をする……軍は、社会の鏡だ。社会が愚かであれば、軍も愚かになる。教育は軍を救い、ひいては国家を救うのだ」


 絹は深く息を吸った。震災で焼けた下町、土に伏した農村の母子たち。彼ら彼女らの顔が、絹の中で重なる。

 宇垣は続けた。


「私は軍人だ。だが、戦を望んでいるわけではない。勝てる戦も、愚かな戦もないのだ。国家にとって必要なのは、健全な民だ。そして、健全な兵士だ……それを育てるのが教育でなければ、何がある?」


 続いて同席していた永田が語った。


「皆さんもご存じの通り、我が陸軍は、軍縮を進めております。しかし、これは単なる兵力削減ではありません。近代化を進め、軍の質を国民全体の教養と連動させる……その視点が必要と考えております」


「国民の教養と、軍の質……?」


 宇垣は頷いた。


「このたびの欧州大戦によって、戦争の形は大きく変わりました。兵士たちは、ただ命令に従い突撃すればよいというわけではなく、情報戦、通信、地理、医療、言語……これらの知識の無い兵では、勝利はおぼつきません」


 永田は苦い表情をして言った。


「西部戦線の我が軍の兵士たちは、明らかに他の列強諸国、仏・英・米・ベルギーの兵士たちよりも修学期間が短かったのです。例えば英国やドイツの兵士は、戦車や電信、照準装置を理解し、操作し、整備も行える。しかし我が軍には、『読み書き算数』がままならぬ兵士が、何割もいる。機関銃の取り扱い説明書が読めないどころか、ひどいのになると『右向け右』の意味も通じない者すらいるのです。だから……我々も欧州大戦の戦訓から学んだのです」


 絹は目を閉じた。脳裏に櫻井謙次の顔が浮かんだ。しばらくして、口を開く。


「……つまり、兵士にも高度な教育を、ということですか?」


「そうです。最終的には中等教育の義務教育化を、我々は目指しております。もちろん、それは男子だけではなく、女子もです。これは贅沢ではなく、文明が進んだ国では当然なのです。文部省にも働きかけようと思いますが……世論の理解も要ります」


 永田はそう言うと、絹の方を見た。

 絹はしばらく言葉を失った。


――教育を武器にする軍部……でも、その発想が、私の理想と重なっている部分がある……。


 絹は、言った。


「教育とは、『自分で考える』ということです。命じられるだけではなく、問いを持つこと。それは……兵士にも通じるのでしょうか?」


 宇垣は少し微笑んで、答えた。


「もちろんです。兵もまた国民です。考える力を持つべきでしょうな。もちろん、指揮に従う訓練は必要ですが、盲目的であってはならぬ」


 しばらく沈黙が流れた。


 やがて絹は言った。


「私は記者です。信じたいと思ったことでも、すぐには信じません。ですが、今のお話には耳を傾けたいと思います」


「ありがたい。川戸記者の書く言葉には、人を動かす力がある」


 宇垣は、そう言いながら、やや重く頷いた。


「これからは、記者も教育者も軍人も、共に国事を考える時代なのかもしれませんな……つきましては、今後もこういう会合を定期的に行わせていただきたい」


 絹は小さく頷いた。彼女の目の中に、これまでとは違う国家像が芽生えつつあった。


 ――陸軍と手を携える? 今まで考えてもみなかったことだ。世の中に受け入れられるかどうかは、まだわからない。だが、今はこの出会いが、何か新しい時代の前触れであることを、肌で感じていた。


 絹は、永田から渡された資料に目を通した。それは、思いのほか重苦しい内容だった。


 「川戸君、聞き及んでいるかね……我が軍の西部戦線の実態を」


 宇垣陸相の声が低く、しかし鋭く響く。絹は筆を握りしめながら、ただ頷くしかなかった。


 報告書には、日本軍の装備状況が詳細に記されていた。航空機はわずか百機程度。戦車はゼロ。英仏米独の連合国軍はもとより、ベルギー軍にさえ劣る装備の実態。さらに、徴募された兵士の学力や一般教養は低く、他国軍兵士と簡単な意思疎通すらままならない。


 「……謙次さんは、そんな戦場で……死んだのか」


 絹は心の中で呟いた。かつての婚約者、若き理想家の謙次。彼は志半ばで命を落とした。紙の上の数値では測れない、生身の人間の犠牲。目の前に広がる数字の冷たさに、絹の胸は締め付けられた。


 永田鉄山は淡々と続けた。


 「日本軍は勇猛だが、物量と教育の面では到底、欧州の近代戦に太刀打ちできぬ。我々の勝利は、戦術や士気に依存せざるを得ない」


 絹はメモを取りながら、胸の中で言葉を繋げた。


 ――戦争は、ただの数字や戦術ではない。人の命と、国家の未来を計るものなのだ。


 資料を閉じ、絹は深く息をついた。記事にまとめるべき現実は、あまりに痛ましく、あまりに重い。


 宇垣は窓際から戻ると、再び絹の方を向いた。


「川戸記者、もうひとつ付け加えたいことがあります」


 絹は身を乗り出す。


「私は軍人である前に、国家の一員として考えます。軍事力だけで国は守れません。国を強くするのは、国民の知恵と意識です。すなわち、デモクラシーです」


 絹は目を見開いた。


「デモクラシー……?」


「そうです。自由に考え、議論し、選び、責任を持つ市民の力こそ、国家を支える。そしてその国家の強さこそが、軍を真に強くする」


 永田も頷いた。


「軍が力を誇示していても、国民が盲目で従順なら、結局は国は脆い。教育を通じて国民が自ら考え行動できるようになれば、軍も初めて建設的な役割を果たせるのです」


 絹は胸の奥で何かが震えるのを感じた。自分が抱いていた軍人のイメージ――権威的で閉鎖的、冷徹で単純な存在――は、今、音を立てて崩れた。

 目の前の二人は、確かに軍人でありながら、国家と民の未来を深く思慮している。


 ――自分は偏見を持っていたのかもしれない。少なくとも一部の軍人は、軍事だけでなく、国家のことを考えている。大衆社会に直面し、軍も大きく変貌していかざるを得ないのだ。


 絹は思わず息を飲み、机に置かれた資料に目を落とした。その紙の文字と数字の奥に、初めて「希望」の光を見た気がした。




 その晩。


 絹は、玉川学園と陸軍省での取材をまとめ、記事の草稿に向き合っていた。


   全人教育と軍近代化――相容れざるもの、今や接点を求む


――誰のための教育か。誰が学び、誰が教えるのか。


 紙面の余白に、絹は走り書きをした。


――思考する兵士、思索する市民。時代はそこを試している。


 その言葉は、やがて次の見出しとなる。


   学び行く国民――教育と軍事、其交叉に立つ


 絹の書いた原稿を見た記者たちは、ざわめいた。


「陸軍が義務教育の延長を提言するって、本当か?」


「子供たちが中学校まで行ける時代が来るのか?」


 しかし、絹は思う。


 教育とは、誰かのために用意されるものであってはならない、と。 

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