第22話 春の光と歩み
1924(大正13)年。大震災から半年が過ぎた東京には、なお瓦礫の影と仮設住宅の列が残っていたが、その上を新しい風が吹いていた。
1月31日、衆議院が解散された。
男たちに25歳からの選挙権を与えると公約した原内閣・政友会に対し、野党・憲政会と革新倶楽部は「男女ともに20歳以上の普通選挙」を掲げ、全面対決を挑んだ。
与党は、選挙権の野放図な拡張は無産政党などの議会への進出につながり、その影響力を増大させ政治的安定を損なうと主張し、野党は参政権を与えることで社会主義的な諸潮流も体制内への取り込みを図ろうと考えていた。
絹は記者として、選挙戦を追った。街頭演説の声、掲げられる幟、田舎から汽車でやってきた若者たちの目の光――そのすべてが、明らかにこれまでとは違っていた。
震災と戒厳令、そして軍部の暴走。その痛みが社会を変えつつあった。
3月下旬、飯田橋の小さな茶房には、姜明洙の東京物理学校卒業を祝うため、絹やカンガも含めて十名あまりの仲間が集まった。
当時、東京物理学校では卒業生が少なかったため卒業式も行われていなかった。それでは寂しいというので、友人たちが自主的にささやかな送別会を開いたのである。
「姜さん、本当におめでとうございます」
絹がお祝いの品として万年筆を差し出すと、周囲からも、
「おめでとう!」
の声が重なった。
隣に座るカンガもにっこり笑いながら肩をたたく。
「君が無事に卒業したこと、わたしも嬉しいです」
姜は少し照れくさそうに微笑んだ。
「ありがとうございます。昨年の大震災では、大変な目に遭いました……でも、それも含めてたくさんのことを学びました」
「本当に生きててよかったよ」
と、向かいの席の佐々木という学生が感心したように言う。
「うんうん、地震だけじゃない。自警団のこともあったから、あの時は心配したんだぜ」
と、同じく学生の田村が頷いた。佐々木も田村も姜と同じ、東京物理学校高等師範部の卒業生だ。
姜は胸を張って言った。
「来月からは、京城の中等学校で理科の教師になります。子供たちに自然の美しさと科学的なものの見方を伝えたいと思っています」
拍手が湧き上がる。
「それは頼もしい! 姜君ならきっと、良い先生になれる!」
「いや、世界に出るくらいの気概だよ!」
「次の同窓会には、生徒たちも紹介してもらわないとね!」
皆の笑い声が少し落ち着いた頃、姜の向かいの席に座る佐々木が静かに語り始めた。
「姜君、正直言うと、最初は韓国から来たって聞いてちょっと緊張したんだ」
「……え?」
「でも、君と一緒に実験して、議論して、笑って……気がついたんだよ。科学的真理の前に日本人も韓人もない。僕たちは姜君を、仲間だと思ってる」
姜は目を輝かせ、深く礼をした。
「ありがとう……胸が一杯です」
絹は微笑みながら言った。
「国へ戻っても、頑張ってね」
「川戸さんこそ、政治や社会の現場で、これからも頑張ってください」
姜はこの日交わした言葉と笑顔を胸に刻み、教師としての第一歩を踏み出す決意を新たにした。
ざわめきと笑い声が、東京の街に春を呼び込むように響き渡った。
茶房の前には、春の光が柔らかく降り注いでいた。川沿いの桜並木はまだ蕾が綻びかけ、淡い桃色の影を路面に落としている。川面には午後の陽光が反射して、キラキラと小さな光の粒を散らしていた。
さて、総選挙であったが、関東大震災後の選挙人名簿の作成が手間取ったこともあって、投票日が5月10日までずれ込んだ。そして、選挙の結果は、野党側の勝利に終わった。
与党・政友会は敗北し、憲政会と革新倶楽部が連立で政権を獲得。6年9ヶ月という憲政史上最長の政権だった政友会の原敬内閣はついに退陣し、憲政会の加藤高明を首班とする新内閣が発足した。新内閣はただちに「普通選挙法」の制定に着手した。
それは、かつて誰かが「夢物語」と呼んだ法案だった。
――次回の総選挙より、20歳以上のすべての男女に選挙権、25歳以上のすべての男女に被選挙権を付与する。
その報を受けて絹が取材に行った、東京・麹町の一角にある婦人参政権獲得期成同盟本部では、喜びの声が弾けていた。
「ついに、ここまで来たのですね」
笑顔を浮かべているのは、市川房枝だった。絹はその目に光るものを見逃さなかった。
「私たちは、『選挙に出たい』とは言いませんでした。『選挙に行きたい』とだけ言い続けたのです」
市川は、勝者の誇りをまとっていた。
一方で、絹が翌日訪ねたのは、荏原にいる大杉栄と伊藤野枝だった。
野枝は喜んではいたが、市川とは違う表情をしていた。
「確かに、一つの大きな壁は越えた。でも……国民の政治参加の権利が、『投票する』という形に矮小化されないか、私はそれが少し怖い」
「怖い?」
と、絹が訊き返す。
野枝はうっすらと笑いながら言った。
「だって、選挙に行くだけで『自分は政治に参加した』と安心してしまう人が、これからどんどん増えるかもしれない。そうやって、声をあげたり、街に出てデモをしたり、意見を書いたりする人が減っていく……そんな未来が来ないことを祈るわ」
「……大杉さんは、どう思われますか? 何だか最近、『以前より丸くなった』と言われているようですが?」
「丸くなったと言われるが、実際、腰を痛めただけさ。あと、年を取った。もう若者の血の騒ぎにはついていけないよ」
それでも、眼鏡の奥の眼はかつての炎を完全には失っていなかった。
「今の共産党? 理屈は立派だ。でもね、運動をやってる連中は理屈で動くと思ったら大間違いだ。あれはね、情の世界なんだ。だからこそ、派閥ができ、分裂する。権力はそれを黙って見てるだけでいい……力を振るわずとも、勝てると思ってるんだ」
「あなたは、それを悔しいと思いますか?」
と絹が尋ねると、大杉はフッと笑った。
「いや、むしろ羨ましいと思うよ。そういう『余裕のある国家』を、私はかつて夢見たからね……まさか、それが『抑圧の別の形』だとは、昔は気づかなかったけど」
外ではもう春めいた風が吹いていた。
絹は取材ノートを閉じて、ゆっくりと大杉と野枝に頭を下げた。言葉にはしなかったが、二人の不安は絹の胸の中にもわだかまっていた。
――制度が整うことで、かえって人々の想像力が止まってしまうことがある。
けれどその時、絹は思った。
――止まる者がいたとしても、歩き続ける者も必ずいる。私も歩き続ける一人でいたい。
震災後、命を拾った大杉栄は、一時期の闘争的な姿勢を少し和らげていた。とはいえ筆を緩めることはなく、『改造』や『文化戦線』といった雑誌に、権力と社会構造をめぐる硬質な論考を相次いで寄稿し続けている。
ただ、今の彼の言葉には、かつての激情とともに、静かな粘り強さが加わっていた。もはや怒りに身を任せるのではなく、思想と言葉によって社会の深部に問いを投げかけようとしているようだった。
普通選挙法は制定されたが、同時に取り沙汰されていた治安維持法案は結局、廃案となった。すなわち、「思想」を理由とした逮捕や弾圧が正当化される根拠が消えたことで、日本の知識人社会には新しい呼吸が生まれていた。
社会大衆党や労働者農民党などといった社会民主主義や社会主義を唱える無産政党が次々と結成され、1922(大正11)年に結成された日本共産党も合法政党として存続し、表立っては弾圧されることなく、ビラを配り、集会を開き、議会に候補者を立てていた。労働運動も、女性運動も、困難を抱えながらも明るい希望を帯びて前進していたのである。
街角の雑踏で、女学生たちが叫んでいた。
「うちらも帝大、行けるようにするぞぉ!」
そのすぐ脇では、元兵士のような男がぼそっと呟いた。
「投票?……誰が何やっても変わらねえよ」
新しい風の中に、希望と疲労が混じっていた。
震災という巨大な破壊の後、それでも人々は、かつてより少しだけ広い空気の中で息をしているようだった。
絹はそれを、歩きながら、書きながら、感じ取っていた。
そんなある日の夕刻。
絹は志村に誘われて、震災後にようやく営業が再開された銀座の資生堂パーラーに出かけていた。
夕暮れの銀座通りには、仮設の建物と新築の鉄筋ビルとがまだらに並び、復興の匂いと埃のにおいが混じっていた。その一角に立つ資生堂パーラーの明かりは、行き交う人々の目を引き寄せていた。
ガラス扉を押して中に入ると、ふわりと洋酒とバターの香りが鼻をくすぐる。店内はすでに多くの客で賑わっていた。テーブルには、洋装の紳士や夫人、復興を担う事業家たち、さらには流行に敏感な女学生たちの姿まである。
銀のカトラリーが小気味よく皿に当たる音、談笑の声、ナプキンをさばく給仕の足音――それらが重なって、独特の華やぎをつくっていた。壁際のテーブルでは、外套を椅子にかけた実業家風の男たちがワインを傾けながら景気の話をし、奥の方では髪をモダンに切り揃えたタイピスト風の娘たちが、アイスクリームソーダを前にして笑い声を上げている。
白いテーブルクロスの上に運ばれる料理は、香ばしいビーフシチューやハヤシライス、グラタンにクロケット。どの皿からも立ちのぼる湯気と香りが、外の煤けた瓦礫の匂いを忘れさせた。
ガラス越しに外を見れば、まだ復興半ばの街並みがある。だが、この店の中だけは、東京が再び「モダンの都」であることを先取りするかのような熱気に包まれていた。
給仕が「お待たせいたしました」と笑みを添えて皿を置くたびに、テーブルごとの会話がひときわ弾み、店内の空気はさらに華やいでいった。
もっとも、絹と志村の話題はお堅いものだった。
「……震災というのは、ただの自然の災いであるはずなのに、人間の心まで露わにしてしまうものですね」
「ええ。井戸に毒を入れただの、誰それが火を放っただの……ありもしない噂で人が殺される。理性どころか、人の命の重さすら見えなくなる」
絹の声には怒りと悲しみが入り交じっていた。
志村は頷きながら、少し逡巡したのちに話題を切り替えるように言った。
「こういう混乱の中でこそ、社会のあり方というものを考えねばなりません。絹さんは……社会主義や共産主義について、どうお考えですか?」
突然の問いに絹は目を瞬いたが、やがて真剣な顔で答えた。
「……理想としては、わかります。誰もが平等で、貧しさのために夢を諦めなくて済む社会。弱き者が搾取されない仕組み。私自身、記者としてそういう社会を夢見ない日はありません」
少し間を置いて、「でも」と続ける。
「でも……現実は、そう簡単にはいかないでしょう。人は欲を持つ。権力を持てば、それを手放そうとしない。理念だけで人を導くのは、きっと難しい」
志村は深く息をつき、机の上に指を組んだ。
「私も似たような考えです。理想は人を惹きつけます。しかし、現実の社会には、利害や国益や、もっと泥臭いものが必ず横たわっている。絹さんが見たような、あの暴徒の群れを、理想だけで制御できるでしょうか」
二人の間に、しばし沈黙が落ちた。
絹は静かに口を開いた。
「……ロシアでは、革命が成功して新しい国が生まれましたね。ソビエト連邦。労働者の楽園だと宣伝する記事もあります」
志村は薄く笑みを浮かべる。
「ええ。しかし実際のところはどうでしょう? 彼らはまだ産声を上げたばかりの国家。内戦も続いたし、経済は疲弊し、飢えに苦しむ民衆の声も絶えません。理念を掲げるのは立派ですが、それを支える現実の力はまだ脆い」
絹は頷きつつ、窓の外に視線をやった。
「もし、あの国が本当に平等で豊かな社会を築けたなら……世界は大きく変わるでしょうね。帝国主義も、戦争も、過去のものになるかもしれない」
「しかし――」
志村の声が低くなる。
「もし彼らが理念を守れず、権力を一部の者が握りしめたならどうなるか。独裁者が現れないとも限らない。労働者の名を騙って、逆に民を縛りつけるような……そういう恐ろしい未来も、考えられるのです」
その言葉に、絹は思わず身震いした。
「……独裁者。たしかに、人は理想に酔うと、それを実現する強い手を求めてしまう。けれどその強さが、暴力や抑圧の形で現れることもあるのですね」
志村は深くうなずき、淡々と続けた。
「ですから私は、個人の自由と責任を基盤にした社会を信じたい。理想を見失わず、しかし人間の欲や愚かさをも計算に入れた仕組み……憲政の発展も、教育の普及も、そのために必要なのです」
絹は少し笑みを浮かべた。
「……志村さんらしい、現実的な答えですね。私はどうしても、夢を語りたがる。けれど記者である以上、現実を見て書かなければならない」
「夢を見るのも、現実を見るのも、どちらも大切です。絹さんには、その両方を抱く力がある……うん、このビーフシチューは旨いな」
志村は料理を口にしながら言った。
「やれやれ、共産党の連中、また内ゲバ騒ぎですよ。党大会でも『粛清だ』『統一戦線だ』って揉めてるらしい……まあ、内務省としては、彼らを泳がせておく方が都合がいい」
絹は少し眉を顰めた。
「狡猾ですね」
「力を使わない分、民主主義国っぽく見えますからね。新聞も自由、政党も合法、反体制派も議席を持っている……でも、反体制派の内ゲバまで自由に報道されると、『あいつらには政権は任せられない』って、一般の有権者は自然と思い込むでしょう」
絹は、その言葉に複雑な思いを抱いた。
「大杉の最近の活動、出版資金の出どころを知ってますか?」
「出どころ?」
「民間の文化振興財団……名目はね。だが、実際には内務省からの支援が入っている。表立っては絶対に出来ない金だがね」
絹は息を飲んだ。
「……何のために? 彼は無政府主義者よ。内務省がそんな人物に資金を渡すなんて」
志村は、灰皿に煙草の灰を落としながら、低く言った。
「共産党対策だよ。共産党は今や組織として力を持ち始めた。大杉は無政府主義者だから共産主義者とは思想的に水と油のように違う。内務省としては彼を力で抑え込むより、泳がせて左翼の内部分裂を誘った方が合理的というわけさ」
「そんな、馬鹿な……」
「馬鹿じゃない。むしろ合理的だ。革命家を殺して殉教者にするより、泳がせて穏やかな思想家にした方がずっと得だ。陸軍のバカどもみたいに誰彼構わず殺そうとすれば、炎はむしろ燃え上がる。そういう意味では、甘粕の一件は完全な失敗だよ。あれで左翼が一致団結しかけた。内務省はその教訓をよく覚えてるってわけだ。その意味で、治安維持法案の廃案もしかるべきさ」
絹は返す言葉に詰まりながら、カップの縁に目を落とした。彼女の胸に大杉の横顔が去来した。彼の眼差しは鋭かったが、最近はどこか疲れてもいるように見えた。
「……本当に大杉さんが、それを知っていて黙っているなら……彼自身も、変わったのかもしれない」
「変わったとも。というか、変えられたんだ。彼よりも国家の方が一枚も二枚も上手だった。それだけの話さ」
志村は肩をすくめた。
絹は唇を引き結び、窓の外に目を向けた。街路樹が風に揺れていた。
「私は……嫌いじゃないのよ、大杉さんや野枝さんの言葉。いつも、どこかに真理があると思ってる。でも……同じところには立てない。立つつもりもない」
志村は軽く笑った。
「君らしいな。だが、君たちの思想は火をつければよく燃える。お互いにね」
絹はゆっくりと椅子に背を預けながら言った。
「……政治って、本当に、そういうものなのね」
「そういうものさ。清濁併せ呑むのが、国家というものだ」
「清より濁が多くなってきたら、どうするの?」
志村は微笑した。
「その時は君が、濁りを報せればいい。記者というのは、そういう仕事だろう?」
絹は小さく笑った。
「志村さん、ずいぶん都合のいいことを言うのね」
だが、その笑いの奥には、ほんのわずかな感謝と諦念とが混ざっていた。
「つまり、『見せる民主主義』ですね。市民は自分の意志で『理性的な選択』をしているようで、実は導かれている」
志村は笑った。
「そんなことを言ったら、元も子もないよ……でも、君もその現実をわかっている一人じゃないのかな?」
絹は口には出さなかったが、こう思った。
――それでも、導かれる先が「地獄」ではなく「問いのある場所」であれば、私はまだ希望を持てる。そう思わなければ、私はもう、書けない。
後日、絹は裏を取ったうえで「大杉栄の出版活動と国家」という小さなコラムを掲載した。角が立たぬよう筆を入れつつも、読者の目に届くように伏線を張った。内容に名指しこそなかったが、行間から浮かび上がる国家のしたたかさに、識者たちはすぐに気づいた。
だが大杉本人は、この記事を読んでも一切反論はしなかった。ただある日、彼女に私信を寄越しただけだった。
君の文章は、正確すぎて退屈だ。だが、そこにほんの一滴の毒があれば、世界
は少しずつ変わるだろう。
その手紙を読んだ時、絹は微かに微笑した。
自分は、どちら側にも染まらない。
だが、どちら側の言葉も聞き取り、記録し、必要なら告げる。
それが川戸絹の矜持であり、やがて一つの政治的立場を形づくっていくのだった。
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