表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
絹の国  作者: 喜多里夫
第三章 関東大震災における体験

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

22/51

第21話 恐怖が支配せし街

 火と煙が街を焼き尽くした翌日、神田の「東京タイムス」社に、内務省の志村清が訪れた。


「志村さん!」


「これは川戸君……よかった、無事だったんだね」


 しかし、挨拶もそこそこに志村は眼鏡の奥の目を鋭く光らせ、周囲を警戒するようにして、絹の耳元で囁いた。


「君も取材したことのある大杉栄……やられるかもしれん」


「やられる?……誰に?」


「憲兵隊が動いている……すでに、亀戸(かめいど)で10人以上の労働運動家が『行方不明』になっている。皆、連行されたきり戻っていない」


 息を呑んだ絹は、手にした鉛筆を机の上に落とした。


「それが……震災と、何の関係が?」


「どさくさ紛れだ。非常時に紛れて『掃除』を済ませようとしている。口には出せんが、省内でも囁かれてる。記者である君の耳に入れておくべきだと思った」


 絹はすぐに立ち上がった。


「住所、知ってます。荏原(えばら)区……行きます!」


 志村は頷き、低く言った。


「やっぱり、君は行くのか……行くなら早い方がいい。今夜までは、もたんかもしれん」




 絹は姜明洙の身柄の保護をくれぐれも同僚に頼むと、午後の陽射しがなおも焼けつくように熱い中、カンガとともに荏原区にある大杉邸を目指して歩き出した。交通は途絶し、瓦礫が道を塞ぎ、地割れの走った通りを縫うようにして進む。


 だが、街は災害の混乱だけでなく、もう一つの恐怖に支配されていた。

 絹たちは三たび、自警団に足止めされた。


 最初の一団は、竹槍で武装した男たち。地元の住民であるが、顔に緊張と猜疑心を浮かばせて、絹とカンガを睨みつけた。


「おい、あんたら。がぎぐげご、言ってみろ」


 カンガはきょとんとした顔で絹を見て尋ねた。


「どういうことですか?」


 絹は抑えた声で答えた。


「韓人には発音しづらい音だって決めつけて、識別に使ってるの。でたらめよ」


 殺気だった男たちは、


「違うなら違うって証拠を出せっ!」


「どこから来た?」


「何者だ?」


と、次々に問い詰めた。

 絹は記者章を見せながら、


「この人は新聞社の同僚です。日本人じゃないけど、害をなすような人間じゃない」


と訴え、ようやく通された。


 二度目の団は、もっと若い連中だった。


「韓人が井戸に毒を入れたって聞いたぞ」


「どっかで暴れたらしい」


と、互いに不確かな情報を飛ばし合いながら、興奮と恐怖で目が血走っていた。


 その時だった。


「アイゴォォッ!」


 路地の奥から悲鳴のような叫び声が聞こえた。

 見ると、十数人の男たちが数名の若い韓人を取り囲んでいた。


「韓人だっ!」


「ぶち殺してしまえっ!」


 韓人たちは逃げようと体を捩るが、男たちは力ずくで韓人を押さえつけ、手近な棒で容赦なく叩いている。


 ドガッ、ドガッ、ドグッ!


 倒れた者をさらに蹴るような仕草も見えた。


「……あれは……何てことを……」


 絹の声は震えた。

 カンガが絹の腕を強く掴む。

 絹は視界の端で、怯えた韓人たちが必死に身を守ろうとしているのを見た。泣き声や悲鳴が耳に届く。


「……こんな時に、人の心までが狂うなんて……」


 絹は胸の奥が締めつけられ、言葉を失った。自然の猛威に加え、人間同士の恐怖と憎悪が街に蔓延している。

 カンガは視線を絹に向け、低く頷いた。


「ここは危険です。私たちは早く大杉邸へ行きましょう」


 二人は群衆の流れに乗りながら、路地を抜け、荏原区の大杉邸へ向かう。背後で小さく怒号とざわめきが続いている。絹は心の奥で、その光景を忘れまいと誓った。


 三度目の検問の後、ようやく開けた通りに出たとき、絹は吐息をついた。


 「まるで戦場だわ……」


 カンガが訊いた。「本当に、韓人が暴動を起こしてるんですか?」


 絹は答えられなかった。

 確かに、あちこちで似たような話を聞いた。だが、誰もそれを「見た」とは言っていない。ただ噂だけが肥大し、言葉が暴力の理由になっていく。


 ――もし、これが……誰かの意図した「陰謀」だとしたら?


 汗ばんだ背筋に、震えが走った。

 荏原の町に入った頃には、もう日が落ちかけていた。焼け残った街並みの向こうに、大杉邸の瓦屋根が見え始めた。


 絹の胸は高鳴っていた。


――どうか……間に合って。


 玄関の扉を叩くと、玄関口に伊藤野枝が現れた。髪は乱れ、目の下には濃い隈があった。絹を見て、一瞬、誰かわからなかったようだったが、次の瞬間に眉を上げた。


「あなた……記者の……」


「お願い、急いで大杉先生に会わせて。時間がないの」


「何が……起きたの?」


 絹が小さく「命の危険がある」とだけ告げると、野枝の顔色が変わった。


 土間を通って奥へと通され、薄暗い縁側の部屋に大杉栄がいた。白いシャツの袖をまくり、何かを紙に書きつけている。


「大杉先生っ!」


 振り向いた彼の目には、疲労と緊張が混じっていた。


「おや、誰かと思ったら、新聞記者の君か。どうした、こんな時に……」


 絹は息を整えながら言った。


「憲兵隊が動いています。あなたを……殺そうとしているかもしれない」


 大杉の表情は一瞬だけ凍りついた。


 そして、ふっと笑った。


「そうか……ようやく、来たか」


「先生、避難を。今すぐ。安全な場所へ」


「そんな場所が、この東京にあるのか?」


「アメリカ大使館なら……関係者を通じて、交渉できます」


 野枝が口を挟んだ。


「甥の宗一(むねかず)も来てるの……どうやって行くの?」


 その時だった。門の外から、複数の足音が近づいてきた。


 絹はカンガと目を合わせ、一瞬の沈黙の後、叫んだ。


 「裏口から出ましょう!」


 4人の大人と1人の子どもは、乱れた廊下を走り抜け、裏口から外へ飛び出した。



 荏原の裏路地を駆け抜け、大杉栄と伊藤野枝、大杉の甥である橘宗一を含む5人は、間一髪でアメリカ大使館にたどり着いた。


 絹とカンガは、大杉たち3人が門を叩き、事情を説明し、大使館職員に迎え入れられる一部始終を、敷地の向かいから見届けていた。


 「……助かった」


 カンガがつぶやいた。絹は何も言えなかった。ただ、自分の胸の中の熱いものを押しとどめるように、唇を噛んでいた。


 道の反対側では、馬車や荷車が行き交い、騒然とした震災後の東京の日常が戻りつつあった。だが、その空気の中に混じる緊張の気配を、絹は敏感に感じ取っていた。


 と、その時だった。


 ブウンッ!


と、耳をつんざくようなエンジン音が近づいてくる。二人の脇を、憲兵隊のものらしいサイドカーが疾走していった。

 側車には、軍服に身を包んだ男が座っている。

 この男が甘粕正彦憲兵大尉だったのだが、この時の絹の知る由もない。

 絹は足を止め、無意識にその背中を見送った。カンガもまた、立ち止まっていた。


 「もし……間に合わなかったら」


 絹がつぶやくと、カンガはゆっくりと頷いた。


「彼らは、もう生きていなかったでしょう」




 数日後、震災後に再稼働した「東京タイムス」の朝刊一面に以下の記事が掲載された。


   憲兵隊、震災の混乱を乗じ社会主義者等を殺害す――労働運動家に対する殺 

  人・殺人未遂の事


 そこには、大杉栄と伊藤野枝が憲兵の手によって拉致されかけた事実、亀戸での「行方不明者」の存在、そして震災直後から流された流言飛語が軍部によって黙認されていた可能性が、詳細に記されていた。


 記事は瞬く間に反響を呼び、市民のあいだで陸軍――憲兵隊は陸軍の管轄である――への不信と怒りがますます広がった。新聞各社も追随し、政友会系の保守紙さえも「軍が市民を守る役割を逸脱した」と批判を展開した。


 この動きをさらに決定づけたのは、大杉の甥・橘宗一の存在だった。


 アメリカ国籍を持っていた彼の命が危険に晒されたことで、在日アメリカ大使館は政府に対して正式な抗議を行い、ワシントンからも外交ルートで強硬な照会が入った。アメリカ国民の子弟が、日本の軍隊によって拉致されかけた――その事実は、外交問題としても重大だった。


 陸軍内部では調査委員会が設置され、憲兵隊の一部行動が「逸脱的であった」と認められた。甘粕を含む数名の憲兵が更迭され、責任を問われた。


 窮地に立たされた陸軍は、これ以上の追及を避けるため、軍法会議では表向きには「一部下級憲兵の越権行為」として処理したが、責任を取らされる形で関東戒厳司令官福田(ふくだ)雅太郎(まさたろう)大将、憲兵司令官小泉(こいずみ)六一(ろくいち)少将、東京憲兵隊長小山(こやま)介蔵(かいぞう)憲兵大佐らの首が飛んだ。


 さらに波紋は政界へと及んだ。原敬内閣はこれを好機到来とばかり、陸海軍大臣の人事について従来の慣習を破って、文官からの登用も可能にすることを決定した。「軍部大臣文官制」である。これは帝国憲法下では初めての措置であり、「文民統制シビリアンコントロールの第一歩」として国の内外には概して好意的に受け止められた。




 話は震災直後に戻る。

 絹たちは、仮社屋で新聞用紙の山の上に腰掛け、蝋燭(ろうそく)の灯で原稿を書いていた。

 絹は、震災当日からの目撃を必死に記録し、それを元に記事をまとめていた。


 ――被災者、助けを求めて叫ぶも、その声、いかほどの人に届きしや。むしろ、声 

  の似たる者に、人々、槍を向けたり。


 ――韓人と称せらるる者、確認なきまま殺さるるを、警察も軍も止むる能わず。 

  また、止むる意思もなし。


 ――情報断たれ、正しきこと失われ、恐怖のみ支配せる時、この国の市民、かく

  も残酷なる行為を選びしなり。


 鉛筆が止まった。

 手が震えていた。


「……こんな記事、載せられるでしょうか?」


 傍らで、それを読んでいた同僚がぼそりと言った。

 荒井は言った。


「……これは記録しなきゃならん。川戸、お前の原稿は、正しい。感情に流されていない」


 絹は静かに頷いた。


「私……本当に怖かったんです。人々が、こんなにも簡単に憎しみに流されるなんて。相手を人として見ることを、やめてしまうなんて」


「それを止めるのが、我々の仕事だろう。情報を流し、真実を伝え、考える材料を与える。それが出来るのは、新聞だ」


「はい……だから私は書きます。怒りでも、同情でもなく、『なぜそうなったのか』を伝えるために」


 絹は机に向き直った。書きかけの見出しを、すっと書き直した。


   朝鮮人虐殺と流言飛語――恐怖が支配せし日


 誰かを責めるのではなく、何が足りなかったのかを問う記事。

 言葉は刃にもなり、盾にもなる。

 絹は、記者としてその責任を背負って生きることを、改めて心に決めた。


 そういえば、カンガがこんなことを言っていた。


「絹さん……この国は、弱い者が犠牲になるのを『仕方ない』と思ってるんでしょうか? アフリカでもそうでした。黙って死んでいった人たちを、誰も覚えていない……」


 絹は、


「私たちは忘れません。だから記者がいるんです」


と、返した。

 そしてふと思った。

 あの浅草のカフェで微笑んでいた13歳の少女、へラリアは無事ったろうか? あの笑顔は、まだそこにあるだろうか?


「デスク」


 絹は政治部のデスクの前で言った。


「震災直前に取材したへラリアって子、もう一度、取材したいんです。行ってきていいですか?」

「面白かった!」「続きが気になる、読みたい!」「今後どうなるの……?」と思ったら、下にある☆☆☆☆☆欄から、作品への応援をお願いいたします。面白かったら☆5つ、つまらなかったら☆1つ、正直に感じた気持ちで大丈夫です!

ブックマークもいただけると本当に嬉しいです。

何卒よろしくお願いいたします。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ