第20話 噂の牙
大災害の時に怖いのは、災害そのものだけではない。自然の猛威が人間社会を揺るがす時、そこに乗じて、自らの欲望を押し通そうとする者が必ず現れる。
上野の森は、すでに押し寄せた避難民で溢れ返っていた。芝生も小道も、あらゆる空き地が人々で埋め尽くされ、あちこちで小さな集団が固まり、不安げに空を見上げていた。遠くには、まだ黒煙が大きな柱となって立ち上り、炎の赤が時おり空を舐めるように覗いていた。
絹とカンガは、肩で荒い息をしながら人混みをかき分けて進んだ。汗に煤が混じり、喉はひりつく。ようやく広場の一角に腰を下ろしかけた時だった。
「……あれは?」
絹の視線の先に、見覚えのある顔があった。痩せぎすで眼鏡をかけた青年――以前、取材したことのある東京物理学校の韓人留学生、姜明洙である。彼もまた荷物ひとつ持たずに呆然と立ち尽くし、時折、道の方を振り返っていた。
「姜さん!」
絹が思わず呼びかけると、彼は驚いたように振り返り、眼鏡の奥の目を大きくした。
「川戸さん……まさか、こんなところで」
「ご無事でよかった。でも、どうしてこんな人混みの中に?」
「下宿が湯島にあります。すぐ様子を見に戻ろうかと……」
絹が言葉を返そうとした、その時だった。人垣の一方からざわめきが起こった。誰かが声を張り上げている。
「聞いたか! 韓人が井戸に毒を投げ込んだらしいぞ!」
「何だと?」
「悪い韓人は、この際処分してしまえって、自警団の人が言ってたぞ!」
その言葉は、あっという間に群衆の間を伝わっていった。疲労と恐怖で張り詰めた人々の耳には、火の粉よりも速く燃え広がる。さっきまで互いに寄り添っていた避難民たちが、ギョッとしたように隣人を見つめ、ざわざわと身を引き始める。
「……」
姜の顔色がみるみるうちに青ざめた。周囲の目が自分に注がれているのを、彼自身がはっきりと感じ取ったからだろう。
「あいつ、韓人じゃないか?」
「眼鏡をかけた奴が怪しい」
「気をつけろっ! 毒を持ってるかもしれんぞっ!」
数人の男が、じりじりと姜に近づきかける。腕には白い腕章を巻いた者も混じっていた。自警団だ。顔は煤で汚れているが、眼光は妙な熱に浮かされていた。
「やめてください!」
絹は大声を上げて前に出て、両手を広げた。
「この方は私の知り合いです。そんな根拠のない噂に惑わされないで!」
しかし、男たちは聞く耳を持たなかった。
「お嬢さん、甘いことを言うな。俺たちは家族を守らにゃならんのだ」
「毒を入れられたら、皆死ぬんだぞっ!」
群衆のざわめきが恐怖と憎悪に変わりつつあるのを、絹はひしひしと感じた。背後でカンガが低く唸るような声をあげ、巨体で姜を庇うように立ちはだかる。
「落ち着いて!」
カンガの声は低く、しかし人を圧する力があった。
「この人は何もしていません。私たちと同じ、ただの避難民です」
しかし、
「黒ん坊まで何を言う!」
と誰かが叫び、緊張は一層高まった。
絹は必死だった。
「――姜さん、ここは危険です。カンガ、私たちで彼を守りながら移動しましょう。下宿に戻るなんてとんでもない! 東京タイムス社まで行けば、少なくとも人目と記者仲間の庇護があります」
姜は唇をかみ、肩を震わせていた。
「しかし……私の部屋には本や書きかけの論文が……」
「命がなければ、論文も本もありません!」
絹の鋭い叱責に、姜はようやく頷いた。カンガが彼の腕をぐっと掴み、群衆の視線から遠ざけるように歩き出す。
なおも後ろから罵声が飛んだ。
「逃げるぞ!」
「やっぱり怪しい!」
だが幸い、大多数の人々は混乱と疲労の中で追いすがる余力を持たなかった。絹たちは三人で肩を寄せ合い、ただひたすら人の波を抜け、煙の少ない方角――社のある神田方面を目指した。
絹の胸は早鐘のように打っていた。地震と火災だけでも十分すぎるほどの地獄なのに、人の心が恐怖に駆られ、憎悪と暴力を生む。それこそが本当の恐怖ではないか。
「この混乱の中でこそ、記者の目と記者の言葉が必要だ」
自らにそう言い聞かせながら、絹は二人を守るように前を歩き続けた。
灰色の煙が低く垂れ込める神田の街を、絹はカンガと姜明洙の前を先導するように歩いていた。地面は大きな揺れが去った後も微かに震え、瓦礫や破損した電柱、倒れた看板が通りを塞いでいる。火災の匂いが鼻腔を刺し、あちこちから人々の叫び声と泣き声が交錯していた。
「ここも……酷いことになっていますね」
姜が小さな声で呟く。
「ええ。でも、社へ行けば少しは落ち着けるかもしれません」
絹は必死に声を落ち着かせた。
通りの角を曲がると、瓦礫の下から悲鳴が上がった。倒れた家屋の隙間に取り残された老人を、若者たちが必死に引き上げている。姜はその光景に目を見開き、思わず口を押さえた。
「……助けなければ……」
絹は彼の肩に手を置き、そっと促した。
「まずは、社まで行きましょう。あそこなら少しは安全でしょう」
しかし進む道も簡単ではない。社へと続く神田の通りは、倒壊した看板や瓦、割れたガラスの山で足場が悪く、避難する群衆が足を止めたり、道を塞いだりしている。三人は障害物を払い、足を取られないように歩いた。
「危ない、気をつけて!」
カンガの叫びに応え、姜は小走りで足元の瓦礫を越える。
通りを抜けるたびに、隣家からまだくすぶる炎が見え、焦げた木材の香りが漂う。遠く、浅草方面から上がる黒煙と、未だ鳴り止まぬ砲兵工廠の爆発音が、背後から迫る恐怖を思い起こさせる。
ようやく東京タイムス社の社屋が見えた。正面の外壁には焦げ跡が残り、瓦礫が散乱していたが、玄関の一部は辛うじて開いている。社の前には社員らしき人々が数名立ち、避難民の誘導にあたっていた。絹は息を切らせながらも、ホッと胸を撫で下ろす。
「ここなら……少し安全ね」
絹は小さく呟く。姜も肩を震わせながら頷いた。
「……ありがとうございます、川戸さん」
しかし安心は束の間だった。社屋の周囲に集まる人々の間でも、囁き声が広がっている。
「韓人が井戸に毒を入れたらしい」
「そのような韓人は、見つけ次第、処分してよい」
姜の顔が瞬時にこわばる。
「……まずは中へ入れてもらいましょう。社の中に避難した方が安全です」
カンガは頷き、姜の肩に手を置く。
「大丈夫です。キヌさんがいますから」
三人は押し合う群衆をかき分けながら、社の玄関へと足を進めた。
「あっ、川戸さんっ!」
受付係の男が叫んだ。
「よかった! 無事だったんですね!」
「はい、まあ、なんとか。みんなは?」
「連絡の取れない方も何人かいます」
社屋の中は幸いにして、倒壊や火災の影響は少なく、避難民が身を寄せていた。
絹はほっと息をつき、姜の肩を軽く叩いた。
「これで少しは落ち着けるわね」
姜も微かに笑みを見せ、震える手で絹に礼を言った。
「本当に……ありがとうございます」
カンガは玄関先で周囲を警戒しつつ、火の手の方向と群衆の動きを確認する。外の混乱はまだ続いていたが、少なくともここでは三人は一息つくことができた。
しかし、絹の心は完全に安堵してはいなかった。遠く本所方面から立ち上る黒煙と、砲兵工廠の爆発音が、東京の街全体に広がる危険を静かに告げている。社に避難したとはいえ、この街のどこも安全ではない——それが、絹の胸に重くのしかかっていた。
絹の目はすぐに社屋内の混乱に向けられていた。幼い子供を抱いた母親、杖を頼りに歩く老人、負傷した人々——誰もが恐怖と不安を抱え、ただ安全を求めていた。
「みんな……怖いでしょうね……」
絹は小さく呟く。
カンガは入り口付近で警戒しつつ、避難民を見守った。
「外の様子は油断できません。噂はすぐに広まりますからね」
姜は絹に小声で言った。
「僕は……下宿に戻りたい。でも、外に出たら……」
目線は震えている。外では韓人への噂が広がっていたのだ。
絹は眉を顰め、決意を固める。
「下宿へ戻るのは危険よ。今はここで待機しましょう。外に出るなら、少なくとも私たちと一緒に」
絹はカンガと姜を中央の比較的安全な場所に座らせると、他の社員たちと一緒に、避難民に水を渡す手伝いを始めた。
幼い子供が泣き続け、母親が抱き上げてあやしている。老人たちは互いに支え合い、呻き声を漏らしている者もいる。
絹は姜の肩を軽く叩き、
「ここで少し待ちましょう。熱気が落ち着くまで」
と、声をかける。姜は震える手で絹の手を握り返した。
カンガは入り口の方で目を光らせながら、外の動向をうかがう。社の前の通りでは、まだ瓦礫の山や火の手が見える。人々の噂は徐々に拡散し、韓人への非難が小さな怒号として耳に届く。だが、社内の安全圏に入ったことで、少なくとも目立った暴力は起きていない。
絹は避難者たちを観察しながら、心の中で記者としての冷静さを取り戻そうとしていた。ここに集まる人々の姿は、震災の惨状を映し出す縮図だ。恐怖に押し潰される者、親しい人を守ろうと必死な者、他者に手を差し伸べる者——人の多様な反応が、一つの空間に凝縮されている。
姜は絹の横で、震えを抑えながら小声でつぶやいた。
「キヌさん……僕、外に出たら危なかった……助けてくれてありがとう」
絹は笑顔を浮かべ、肩に手を置いた。
「大丈夫。私たちがいる限り、ここなら安全よ」
カンガは入り口付近で、外の避難者の動きを注意深く見つめていた。通りを歩く人々の中には、まだ興奮と恐怖で荒れた表情を見せる者もいる。
絹は少し離れた場所に座り、遠くに立ち上る黒煙を見つめる。砲兵工廠の爆発や火災旋風の光景は、東京全体に広がる恐怖の象徴だった。姜もカンガも、社内の安全な空間にいながらも、外の惨状を想像し、息を飲む。
「……この街は……どうなってしまうんだろう?」
姜が小さく呟く。
絹は肩をすくめながらも、力強く頷く。
「でも、私たちは生き延びた。ここにいる限り、まだ希望はある」
周囲の避難者も、徐々に息を整え、互いに支え合うようになる。泣き止まない子供には母親の代わりに老人が抱きかかえ、老人には若者が寄り添い、恐怖と混乱の中で小さな秩序が生まれつつあった。絹はその光景に、わずかな安堵を見出した。
こうして9月1日の夜は更けていった。
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