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絹の国  作者: 喜多里夫
第三章 関東大震災における体験

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第19話 炎を逃れて

 浅草の町は一瞬にして地獄に変わった。

 絹とカンガは、昼下がりの繁華な街角で立ち尽くしていた。揺れが収まったかと思う間もなく、あちこちから、


「火事だぁ!」


という絶叫が上がり、黒煙が空を覆い始めていた。

 瓦が落ち、柱が倒れ、昼ご飯の支度をしていたであろう家々からは、火の手が吹き上がる。夏の乾いた風に煽られ、炎はあっという間に広がっていく。


 「川を渡りましょう!」


 絹はカンガに向かって叫んだ。

 カンガも頷いた。


 ――隅田川を越えれば、きっと逃げ道がある。


 絹はそう信じた。浅草からすぐ東へ行けば吾妻(あづま)橋がある。川さえ渡れば、火から逃れられるのではないか、と。多くの人々も同じ考えだったらしく、通りは吾妻橋を目指す群衆で溢れていた。


 押し寄せる避難民の列の中に混じり、二人は必死に前へと進んだ。大八車に家財を積み、泣き叫ぶ子供を背負い、鍋釜を抱えた人々が、互いに押し合いへし合いながら橋へ向かう。


「すみません、通してくださいっ!」


「押すなっ! 子供が倒れるっ!」


 怒号と泣き声が交錯し、足元では倒れた簪や下駄が踏み潰されていく。


 絹は胸の奥がざわめいた。浅草寺の鐘楼が崩れ落ち、粉塵を巻き上げているのが見える。路地の奥から火の手が迫り、炎の赤が煙の中でゆらめいた。


「急ぎましょう!」


 カンガが絹の腕を強く引いた。だが進まない。群衆は立ち往生していた。

 目の前では、大八車に家財を山と積んだ一家が、どうしても動けずに道を塞いでいたのだ。男たちが必死に押しているが、人波に阻まれて車輪はほとんど動かない。


「早くどけろ!」


「こっちは子供がいるんだ!」


 罵声が飛び交う。


 その時だった。


 ドォォォォォォン!


 地面を震わせるような爆発音が響き渡った。

 人々が一斉に顔を上げる。

 隅田川の向こう側、本所(ほんじょ)方面の空に、赤黒い火柱が立ち昇っていた。砲兵工廠の弾薬庫が爆ぜたのだと、後に知る。


「なっ、なんだ……?」


「すごい爆発だ……!」


 人々の顔に恐怖が走る。川向こうから吹き寄せる熱風に、火の粉が雨のように降ってきた。


「うわぁぁっ、服に火がついたぞっ!」


「たっ、助けてぇぇぇぇっ!」


 人々の悲鳴が連鎖する。


 絹は咄嗟にハンカチで口と鼻を覆った。火の粉が帽子に落ち、髪の毛が焦げる匂いがした。隣ではカンガが、絹に落ちてくる火の粉を払う。


「立ち止まらないでっ!」


 カンガは絹に向かってそう言うものの、二人はもう前へ進むことはできない。吾妻橋へ向かう道は群衆で埋まり、まるで動かぬ大河のようであった。


 人の流れが橋の手前で滞ったその時、さらに凄惨な光景が絹の目に飛び込んだ。


 ヒヒィィィィンッ! ブモォォッ! ドドドドッ!


 どこからか馬のいななきが響いたかと思うと、火の粉を浴びてたてがみに炎を燃やした馬が、狂ったように群衆の中へ突っ込んできたのだ。暴れ回るその姿は、もはや生き物というより炎の怪物であった。


 「暴れ馬だぁ、どけっ! 殺されるぞっ!」


 悲鳴が連鎖する。人々は我先に逃げ惑うが、逃げ場などない。


 ヒヒィィィィンッ!


 暴れ馬が勢いよく道路を駆け抜ける。火に怯えた動物の蹄が石畳を叩くたび、地面が振動するように響いた。


「うわあっ! 逃げろぉっ!」


「きゃぁぁっ、助けてぇっ!」


 押し合いへし合いする群衆の中で、暴れ馬は暴走し、倒れた者を踏み砕いていった。倒れた者の上を馬が駆け抜けるたび、骨の折れる鈍い「バキッ!」という音が響き渡る。


 絹は耳を塞ぎたくなる。骨の砕ける音、絶叫、泣き声が入り交じる。炎をまとった馬の体はやがて横転し、地面でもがきながら周囲の人々をさらに巻き込んだ。


 「お父ちゃん! お母ちゃぁぁん!」


 群衆の中から甲高い子供の叫び声が聞こえる。

 絹が振り返ると、小さな男の子が一人きりで泣き叫び、必死に親を探していた。人の波に流され、父母の姿を見失ったのだろう。


 「ここだ! 父ちゃんは、こっちにいるぞぉ!」


 どこかで父親の声がするが、群衆の壁に遮られて子の耳には届かない。子供は押され、倒れそうになりながらも、涙と鼻水にまみれて親を呼び続けていた。


 その光景に、絹の胸は締めつけられた。親を求める声、炎の轟き、馬の断末魔。町全体が地獄の釜と化したかのようであった。


 もはや誰も冷静ではいられない。群衆は前後左右に押し合い、転ぶ者を踏み越えて必死に進もうとする。泣き叫ぶ声、助けを求める声、誰かを罵倒する声。恐怖と混乱が渦を巻き、人々は理性を失い、ただ生き延びようと狂ったように身をもがいていた。


 絹は息苦しさに胸を押さえた。人々の顔は煤と汗に汚れ、恐怖で歪んでいる。彼女はカンガの腕にしがみつきながら、ただ呆然とその阿鼻叫喚を見つめるしかなかった。


 そして。

 さらに恐ろしい光景が彼らを打ちのめした。

 

 隅田川の向こう――本所方面の空に、黒煙が渦を巻きながら立ち上がっていく。最初は火の手に巻き上げられた煙と思えたが、やがてそれは一本の巨大な柱となり、赤黒い炎を巻き込みながら天を突く竜巻のごとき姿を示した。


「なっ、なんだあれはっ……!?」


「火の竜巻だ! 火が風に巻かれて舞い上がってるぞぉっ!」


 誰もが立ちすくんだ。火炎と黒煙の渦は、まるで地獄の門が開いたかのように唸りを上げ、川面を隔てたこちら側にまで熱気と火の粉を飛ばしてくる。空気そのものが吸い込まれるように渦へ引き込まれ、人々は恐怖のあまり後ずさった。


 絹は声を失い、ただその炎の怪物を凝視するしかなかった。


 この恐ろしい現象は「火災旋風」と呼ばれるものである。大火によって熱せられた空気が上昇し、周囲の風を巻き込んで渦をつくり、そこに炎と可燃物が取り込まれることで、まるで炎の竜巻のような姿を現す。温度は数百度に達し、触れたものを瞬時に焼き尽くし、また猛烈な吸引力で人や物を渦の中へと巻き込む。


 関東大震災の際、東京・本所にあった陸軍被服廠跡地には避難場所として多くの人々が集まっていた。広大な空き地に四万人を超える避難者が押し寄せ、彼らは「ここなら安全だ」と信じていた。

 しかし、周囲から迫る火災が一斉に吹き込むと、その広場中央に巨大な火災旋風が発生したのである。瞬く間に炎と煙が人々を呑み込み、実に3万8千人もの命が奪われた。この出来事は「本所被服廠跡地の惨劇」として、関東大震災の中でも最も凄惨な出来事の一つとして記録されている。


 橋を渡ろうとする流れが逆流した。押し返された群衆がもみ合い、倒れる者、踏まれる者が続出する。


 絹の視界は混乱の渦だった。

 泣き叫ぶ声、怒号、爆発音。

 空からは火の粉が舞い落ち、目の前の町屋が次々と炎に呑まれていく。息を吸うと喉が焼けるようで、涙と煤で視界がかすむ。


「キヌさんっ、だめですっ! 東は地獄ですっ!」


 絹は叫んだ。


「上野へ行きましょう! あそこなら広い場所がある!」


 絹は、ようやく悟った。「川を渡れば助かる」と信じていたが、それは幻想だった。本所は炎の渦のただ中にある。そこへ入れば命はない。


 二人は群衆をかき分け、西へと道を戻り始めた。だがこれも容易ではない。人の波はあちこちで行き場を失い、押し合い、転び、叫んでいた。


「うちの子がいないっ! 誰か助けてぇ!」


「うわぁぁぁぁぁぁん!」


 火の手はすでに背後の路地を覆い、炎の壁となって迫っていた。


 絹は必死に走った。上野の森へ、少しでも開けた場所へ。息を切らしながらも、ただ前へ進むことだけを考えた。


 浅草六区の芝居小屋が炎に包まれ、看板が落下する。露店の油が燃え、炎が道を横切る。逃げ惑う人々の中で、カンガの背は頼もしい目印だった。彼の逞しい体が人波を押し分け、絹を先導するように進んでいく。


「キヌさんっ、大丈夫ですかっ!? もう少しの辛抱ですっ!」


 カンガの声だけが、轟音と悲鳴の中で鮮明に聞こえた。


「ここまで来れば……上野公園まで、あと少し……」


 絹は息を切らしながらも、心を強く持とうと自分に言い聞かせた。群衆の押し合いが緩んだわずかな隙を突き、二人は大通りへ出た。そこから見上げる上野の森は、深い緑が揺れるが、まだ安全な空気を感じさせる。遠くに見える火災旋風の黒い渦は、帝都を覆う恐怖の象徴だった。


 群衆の叫びと悲鳴はまだ続いていたが、上野公園の木陰に足を踏み入れた瞬間、二人は炎の熱からわずかながら距離を置くことができた。街の向こう側で起きている惨状の全貌はまだ見えない。しかし、この森へ辿り着いたことで、命だけはどうにか繋がった——それだけが確かな安堵だった。


 ようやく不忍池の水面が見えた時、絹は膝から力が抜けそうになった。

 水辺に逃げ込んだ人々が、ずぶ濡れになりながらも息をついている。上野の森が避難所となりつつあったのだ。


 絹は振り返った。

 東の方角は、すでに炎の海であった。赤黒い煙が空を覆い、時折、砲兵工廠からの爆発音が響く。もし吾妻橋を渡っていたら――そう思うと背筋が凍る。


「助かった……」


 呟く絹に、カンガが静かに頷いた。


 上野公園の緑の木陰に逃げ込んだ群衆は、ようやく一息ついた。

 しかし、その安心も束の間、遠く本所方面から立ち上る黒煙が目に入る。


 人々は息を呑み、東の空を眺める。父親は子供を抱き上げ、母親はその手を握り締め、老夫婦は互いの肩を支え合った。遠方の旋風に、思わず震え上がる者もいた。


 遠くの旋風に目を奪われる者もいれば、互いの無事を確かめ合う者もいる。母親はしゃくりあげる子供を抱き上げ、


「もう大丈夫、もう大丈夫よ……」


と、繰り返し励ます。子供は、恐怖に押し潰されそうになりながらも母の腕にしがみつく。

 老夫婦は互いの手を握ったまま、言葉少なに黒煙を見つめ、かすかな祈りを捧げる。

 青年たちは顔を上げ、旋風の規模と方向を確かめ、火の粉が迫ってきた場合の退路を探る。


絹もまた、群衆の中で立ち止まり、遠方の煙を見つめた。


「……あの煙の下に、たくさんの人々が……」


 絹の声は、かすれた。あの黒い煙の下には、助けを求める人々がいるはずだった。


 群衆の中では、涙を拭いながら祈る者、手を合わせる者、ただ立ち尽くして動けない者……あらゆる人間の感情が一斉に露わになった。絹とカンガもその中に立ち、ただ茫然と黒い煙を見守った。


「……でも、ここにいるだけで、まだ助かっている……」


 絹は心の中で自分に言い聞かせ、群衆の中で互いに支え合う人々の姿に、小さな安堵を見出すのだった。




 炎に照らされた空を見上げながら、絹は心の奥で震えていた。繁栄を誇った帝都が、一瞬にして崩れ落ちたのだ。この地獄の中で、人々はどう生き残るのか? 彼女の記者としての眼と、一人の人間としての心が、同時に深い問いを突きつけられていた。

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