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絹の国  作者: 喜多里夫
第三章 関東大震災における体験

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第18話 大地、激しく揺れる

 1923(大正12)年9月1日土曜日。


 朝の帝都東京は、湿った空気に包まれていた。夏の名残りを感じさせる蒸し暑さが街路に漂い、空は薄曇りで、ところどころに朝日が差し込む。風は弱く、まだ涼しさはほとんどなかった。


 神田や浅草の通りでは、早朝から商人や職人たちが店を開け、屋台の露店が忙しげに準備に動き回っていた。

 魚屋の前では、大きな桶から鰯を掬い上げながら、店主が声を張り上げる。


「安いよ、安いよ! 今朝あがったばかりだ、今日は特に脂がのってるぞ!」


「おや、旦那。昨日より安くしとくれよ」


「へいへい、お得意さんに負けるもんですか。ほら、もう一匹おまけだ」


 通りを横切る野菜売りの荷車からは、威勢のいい声が飛ぶ。


「大根一本10銭だよ! ほら奥さん、持ってかないか!」


「いやだよ、10銭じゃ高いよ。昨日は8銭じゃなかったかい?」


「へっ、今日は品がいいんだ。旦那さんに食べさせてやんな!」


 その脇を、小学生の子供たちが、草履の音をぱたぱたと響かせながら駆けていく。


「おい、早くしないと先生に叱られるぞ!」


「いいんだよ、今日は始業式だから!」


「ランドセルが重いよぉ!」


 母親に手を引かれた子も、小さな声で口を尖らせる。


「おかあちゃん、鉛筆忘れた!」


「大丈夫、学校で借りなさい。ほら、急ぐんだよっ!」


 駅前ではサラリーマン風の男たちが、何やら立ち話をしている。


「いやあ、株が上がったり下がったりで、まるで落ち着かん」


「来年はどうなるかねえ、南西アフリカの金鉱がどうとかって噂もあるし」


「そんな遠い話より、俺の給料が先だよ」


 交差点では、人力車夫が客を呼び込み、荷車を押す男と軽く言い争っている。


「おいおい、前を塞ぐなっての!」


「こっちだって商売だ、文句言うなら早く漕ぎ出せ!」


 その向こうで、豆腐屋のラッパが「ポーポー」と鳴り響き、振り売りの声が重なる。


「豆腐だよ、今朝できたてだよ!」


「おい坊主、邪魔だ、どいた、どいた!」


 人々のざわめき、呼び声、子供の笑い声が入り混じり、街全体が新学期と新しい季節の始まりに浮き立っていた。


 空には小鳥がさえずり、川面には朝の光が反射している。街角の商店からは朝の香ばしい匂いが立ち上り、パンや焼き魚の香りが漂った。


 神田の路地では、新聞配達人が大きな声で、


「東京タイムス! 朝刊!」


と叫びながら、新聞を手渡す。


 会社や役所に向かう人々は、日課の忙しさに追われている。町全体に、平穏でいつも通りの朝のリズムが流れていた。


 絹はこの日、朝から浅草六区の雑踏の中を歩いていた。汗ばむ白いブラウスの背がじっとりと張りつく。絹から三歩下がってまるで付き従うように無言で歩いているのは、ヨハネス・カンガ・ティチェミサ。


 絹は立ち止まり、すれ違う人々の表情を眺めた。子供を背負った母親、竹籠を担いだ職人、本を抱えた女学生――街のいたるところに、変わりつつある時代の息吹が感じられた。


「賑やかだね」


と絹が言うと、カンガは不思議そうに空を見上げ、


「人が多い街ですね。まるで祭りのようです」


と答えた。


「だからぁ!」


 絹はさっきから何度も同じことを繰り返している。


「横に並んで歩いたらいいのよ。これじゃあ、まるで私が『お供』を引き連れているようだわ」


「わたしは、キヌさんのオトモでいいです」


「よくは、ないわよ。私たちは『同志』、上下関係は無いんだから」


 絹がそう言ってもカンガは決して絹に並ぼうとはしなかった。

 最近、こうやってカンガはまるで絹の助手のように取材に同行することがある。

 というのも、最近は日本の委任統治領となった南西アフリカからやってくる人も出始めたため、通訳として重宝だからだ。さらにカンガは来日した同朋たちの仕事や生活上の相談相手にもなっているらしい。


 今日は、浅草に最近出来たカフェー「オシカイバ」の取材である。

 オシカイバとは、ヘレロの人が被る民族衣装の帽子のことである。

 そう、このカフェーでは南西アフリカの女性たちが働いているのだ。


 二人は、日本人店員の案内で、店の裏口に通されていた。

 紹介された子の名はへラリア。


――まだ、子供じゃないの。


 小学生といっても通用しそうな、華奢で幼い外見をしている。

 カンガに訊いてもらうと、年は13だという。


「故郷にいても仕事がないので、ここで働けて嬉しい、親に送金も出来る、と言ってます」


 カンガはそう言うが、少女の目元には、あどけなさが残っている。

 絹は取材ノートを広げ、問いを重ねた。少女の話す言葉は、いつのまにか「女としての損得」や「客のあしらい方」に変わっていた。


「日本の人、優しいから好き」


 そう言って笑った少女の歯は、妙に白かった。

 客からは南西アフリカ出身の子たちは「アフリカさん」と呼ばれ、その子たちを目当てに来店する者も増えているようだ。


 取材を終えて店を辞した。

 午前11時半を過ぎたあたり。二人は凌雲閣(りょううんかく)——1890(明治23)年に建てられた十二階建ての高層建築で、「浅草十二階」とも呼ばれ、近代都市東京の象徴であった——を見上げながら、六区通りへ戻った。

 さっきから黙っているカンガに絹は尋ねた。


「どう思う?」


 カンガは足を止め、俯いたまま、少しの沈黙の後で、静かに言った。


「……あの子は、笑っていました。でも、わたしは……あの笑顔を見て、少し、悲しかった」


「悲しかった?」


「はい。あの子が、どうして笑うのか……それは、わたしたちが昔、ドイツ人の前で笑っていた理由と、たぶん、同じです」


 絹は息をのんだ。カンガは、ゆっくりと続けた。


「『自分は、おとなしくしている』『役に立つ』と見せるために、笑うのです。怒ったら、いなくなるから。泣いたら、置いていかれるから。だから、笑います。でも、ほんとうは……」


 言葉が途中で切れた。

 絹は、カンガの横顔を見つめながら、小さく呟いた。


「……それでも、働けるだけマシだ、って、誰かは言うかもしれない。彼女自身も、そう信じようとしている……」


 カンガは頷いた。だがその目には、乾いた怒りの色が宿っていた。


「でもそれは、わたしたちの夢ではなかった。『日本人は白人とは違う』と信じて、海を越えてきた人もいた。でも、今はただ……『利用されない程度に、利用されている』だけです」


 絹は、その言葉を黙って受け止めた。

 カンガはふと、彼女の顔を見て言った。


「……でも、あなたは書く。わたしたちのことを、あの子のことを。だから、わたしは、あなたと歩きます。横には……並ばないけど」


 絹は小さく笑って、「困った人ね」と呟いた。

 すれ違う男たちが、こんなことを喋っている。


「最近、このあたりもアフリカ人が増えてきてよ……」


「ああいうのは、街の空気を変えるなぁ」


 絹は思った。


 ――日本は欧州列強に遅れ、ようやくアフリカにも事実上の「植民地」を持つに至った。南西アフリカ――新聞は「委任統治領」と書き立てるが、その実態は支配と収奪の植民地に他ならない。

 これは果たして正義に適ったことなのだろうか? 英仏がやってきたことと同じ道を、我が国も「一等国としての証明」とばかりに踏みならしてゆくのか。

 国力のため、経済のためと言われれば、耳をふさぎたくなる。だが、そこに生きる人々の暮らしや誇りを思えば、私にはどうしても肯うことが出来ない。


 外の空気が、さらに重く感じられた。


「……キヌさん、ここ、さっきより静かじゃないですか?」


 カンガが小さく言った。

 そういえば。客引きの声が減っている。紙吹雪のように空を舞っていた広告ビラが、急に重たく落ちていく。

 絹は、胸騒ぎを覚えていた。鉛のような空気。汗が止まらない。風が止んでいる。


 その時——午前11時58分だった。


 ドォォンッ!


 いきなり大きな音がしたかと思うと、地面がまるで生き物のようにうねり始めた。瓦屋根がギシギシと軋み、木造家屋の壁が波打つ。最初の揺れは短く鋭く、足元から頭の先まで衝撃が走る。絹は思わずカンガの腕を掴んで叫んだ。午前11時58分、突如として浅草の街が激しく揺れ始めた。


「カンガァ! なに、これぇっ!」


 ガン、ガン、ガン、ガンッ!


 その声も届かぬまま、二度目の揺れが襲う。今度は長く、街全体が大きく横に揺れた。建物の柱や梁がきしむ音、瓦や看板が落ちる音が街全体に響き渡り、まるで地面そのものがうねりながら裂けていくような感覚だった。


 きゃぁぁぁぁぁぁっ!


 人々の悲鳴が聞こえる。店先の陶器や食器は次々に床に落ちて割れ、路上の荷車や人力車は倒れ、荷物が散乱した。通行人は転倒し、倒れた荷物に足を取られながらも必死に逃げようとする。


 ドサッ! バリバリッ! ガシャァァンッ!


 地面に落ちた何かが割れる音、液状化する泥の音、硝子(ガラス)の割れる音——あらゆる不協和音が一斉に鳴り響く。


 うわぁぁぁぁぁぁっ!


 近くの店の硝子がバラバラと割れ、通りにいた人々が悲鳴を上げた。


 三度目の揺れはさらに激しく、浅草寺の五重塔も、まるで古い人形のように微かに揺れている。絹は立つこともままならず、地面に四つん這いに手をついて必死に揺れに耐えた。カンガも絹のすぐ横で、初めて体験する大きな揺れに恐怖を隠し切れない表情をしている。

 

 さらに次の瞬間、目の前で、凌雲閣の上部がグラリと揺れた。


 ギシッ!


と、建物の悲鳴。


 そして、それは崩れた。

 

 ズドォォォォォォンッ!


 帝都一の高層ビルが音を立てて倒れ、土埃と破片が火花のように空を覆う。爆発のような轟音。


 あぁぁぁぁぁぁっ!


 逃げ惑う人々。叫び、祈り、呻き声。


 気がつくと、絹は瓦礫の脇に座り込んでいた。あたりは煙と土埃で視界が曇っている。掌が擦りむけて血が滲んでいた。


「キヌさん……立てますか?」


 カンガの声が近くで聞こえた。彼も顔に煤をつけていたが、しっかり立っている。


 二人は、火の手から逃げるように隅田川を目指して歩き始めた。




 この日、関東地方南部を襲った大地震は、後に「関東大震災」と呼ばれる未曾有の大惨事となった。震源は相模湾北西部と推定され、マグニチュード7.9の規模で帝都東京と横浜を直撃したのである。

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