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絹の国  作者: 喜多里夫
第二章 新聞記者時代と社会認識の形成

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第17章 「壊れる」ではなく「変わる」

 1922(大正11)年の年の暮れ。


 東京・神田にある「東京タイムス」本社。


 煙草の煙が薄くたなびく休憩室。壁の時計が午後3時を指していた。取材帰りの川戸絹は、給湯室から持ってきた番茶を湯呑に注ぎ、隅の椅子に腰を下ろした。


 そこへ同僚の政治部記者である伊藤大介が入ってくる。まだ若いが、兵役を免れた代わりに言論への関心が強く、絹とは結構話が合う男だった。


 伊藤は煙草に火をつけながら言った。


「やれやれ、高橋蔵相は来年度予算で軍事費を抑制する方針だと話していたけど、陸軍の連中は苦々しい顔をしてたな」


 絹は湯呑を傾けながら言う。


「でも、だいたい、欧州大戦の傷がまだ癒えてないでしょ。6個師団も送って……見るべき成果もなく、あれだけの犠牲を出したのですから」


 伊藤は、ふっと煙を吐きながら、


「まったくだ。陸軍はあれで完全に国民の信用を失ったな。目論んでいたシベリア出兵も出来ず、そのぶん海軍と外務省が元気だ。まあ、俺はあっちの方が陸軍の連中よりは、まだましだと思うけどね」


と、威勢よく言った。


 絹は静かに、


「私は……個人的には、あの戦争で、もう少しで家庭を持つはずだった人を失いました。でも……その喪失が、今の世の中のあり方に、ほんの少しでも意味をもたらしたのなら、無駄ではなかったと……そう思いたいです」


「絹さん……あんたは強いな。俺なんか、取材現場で遺族に会うたび、やりきれなくなるよ。結局、軍部の勝手で国が動いてたんだ。」


 絹は、目を伏せて言う。


「けれど、その反省があったから、国際協調のワシントン体制が成り立っている。私たち女性が社会に出て記者になれたのも、そうした時代の変化のおかげでしょ」


「まあ、あんたみたいな女記者が一人で演説会に行っても、治安警察法で引っ張られないってのは確かに大きな進歩だな。けど、民衆の不満はまだ燻ってる。米騒動の余波も残ってるし……」


 絹は、ゆっくりと立ち上がりながら言う。


「だからこそ、伝えなくてはならないんです。声なき人の言葉を、紙面に、社会に……。この国が次に向かうべき道を、迷わせないために」


 伊藤は、煙草を灰皿に押しつけながら、にやりと笑った。


「まったく、時代が時代なら女中かお見合いしてたんだろうに。ほんと、おっかねえ女が出てきたもんだ。」


 絹は、笑いながら伊藤に背を向けてると言った。


「そう思うなら、せいぜい腕のいい写植工に原稿回しておいてくださいな」




 年が明けて、1923(大正12年)1月。


「おい、誰か湯呑と座布団を持ってきてやれ。佐久間が南西アフリカからご帰還だぞ」


 声を上げたのは社会部の村岡デスクだ。奥からひょっこりと顔を出したのは、国際部の記者・佐久間亮、38歳。約3ヶ月間、日本の委任統治領となった南西アフリカの取材に赴いていた。


 絹は、席を立って佐久間に駆け寄ると、


「佐久間さん、お帰りなさい。どうでした? 本当に向こうは『日本の植民地』になってるんですか?」


 佐久間は笑いながらマフラーをほどいて言った。


「まあね、正確には『国際連盟の委任統治領』ってやつだがな。表向きは『現地の福祉と自治育成のため』ってことになってるが、実際はどうだか」


 村岡が茶を渡しながら、


「で、実際は?」


と、訊いた。


 佐久間は茶を啜って一息つくと言った。


「……正直に言えば、まだ『実験中』って感じだな。行政は政府から派遣された役人が仕切ってるが、教育も医療もまったく手探りだ。鉱山開発だけは大日本鉱業や三井の連中が動き始めてるけどな」


 佐久間が茶を置いて、少し声を落としながら言う。


「……鉱山は有望らしい。沿岸のリューデリッツ近郊ではダイヤモンドの採掘が始まっている。砂をふるいにかけただけで宝石が出てくる土地でね、日本の商社の連中が血眼になっていた。三井物産の支店長なんか、まるで夢を見るような顔で『東京の電灯も、この石ひとつで十年分』なんて言っていたよ」


 村岡が目を丸くして、


「おいおい、そんなに出るのか?」


 佐久間は頷いて続ける。


「奥地には金脈もある。カラスの羽根みたいに黒い石英の脈から、粒立った金砂が出てきた。調査団の報告じゃ、『将来は南アのヨハネスブルグに並ぶかもしれん』と。もちろん道も鉄道もろくにないから、今はまだ『夢物語』だが……」


 絹がペンを走らせながら、


「それは……日本の経済にとっては追い風では?」


 佐久間は肩をすくめる。


「追い風どころか嵐でもあるな。経営者にとっては金の成る木だが、現地の人にとっては土地を奪われる脅威だ。委任統治といっても、結局は誰のための開発なのか……それを記事にどう落とし込めるのか、正直迷っている」


 佐久間はナミブ砂漠での取材の話を続けながら、ふと机の上に置かれた新聞切り抜きを手に取った。


「金鉱の採掘はまだ小規模だが、大日本鉱業が興味津々で、すでに初期投資を始めていると聞く」


 絹はノートに書き込みながら、眉を上げた。


「それって、つまり、日本の金融政策にも影響するわけですよね?」


「そうだ。ナミブ砂漠の鉱山はまだ道も整備されてなくて、作業員は灼熱の太陽の下で砂を掘り返している。現地の労働者はヘレロ人やナマ人だが、日本人技術者や移民も少数、指導に当たっている。まだ効率は悪いが、ダイヤと一緒に金が取れると分かれば、日本の鉱業界は黙っていない」


 経済部の原田が口を挟んだ。


「……つまり、ナミブ砂漠で金が採れるとなれば、国内の金準備は急速に増えそうだ。もし金解禁を実施するとすれば、金融政策に弾みがつく可能性があるな。来年か再来年のうちに解禁するシナリオも現実味を帯びる」


 金解禁とは、政府が長年制限してきた金の自由な売買を認め、国内通貨の金準備との連動を復活させる政策である。日本では金本位制の復帰と密接に関わっており、通貨の価値を金の裏付けにより安定させることを目的としている。先の欧州大戦中、日本をはじめ各国は戦費調達のために金の流通を制限したため、金本位制は事実上停止していた。そのため、戦後は通貨の価値が不安定となり、経済活動にも抑制的な影響が出ていた。金解禁は、こうした戦時の金融制限を解除し、通貨の信頼を回復することで、企業や銀行の資金調達を円滑にし、経済の活性化を図る重要な政策であった。


 同じく経済部の若手記者・目加田が付け加える。


「うちの紙面で現地の状況を伝えれば、世論にも影響を与えられる。鉱山の採掘現場や作業員の生活を丁寧に報道すれば、『金解禁は国益のため』という理解も広まるだろう」


 伊藤が興奮気味に言った。


「南西アフリカは統治しにくいという理由で、日本に委任統治を押し付けた英仏は、臍を噛んでいるんじゃないか? 南西アフリカの金鉱が日本の経済力を飛躍的に強化する――そんな日が来るかもしれない」


 伊藤が言ったことは、ベルサイユ条約締結後、巷でもっぱらの噂になっていたことだ。曰く、「英仏は日本の国力を削ぐために、経済的に『旨味』の少ない南西アフリカの統治を日本に押し付けた」と。


 それを聞いた原田は軽く肩をすくめ、にやりと笑った。


「しかし、金鉱の情報を先に握っているのは我々だ。政府や鉱業会社に正確なデータを渡せば、金解禁のタイミングを自国に有利に持っていける。これこそ、記者の腕の見せ所ってやつだな」


 絹は静かに頷いた。


「……遠く南西アフリカの砂漠で、ひと握りの金を掘る人々の暮らしが、東京の議会や経済政策にまで影響を与える日が来るのですね」


 佐久間が茶を啜りながら言った。


「その可能性がある。報道は時に、国の方向を変える種になる――あとは誰がそれを拾い、どう育てるかだけだ」


 絹はノートを開きながら、少し話題を変えた。


「現地の人たちの統治は上手くいってるのですか? 抵抗は?」


 佐久間は、少し顔を曇らせて、


「現地のヘレロ人やナマ人たちは、『かつてのドイツ帝国の支配よりは、虐殺がない分まだマシ』ぐらいには思っているようだ。でも、『何が変わったのか?』と訊かれたら……返事に困るな。軍靴の音が和らいだ分、沈黙が増えただけかもしれん」


 村岡は、


「日本からの移民は?」


と、訊いた。


「農業移民が数百世帯。小作や貧農の二男三男が多い。開拓団ってやつだ。でも気候と文化が全然違う。苦労してるよ、正直」


 絹は、


「……私、その人たちの声も知りたい。現地の女性たちの暮らしも」


と、言った。


 佐久間は少し驚いたように言った。


「珍しいな、女記者でそこに目を向けるとは。実は俺、ナミブ砂漠の村にいたんだ。一人の女の子が、通訳を通してこう言ったよ……『言葉はわからなくても、あの星空はあなたたちと同じか?』って。」


 絹は、静かに言った。


「……世界は、遠くても繋がっているんですね。誰かが知らなければ、何も変わらない。」


 佐久間は頷いて言った。


「現地の村で、移民の日本人女性がナマ人の母親と目を合わせた場面があった。言葉はなかったが、互いの背に背負った赤ん坊が、それぞれの世界の重さを語っていたよ……君みたいな記者が、いつかあそこを歩く時代が来るかもな……ところで最近、何かめぼしいニュースはあったかい?」


 少し離れた長机で、新聞の切り抜きを整理していた目加田がまるで独り言のように言った。


「それにしても、加藤海相も粘るよな。病身で連盟外交に奔走して、海軍をがっちりまとめている。英米仏との協調が命綱ってわけだ」


 絹も言った。


民本主義(デモクラシー)も、今では普通の考え方になりましたね。『国家のための民』じゃなく、『民のための国家』が、当たり前のように語られてる」


 目加田が思い出したかのように手を止めて訊いた。


「なあ、絹さん。傷痍軍人の取材、どうだった? またフランス帰りの連中に会ったって?」


「はい。彼らの多くは、もはや『戦って国を守った』という意識よりも、『国に見捨てられた』と感じているようです。義足のまま大道芸をする者、カフェの奥でシャンソンを口ずさむ者……パリの自由な空気を懐かしむ声が多かったです」


「へえ……なんだか『日本じゃない日本』が心の中に出来てるって感じだな。最近の学生たちは、そういう『フランス帰り』の人に憧れてるんだ。自由に生きて、国家を相対化してるような生き方に」


 絹は、目を細めて言った。


「でも、それが社会を変えていくのかもしれません。男たちが減り、街では女の人が銀行で帳簿をつけ、電車を運転し、学校で教えてる。男も女も、昔には戻れない」


 佐久間は、苦笑いを浮かべながら言った。


「それが怖いんだろう、保守派の政治家なんかは『女に選挙権をやったら国が壊れる』って怯えている」


 絹は、きっぱりと言った。


「『壊れる』んじゃなく、『変わる』んです。もう、止まらない」


 その言葉に、一瞬静寂が落ちた。窓の外には、職業婦人たちが闊歩する神田の街並みがあった。


 経済部の記者たちは、資料を前にさらに議論を重ね始めた。金鉱の開発状況、現地の作業員の生活、鉱業会社の投資計画……その一つ一つが、やがて我が国の金解禁という政策日程に結びついていく。


「ああ、日本がこんなふうに変わっていくなんて、少し前まで誰も想像していなかっただろうな」


 佐久間がしみじみとした口調で呟くように言った。


 外の神田の街では、冬の陽光を浴びて往来する人々の影が長く伸びていた。紙面の向こうで語られる現地の物語と、東京の政治経済が、静かにリンクしていく――そんな予感が、部屋に充満していた。

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