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絹の国  作者: 喜多里夫
第二章 新聞記者時代と社会認識の形成

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第15話 理想の軍人、軍人の理想

 1922(大正11)年3月。


 川崎にある三菱造船所周辺は、いつもとは違うざわめきに包まれていた。労働者たちが一斉に作業を中断し、工場の門前に集まってストライキを始めていたのだ。


 「東京タイムス」では、あいにく社会部の記者が出払っていたため、政治部の絹が急遽現場に駆けつけた。新聞記者の身分で現場の熱気を肌で感じながら歩みを進める。汗ばむ空気の中、熱い視線が彼女に向けられた。


「あなたは新聞記者ですか?」


「はい。皆さんの声を伝えたいと思って参りました」


 絹の答えに、労働者たちは近寄ってきて次々と声を上げた。長時間労働、低賃金、そして軍縮の影響で会社の受注が減ることによる雇用の不安——その全てが入り混じった声だった。


「もう何ヶ月も家族に何も買ってやれません」


「子どもが小さいのに、十分な食べ物がない」


 絹は鉛筆を走らせながら胸が締め付けられた。現場の人々の苦悩は、軍縮の理想だけでは測れない現実を突きつけていた。


 ――彼らは生活に困窮しているから「軍縮は困る」と言う。でも、それでは国の未来はどうなるのか?


 思いを巡らせながら、絹は霞が関の海軍省へ向かった。


 加藤友三郎海軍大将から紹介してもらった男がいた。


「海軍省に、井上(いのうえ)成美(しげよし)という少佐がいる。率直に君の訊きたいことを教えてくれるだろう。飾り気はないが、誠実な男だよ」


 庁舎の階段を上ると、整理された冷ややかさと秩序の中に若い女性の絹は浮いて見えた。

 応接室に通されると、やがて現れたのは背筋のまっすぐ伸びた中背の軍人だった。額は広く、眼光鋭く、しかし意外に丁寧な口調で面食らった。


「本当に、女性の新聞記者なのですね。川戸記者、お噂は伺っております」


「はい。少しお時間をいただけますか?」


「もちろんです。私でよければ」


 井上少佐は三十代後半だったが、英語・フランス語に堪能で、海軍大学校でも頭脳明晰と評判の人物だった。


「では、先月調印されたワシントン軍縮条約について、読者にもわかるよう教えていただけますか」


 井上は姿勢を崩さず静かに頷く。


「この条約の本質は、軍艦の数を制限し、海軍国同士の無益な競争を止めることです。戦艦の保有トン数を決め、イギリス・アメリカ・日本・フランス・イタリアの五カ国が5:5:3:1.67:1.67の比率で保有を制限する内容です」


「日本の『3』という数字が話題になりました」


「国内には不平等だとの声もあります。しかし太平洋での衝突を避けるため、現実的な数字を選びました」


 井上は続けた。


「海軍の仕事は戦うことではありません。戦わずに済む状況を作ることです。武力で誇示するのではなく、外交と信頼で安全保障を築くために、艦船の数を減らすのもやむを得ない。いや、むしろ進んで減らすべきと考えています」


 絹は驚いた。軍人が「戦わずに済む道」を語る——しかも合理的かつ誠実に。


「軍人の中には、納得できない方も?」


「確かに反対意見もあります。しかし我々はあくまで国を守る者であり、政治を動かす者ではありません。国が決めた方針に従うのが軍人の務めです。誤っていれば進言するのも責務。ただ黙って従うのは、忠義ではなく怠惰です」


 絹はメモを取りつつ、井上の言葉が自分の倫理観に響くのを感じた。


「この軍縮で、日本が不利になるとは思われませんか?」


「軍事力だけで『国の強さ』を測るならば、そうでしょう。しかし、日本が世界に認められる国であるためには、武器よりも理性と誠意を示すべきです。しかも、もし日本が戦う場合、独力で世界中を相手にすることなど考えられません。必ず同盟国がいるはずです。だからこそ、国際協調が重要なのです」


 絹は深く息を吸った。


 ――そうだ。外交と信頼こそが、本当の力なのだ。


「……国際協調という言葉には、意味があるのですね」


「そう信じたいのです。でなければ、我々は恐怖の均衡の中で、永遠に武器を磨き合い続けるしかありません」


 井上はさらに続けた。


「ワシントン条約で、日本はアメリカに対して主力艦を6割に抑えられました。しかしこれは、日本が控え目という意味では決してありません。むしろ、アメリカ側が『我慢している』と考えるべきなのです」



「我慢……ですか?」


「いいですか、川戸さん。数だけで申せば、アメリカと我が国の国力は桁が違います。例えば、国が一年のうちに生み出した品物や働きの総計である国民所得——国民総生産、GNPとも呼ばれるもの——という指標がありますね。百姓が米を作り、工場が鉄を打ち、船会社が荷を運ぶ。その一つひとつを値に換えて合算したものが国の生産力ということになります。家計で言えば、一年にどれだけ稼いだかという収入と同じようなものです。貯金や財産ではなく、その年の働きの結果を測る勘定です」


 まるで経済学の先生が生徒にものを教えるような口調だった。

 井上は絹の眼を見ながら続けた。


「アメリカはその国民所得、いわゆる『国の稼ぎ』が我が国の八倍から十倍もある。つまり我々が十年かけて積み上げる仕事を、アメリカはたったの一年で成し遂げてしまうほどの力を持つ、という意味です」


 絹はメモをとりながら眉を顰め、


「家計に喩えると、すごく分かりやすいです」


と、小さくうなずく。


「いいですか、兵器の数を競う《《以前》》に、国力そのものがこれだけ違うとなると、これはもう、持久戦になると勝負になりません。

 鉄鋼の生産量で申せば、アメリカは世界全体の半分を一国で占めています。約4200万トン。これに対して、我が国の生産量は約100万トン。実に我が国の四十倍以上もの量を炉から吐き出しておるのです。

 石油に至ってはもっと顕著です。アメリカは世界産出の七割、44億バレルを握り、日に日に油井が噴き上がっています。これに対し、我が国の産出量はほぼゼロ、すべて輸入に頼っています。これはもう、差というものではありません。そして、石油が無ければ軍艦は動きません。

 それから自動車の保有台数。アメリカの街道にはすでに930万台の車が走っています。これに対して日本では3万台未満。機械の便利さを日常生活の隅々に行き渡らせる、その底力が全然違うのです」


 井上は数字を上げながら、こうして丁寧に説いた。

 絹は


 ――これが現実なのか……。


と、目を見開く


「だからこそ、ただ軍備を増やせばよいというものではありません。国力の大本を見定めねばならないのです……冷静に考えれば、我らはその差を自覚しつつ、如何に外交と経済で国を守るかを考えねばなりません」


 ここで井上は一度言葉を切り、少し柔らかい口調で尋ねた。


「……川戸さん、あなたはアメリカへ行かれたことは?」


「いいえ、まだ一度もございません」


「そうでしょう。しかし、あなたはまだお若い。きっとこれから機会があるはずです。その時は、ぜひ見てきていただきたい。紐育(ニューヨーク)で摩天楼の林立する街並みを。底特律(デトロイト)の工業地帯で、果てしなく並ぶ自動車の組み立てラインを。そして得克薩斯(テキサス)の油田地帯で、空に向かって噴き上がる炎の柱を」


 井上の声には抑えた情熱が籠っていた。絹は、


「なるほど、そういう意味では条約の比率は妥当かもしれませんね」


と、小さく独り言をつぶやく。


「そうした光景を一度目にすれば、アメリカが如何に強大な国であるか、肌で悟られるでしょう。数字で示すよりも、ずっと鮮烈に」


 絹は頭の中で、まだ見ぬ異国の風景を思い描いた。高層建築、轟音を立てて動く機械、果てしなく続く油田――。

 それらは遠い夢のようでありながら、日本の将来を考えるには避けて通れない現実なのだと、胸の奥に刻まれていった。


「ですから先ほど私が『ワシントン条約はアメリカが我慢している』と申したのは、そういう意味です。国力において我が国の何倍、何十倍もあるアメリカが、たった3分の5の主力艦トン数で我慢してくれているのです。

 アメリカの工業力は、我々の想像を遥かに超えています。人々の生活水準も段違いです。ですから、日本はまず経済の底上げ、民需の振興を図らねばなりません。軍備を維持するのも、経済力なしには成立しないのです」


 井上の口から出る「アメリカは我が国の何倍」という言葉は、絹の耳には冷たい事務的数字であると同時に、夜の工場や、農民や女工の皺んだ手に結びついた。数字は声を持たぬが、その向こうにある人々の顔を、彼女は思い浮かべた。


 絹は取材を終えると、応接室でお辞儀をして礼を言った。


「本日は丁寧にご説明いただき、ありがとうございました。井上少佐」


 井上は微かに笑みを浮かべ、額の皺をほんの少し緩めた。


「いえ、若い婦人記者が軍事に関心を持つのは良いことです。ぜひ、私が申した事実を紙上で正直に読者に伝えてください」


 絹は背筋を伸ばし、深く頭を下げた。


「承知いたしました。必ず、多くの方に伝わるように書きます」


 階段を降りながら、絹の胸には数字で示された現実の重みがずしりとのしかかっていた。アメリカの国民所得が日本の約十倍もあり、鉄鋼や石油の生産量も桁違いだという話——底特律(デトロイト)の工業地帯、得克薩斯(テキサス)の油田、紐育(ニューヨーク)の摩天楼の光景——それらを想像すると、日本という国がどれほど小さな国力の上に成り立っているかが、肌で理解できる気がした。


「数字で現実を示されると、実感が伴う……」


 絹は息を整えながら、ふと自分の手帳に目を落とした。メモは鉛筆でびっしり埋まり、井上の言葉と現場の光景が混ざり合っている。


 ——感情に訴えるだけでなく、事実をもって読者に伝えなければ。


 彼女は静かに、しかし確かに決意を新たにした。軍縮も国際協調も、ただの理想論ではなく、国民の生活と直結している。それを伝える使命——それが、自分の仕事なのだと感じた。


 海軍省の庁舎を出た絹は、社に戻ると机に向かい、条約文書や軍備関係の書籍を広げた。戦艦のトン数、艦隊編成、条約の比率をノートに整理し、図表や簡単な表を作り始める。


 ――なるほど、戦争は力だけで決まるものではない。経済力、外交交渉、条約の信頼性……すべてが絡み合って国の安全を支えているのだ。


 絹は表を作りながら考えた。日本の戦艦保有比率を線で表し、イギリスやアメリカとの比較も書き込む。各国の艦隊トン数の差が視覚的に理解できるようになると、条約の意図が少しずつ頭に入ってきた。


 ――今すぐに軍備を全廃するのも、軍人を頭ごなしに否定するのも非現実的だ。政治が軍に責任を持ち、国際協調を通じて平和を維持する——そのためには、私自身も現実を学び、理解しなければ。


 ふと、女専で矢内原先生が紹介していたドイツの哲学者カントの『永久平和論』を思い出す。戦争を避け、条約と国際法によって平和を維持する——その理想は、井上少佐の言葉と重なる。


 絹はさらにノートを開き、ワシントン条約の数字、経済指標、社会問題を表にまとめた。造船所のストライキも、経済基盤の弱さを示す一例として記録する。


 ――現実を正確に理解し、判断を下すこと。


 やがて絹は満足げに微笑んだ。


 夕闇が街を赤く染める中、絹はペンを握り直した。学び、整理し、視る——それが、これからの道の始まりだった。

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