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絹の国  作者: 喜多里夫
第二章 新聞記者時代と社会認識の形成

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第14話 婦人記者、政治部へ

 1921(大正10)年4月——。


 その朝、荒井主筆に声をかけられた絹は、いつものように小走りで編集部の奥へと向かった。


「川戸君、政治部へ異動だ」


 主筆の机上に置かれた一枚の紙に目を落とすと、そこには絹の正式な辞令が置かれていた。


 ——川戸絹 政治部ヘ異動ヲ命ス


 絹は一瞬、時が止まったように感じた。けれど、次の瞬間には、背筋を伸ばしていた。


「……ありがとうございます。やってみせます」


 荒井は、編集長席に座ったまま、煙草の煙をゆっくり吐き出しながら言った。


「社会部での君の原稿は、記録じゃなくて、人間がいた。声を拾う力は、どこでも通用する……後は、どこまで食らいつけるかだな」


「はい。その御言葉は忘れません」


 政治部は権力の中枢を扱う部署だ。議会、政党、官庁、軍部――新聞社の中でもっとも緊張感と駆け引きに満ちた世界。その中に、若くて、しかも女性である自分が飛び込むことになる。


 だが、絹は恐れなかった。むしろ、静かな決意を燃やしていた。社会部では労働者や庶民の声を追いかけてきた。だが、これからは権力者の言葉を正面から問いただす場に立たされる。


 ——誰も拾わない声を拾いに行く。届かぬ真実を、書くために。




 半年ほどして、政治部での仕事もようやく慣れてきた頃。


「……じゃあ、そろそろ単独インタビューを一本頼まれてくれ」


 荒井が絹を呼んで、手元のメモを見ながら呟いた。


「加藤友三郎。海軍大臣だ。ワシントンの軍縮会議に向けて近く出発する。君、取材に行けるか?」


「えっ……加藤大将、ですか?」


「そうだ。ああいう人物が今、何を考えているか、世間は知りたがってる。軍縮、外交、そして……これからの日本についてな」


 加藤友三郎――かの日露戦争、日本海海戦の折には連合艦隊司令長官東郷平八郎の下で参謀長を務めた。現在は海軍大臣。厳格で寡黙、だが、合理主義と国際協調を重んじる人物と聞く。


 当時、アメリカを仮想敵国とした八・八艦隊計画が進んでいたが、この計画のため大正10年度に海軍費は日本の国家予算の3分の1を占めるようになり、やがて総軍事費が総予算の6割にまで膨張する計算となって、国民の負担能力の限界という壁に突き当たっていた。


 海軍省の応接室で、絹はその人物と対面した。


「若い女性記者か。いいことだ。戦争も、平和も、皆に関わることだからね」


 加藤はそう言って、煙草を灰皿に置いた。


「軍縮会議において、我々が求めるのは『均衡』だ。海軍の規模も、外交の手段としての軍事も、他国と協調して初めて意味を持つ」


「日本は、もっと軍備を増やすべきだという声もあります」


「軍備を増やして誰と戦うというのかね? 太平洋の向こうに敵を作るつもりはない。日本にとって最も必要なのは、開かれた貿易と、信頼できる外交だ」


「それでも、軍人としては……武力を否定しないのでは?」


 加藤は少しだけ笑った。


「武力を否定はせん。しかし、私は戦争が国を強くするとは思っていない。軍人であればこそ、戦を避ける道を知っておかねばならんのだ……そして、海外に領土を持つ責任とは、武力ではなく制度と信頼で果たすべきだ」


 その言葉は、絹にとって新鮮だった。


 これまで、軍人は常に力の象徴だった。軍人とは戦争をしたがるものだと漠然と思っていた。だが、いま彼女の前にいるこの男は、力の「抑制」を語っている。


 取材後、絹は喫茶店で取材メモ帳を開いた。小さなテーブルの上に、紅茶と鉛筆、それからメモ帳。向かいには誰もいない。だが、さっきの加藤の言葉が、まるで隣に座っているかのように絹の耳元に残っていた。


 戦争と平和。

 内地と外地。

 男と女。


 それらを隔てていた壁が、少しずつ崩れていくような気がしていた。


「私は、これまで『国内の声』に耳を澄ませてきた。でも、戦争が国の外で起き、和平が海の向こうで決まるなら、私たちは『国外の声』にも目を向けねばならない」


 彼女はそう書き記し、記事のタイトルを決めた。




   軍縮と国際協調を語る——加藤友三郎海軍大臣に訊く


   来るべき華府(ワシントン)会議に臨む本邦主席全権、加藤友三郎海

  軍大臣は、本紙記者の問に応じ、左の如く語られたり。


   曰く、

  「軍備の増減は国の安危に関はる重大事なり。然れども、兵力のみを以て国

  を支ふるべしとは考へず。外交の信頼、貿易の開放、此二つこそ国運を養ふ

  基礎にして、真の国防に資すものなり」


   また曰く、

  「我は武力を否定せず。然れども、戦を以て国を富強ならしむること能はず。

  戦を避け、制度と信義とを以て海外の責を果す、是れ軍人の知るべき道なり」


   語調は静謐にして峻厳、辞は簡潔ながら、其意は深く、記者もまた強く感

  じ入るところありき。


   昨今、八八艦隊計画は国庫を逼迫し、世論の憂慮する所となれり。然れど

  も大臣は、国力の限界を冷静に見定めつつ、協調外交の道を明らかにせられ

  たり。


   戦ふを知りて尚ほ戦を避くることを説くは、将帥の真骨頂と謂ふべし。


(「東京タイムス」大正10年10月7日号 川戸絹)



 1921(大正10)年から翌年にかけて、アメリカの首都・ワシントンでワシントン会議と呼ばれる国際会議が開かれた。欧州大戦の後、列強諸国が軍備拡張を続ければ、再び大きな戦争が起こりかねないとの危惧から、アメリカのハーディング大統領の呼びかけで開催されたものである。

 この会議で結ばれた海軍軍縮条約は、各国の主力艦保有比率を英米5、日本3、仏伊1.75と定め、新造戦艦の建造を制限、軍拡競争を防ごうとしたものである。

 この条約は、日本にとって軍事費の財政負担が軽くなり、国際協調の道を歩む契機となった。




 1922(大正11)年3月下旬。


 午前のうちから薄曇りの空に、どこか水分を含んだ光が満ちていた。明正女子専門学校の講堂には、春の湿った風がすこしずつ吹き込み、白いカーテンをやさしく揺らしている。


 壇上には、濃い紺色の袴に白襟の女学生たちが整然と並び、来賓の姿も多く見られた。椅子の並ぶ講堂の中央には、絹とたま子、さき、梅代ら、夜間課程の卒業生たちの姿もある。日々仕事に追われながらも、それぞれの目に静かな誇りが宿っていた。


 式は粛々と始まった。


 卒業証書授与の呼名が始まる。昼間部、続いて夜間部。名前を呼ばれ、立ち上がり、一礼し、歩み出て、証書を受け取る——その一つひとつの所作に、三年間の時間の重みがあった。


「川戸絹」


 呼ばれた瞬間、絹の胸に、わずかに熱いものが込み上げる。


 ——私は、本当に、ここまで来たのだろうか?


 彼女の背筋は自然と伸びていた。壇上へ歩むたび、仲間のまなざしが背中を押す。先生や友人たちとの多くの出会いが、彼女の中に「問い」を芽生えさせ、育ててきた。


 そして今、それを抱えたまま、彼女は社会へと歩き出そうとしている。


 続いて、校長による送辞。


 壇上に静かに立ち、少し丸めた背を伸ばすようにして、校長・巌本(いわもと)善治(よしはる)は深く礼をした。白髪交じりの口ひげの下から、落ち着いた声音が講堂に響いた。


「卒業生諸君――おめでとう。今日、諸君はこの明正女専を巣立ち、それぞれの道へと歩み出す。その旅立ちに際し、私は、一つの問いを贈りたいと思う」


 彼は、卓上に置かれた古びた一冊の聖書に指を添えた。


「人は、なぜ学ぶのか? なぜ、知を求め、ことばを学び、思索し続けるのか? それは己の誇りのためではない。人は学びを通して、隣人を知り、違う価値を持つ者とも語り合うために、そして、苦しむ誰かの声なき声に耳を澄ますために、学ぶのです」


 講堂の空気が静まり返った。


「この数年で、わが国は大きく変わりつつある。女子にも職業の門が開かれ、新聞を作り、子供を教え、法を論じる者も現れてきた。しかし、だからこそ問われるのは、力の使い方です。知を得た者は、それをどう使うかで真価を試される。それが、知識階級に課せられた『倫理』であり、諸君のこれからの人生に伴う『責任』なのです」


 彼の声は淡々としているが、言葉には静かな熱があった。


「どうか忘れないでください。この明正の教室で交わした議論を、諸先生方の講義を。それらはすべて、知識として身につけるだけでなく、この国の未来をかたちづくるための道具です」


 そして、彼は最後にこう結んだ。


「いま、君たちの旅は始まったばかりです。社会はきっと冷たく、厳しい。だが、諸君の中に燃える『ことば』の火を、どうか絶やさないでください。理想を語る勇気を持ち続けなさい。問い続ける者でありなさい。そして、学んだ知を、誰かのために使える人でありなさい。私たちは、この講堂で君たちを送り出せたことを、誇りに思います。卒業、おめでとう」


 言い終わって演壇を降りる巌本校長に、全員が起立し、しばしの間、静かな拍手が響いた。絹は最前列で、その言葉を胸の奥に刻みつけていた。


 校長の言葉に、絹はふと、矢内原の「視ること」や、新渡戸の「声を持つということ」という言葉を思い出していた。四年の間に、彼女の心に刻まれた言葉たち。そのすべてが、今日この日に、静かに結ばれてゆくようだった。


 卒業生総代による答辞では、昼間部の首席が壇上に立ち、落ち着いた声で述べた。


「私たちは、明正にて『女性である前に、人間であること』を学びました……声を持つこと、考えること、そして、沈黙に立ち向かうこと。そのすべてを忘れず、これからの時代を歩んでまいります」


 講堂には、すすり泣きの音がほんのりと混じり、誰もが静かに拍手を送った。


 式の後、たま子が、いつものように絹の肩を軽く叩いた。


「さあ、次は新聞社でまた一仕事だね。『川戸絹・女専卒、新聞記者続行中』って見出し、どう?」


「悪くないわね。もう少し先で、載せてもらうわ」


「じゃあ、わたしが読者の手紙書く。『女専出の記者さん、応援してます』って」


 梅代が笑いながら言った。彼女は卒業後、帰郷して結婚することが決まっている。

 春の光の中で、みな笑った。

 その笑い声は、ほんの少し涙に濡れていて、それでも前を向いていた。


 ——別れは終わりではない。ただ、道が分かれるだけ。


 川戸絹の進む道は、明正女専という場所で蒔かれた種が、やがて芽吹いていく道だった。社会へ出ても、彼女の問いは終わらない。言葉を求め、声を記し、世界を「視る」旅は、まだ始まったばかりだった。




 その日の午後、絹は女専の制服姿のまま「東京タイムス」本社の階段を駆け上がっていた。袴姿で社に顔を出すのは少し気恥ずかしくもあったが、それでも誰に見せるでもなく背筋は自然と伸びていた。


 編集部に足を踏み入れると、ガリ版刷りの音と鉛の匂いが出迎えてきた。いつもどおりの、活字と喧騒の世界。


 しかしその瞬間、部屋の奥から声が飛んできた。


 「おい、川戸が来たぞ!」


 「卒業、おめでとう!」


 振り向くと、荒井主筆が新聞紙を丸めた棒を掲げ、何やら妙な敬礼のような格好でにやりと笑っていた。その隣では、村岡デスクが小さな花束を持って立っていた。赤と黄色のチューリップがいくつか、不器用に新聞紙で包まれている。


「こ、これは……?」


 絹が思わず戸惑うと、荒井が腕組みして笑った。


「本当は酒でも飲ませてやりたいところだがな。社に女記者一人きりじゃ、なかなかそうもいかん。せめて、これでも受け取ってくれ」


「ありがとうございます……もったいないです」


 絹が小さく頭を下げると、村岡がぽんと彼女の肩を叩いた。


「これで一人前の『インテリ記者』ってわけだな。なにしろ、女専の卒業生だ」


「いや、まだまだ半人前です。でも……ここで書くために、女専で学んできました」


 その言葉に、編集部の空気が一瞬だけ静まった。誰もが、それを冗談ではなく本気だと受け取ったのだ。


「いい心がけだ」


と、荒井が口を開いた。


「君の書いた『港に囚われた学生』、今でも読者から手紙が来る。女が書いた記事だから、なんて声もあったが、私はそんなこと思っちゃいないよ」


「うちは、筆で勝負だからな」


と、荒井は笑う。


 その瞬間、別の机の男が冗談めかして叫んだ。


「おぉい! 誰か袴姿の記者を描いて一面に載せてやれ!」


「いや、むしろ連載小説に出そうぜ。婦人記者が事件を解決するやつ」


 編集部がわっと笑いに包まれた。絹もつられて笑った。いつもどおりの喧騒。でも、どこか違う。これからは、本当にここが自分の「生きる場所」になるのだと、あらためて実感した。


 ——もう、学生ではない。


 記者として、言葉で切り拓く日々が、また始まる。


 その夜、絹は持ち帰った花束を机の水差しに挿しながら、原稿用紙の前に座った。


 「学ぶとは、変える力を持つこと。そして、声を持つことは、誰かのために沈黙を破ること」


 新渡戸の言葉を反芻し、チューリップの向こうで湧き上がる新聞社の喧騒を思い出しながら、絹は静かにペンを取った。

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