第13話 国境の教室
1920(大正9年)晩秋の週末。
銀杏がすこしずつ色づきはじめた東京に、早くも冬の匂いが混じりはじめた頃。
神田川沿いの石畳には落ち葉が散り敷き、冷たい風が建物の間をすり抜ける。
東京物理学校の校舎は飯田町にあり、赤煉瓦と白壁が特徴的で、街路を行き交う市電や人々の足音とともに、学問の香りを漂わせていた。
校舎は、木の香のまだ残る教室と、ところどころ煤けた実験室が入り混じっていた。白い石膏壁に貼られた黒板は数式でびっしりと埋まり、机の上には真鍮の分銅やガラス製の試験管が雑然と並んでいる。
取材で訪れた絹は、事前に申し合わせていた場所で、それらしい一人の学生に目を留めた。
細身で背が高く、眼鏡の奥に落ち着いた光を宿している。
「こんにちは。『東京タイムス』の川戸と申します。留学生の姜さんですか?」
絹が声をかけると、彼は一度眼鏡を外し、恭しく頭を下げた。
「はい。姜明洙と申します」
少し訛りのある日本語で、彼は名乗った。絹はすぐに手帳を取り出した。
手帳に「姜明洙」と書き込んだところで、絹はふと顔を上げた。
「失礼ですが……お名前、本当は、どのようにお読みするのですか?」
姜は一瞬ためらい、それから穏やかな笑みを浮かべた。
「日本では、漢字の読みで『きゃう・めいしゅ』と呼ばれることが多いのです。ですが、祖国では――カン・ミョンスと申します」
「かん……みょんす」
絹は口の中で繰り返してみる。慣れない音が舌の上で転がり、少し緊張した。
「なるほど……同じ字でも、こうも違うのですね」
「ええ。どちらも、私の名前には変わりありません。ただ――祖国の音で呼ばれると、やはり心に響くものがあります」
その言葉に、絹は胸の奥がじんわりと熱くなるのを覚えた。
記事を書く者としての習慣では「きゃう・めいしゅ」と活字にせざるを得ない。だが、彼が「カン・ミョンス」と名乗る時の声音には、確かに祖国と家族とを結ぶ響きが宿っていた。
姜明洙は20歳。韓国から来日した私費留学生である。
ここで一言、韓国の事情について触れておきたい――。
当時も、韓国は名目的には独立を保っていた。だが、実際には日本の強い影響下に置かれている――ことの起こりは、1910(明治43)年の伊藤博文暗殺《《未遂》》事件であった。事の重大さに衝撃を受けた日本政府は、朝鮮半島の安定を口実として「保護国化」に踏み切った。韓国皇帝の地位は形式的に存続したが、内政の要所には統監府の官僚が配置され、財政・外交・警察・教育に至るまで、日本の監督と干渉を免れることはできなかった。
しかし一方で、この体制は韓国の人々に日本への往来を開く契機ともなった。留学や労働の名目で海を渡る者が年々増え、東京や大阪の町では、教室にも工場にも彼らの姿を見ることができるようになった。そこには新しい学問を求める若者の真摯なまなざしもあれば、また日々の糧を求めて来日した労働者の苦い暮らしもあった。
大日本帝国と大韓帝国――両者の関係は、独立と従属、友誼と緊張とが複雑に交錯する、きわめて微妙な均衡の上に成り立っていたのである。
「日本に来てまだ数か月ですが、学ぶことは多いです」
と、姜。だが、その口調の端に、わずかな憂いが含まれていた。絹はすぐに察した。
「何か、日本で困ったことでも?」
姜は溜息をつき、目を細める。
「日本人学生の態度に、時折、戸惑います。露骨な差別というわけではないのですが、無意識に距離を置かれることがあり……それでも、同じ学科の友人もいて、助けてくれる人もいる。友情も感じます。だから複雑です——日本人の下に見られる悔しさと、友情の暖かさが混ざり合って」
「では、失礼ながら――どうして物理を学んでおられるのですか?」
姜は下を向いて少し考え込み、それから視線を上げて絹を真っ直ぐに見て言った。
「科学は、人を飢えから救い、国を強くします。米が足りなければ、化学肥料で増やせます。病気に苦しむ人々には、衛生や医学が必要です。私はそれを祖国の子供たちに伝えたいのです」
淡々とした口調の奥に、確かな熱が宿っていた。
絹は思わず身を乗り出した。
「日本の農村でも、子供が学校に行けず畑を手伝っている家は多いのです。教育を受けることが、どれほど大切か……私も痛感しています」
「ええ、同じです。国境は違っても、子供たちの未来を思う気持ちは変わりません」
その言葉に、絹の胸の奥に温かいものが広がった。
これまで記事の上でしか知らなかった「留学生」が、今こうして目の前に、理知的で控えめな青年として息づいている。
「帰国されたら、何をしたいですか?」
「物理教師になりたい。私の夢は、それだけです。祖国に、科学を根付かせたいのです」
絹は手帳の余白に「科学と祖国の未来」と走り書きをした。
窓の外では、市電の鐘の音が微かに響いている。
科学と祖国の未来――韓人留学生に聞く
東京物理学校に学ぶ韓国留学生・姜明洙君(二二)
は、静かに語る。曰く「科学は人を飢えより救い、国を健やかにする。米
なきは化学肥料にて補い、病なきは衛生と医学にて防ぐべし。余はその理
を祖国の児童に伝へんと欲す」と。
姜君は将来、帰国の後は物理教師として後進を育てるを志す。その眼差し
は真摯にして、いささかの驕りもなく、ただ理知と熱情とを湛ふ。
「国境は異なれども、子供らの未来を思ふ心は同じ」との言葉に、記者も
深く感じ入るところあり。
科学の力は我が邦においても一層の需要を見せん。隣邦においてもまた然
り。科学と教育とに国の明日を托す青年の姿は、まことに希望の光といふべ
きであらう。
(「東京タイムス」大正9年11月27日号 川戸絹)
絹の署名記事が新聞に載るや、例によって様々な投書が寄せられた。
あるものは「隣邦の青年が学問に励む姿、心打たるゝものあり。願はくは日韓相携へて明日を築かんことを」と励ます。
またあるものは「韓人の如きは未だ文明の道理を解せず。彼等を取り立つるは却て邦益を損ふ」と冷ややかに書き送ってくる。
新聞社の机上に積まれた封書を手に取りながら、絹はしばし沈思した。
日本人の韓国人に対する感情は、一様ではない。友情と敬意を抱く者もあれば、蔑みと恐れを隠さぬ者もある――むしろ、両極の間で揺れ動いていると言うべきであった。
しかし、と絹は心に言い聞かせた。
記者の務めは、世論の風にただ流されることではない。世の現実を映すとともに、あるべき姿を問うて筆を執ることだ。今目の前にいるのは、国境を越えて学びを求める一人の青年であり、将来を夢見る教師の卵である。その姿を伝えることこそ、記事を書く者の責任ではないか――と。
そんなことがあった頃の休日――。
この日も帝都の空は高く澄み渡り、穏やかな陽光が浅草六区の雑踏にも降り注いでいた。
川戸絹は洋装に身を包み、颯爽とした足取りで六区を歩いた。腰には小さなバッグ、肩にはカメラのような小道具も忍ばせ、取材と遊びを両立させる準備は万端だ。
向かう先は、巷で評判の浅草オペラ『女軍出征』を上演中の「新世界館」。劇場の前はすでに人の波。出し物の看板やポスターが揺れ、アイスクリームや洋食の香りが鼻をくすぐる。
ふと、人混みの中に見覚えのある背広姿を発見した。内務省の役人、志村清だった。眼鏡をかけ、背の高い絹よりさらに背は高く、姿勢も良い。
「……志村さん?」
「これはこれは川戸記者、まさかここでお会いするとは」
志村は少し芝居がかった大げさな物言いで挨拶した。
「志村さんもオペラを?」
「いや、民情視察です。もちろん、観劇も含めてですが……」
言い訳が少し照れくさく、絹は思わず吹き出しそうになる。
二人は肩を並べて客席に入った。絹の五尺五寸という背の高さは洋装でさらに映え、志村も隣に立つとまるでアメリカ映画に登場するカップルのようだ。
そろそろ上演が始まる時刻だ。
観客席は熱気に包まれ、笑い声やささやき声、拍手の音が入り混じる。
幕が上がると、舞台には軍艦の甲板を模した豪華なセット。軍艦「アトランチック号」とのことである。
「今度の戦争で連合軍の死傷者が多いんだってね」
「多いとも。それだから世界中の男がね、大変少なくなったんだ……そこで今度、いよいよ各国から女軍が戦争に出てくるんだとさ」
そういうわけで舞台には、ロシア、ベルギー、ルーマニア、イタリア、アメリカ、イギリスの各連合国女性士官を演じるアイドル女優たちが続々と登場し、それぞれの自己紹介の場面ではファンたちが熱烈な声援を送る。
そして、この一座の人気女優桐谷澄子が、ひときわ凛々しいフランスの女性士官に扮して登場すると、観客席からどよめきが起こる。
「私どもは敵の砲弾などは少しも恐れてはおりません。我々婦人は戦線にある男子の後援擁護たるに飽き足らずして、自ら剣を抱いて戦線に立たんとするものであります」
客席は拍手と歓声で揺れ、観客は熱気に包まれる。志村は小声で解説する。
「ご覧ください、あの身のこなし……本格的でしょう」
「……いや、台詞は棒読み気味ですが」
「でも迫力は伝わります」
どうも志村は桐谷澄子贔屓のようだ。
舞台では、小道具の大砲が倒れるハプニングも起きる。観客は爆笑。桐谷澄子がすかさず、
「敵に砲を取られた! 皆の者、援護せよ!」
とアドリブを入れる。
クライマックスで日本海軍の女性士官が登場すると、観客席はさらに盛り上がった。
掛け声や野次が飛び交う。
「澄子ぉぉぉ!」
「日本婦人万歳!」
「ブラボォォォォッ!」
絹は思わず手を叩き、笑いをこらえるのに必死だ。志村も、眼鏡の奥でニヤリと笑っている。
幕間、志村は小さな紙を差し出す。
「……川戸記者、どうぞ」
そこには劇場オリジナルのミニプログラムが。絹は目を丸くして笑う。
「志村さん、民情視察なのに、こういうのまで入手しているのですか?」
「……勉強になりますからね、民情視察です」
二人は顔を見合わせ、クスクス笑う。
終演後、桐谷澄子が花道を歩く。志村はいつの間にかちゃっかり花束を取り出し、澄子に差し出す。
「ありがとう」
と、澄子は花束を受け取って歩いていった。
「……志村さん?」
「いや、民情視察の一環ですよ」
絹は吹き出し、思わず肩を揺らす。志村も赤面して小さく笑うしかなかった。
劇場を出ると、凌雲閣の展望台へ向かう。十二階から見下ろす浅草の街は、人々で溢れ、活気に満ちていた。紙吹雪のように舞うチラシ、洋服姿の市民、屋台の明かり——まるで一枚の絵画のようだ。
帰り道、洋食屋に立ち寄り、ビフテキを切り分けながらコーヒーを啜る。
「志村さん、普段はお堅い官僚なのに、随分と観劇慣れしていますね」
「いや、川戸記者と並ぶと……つい張り切ってしまうのです」
「張り切るって……洋食屋で?」
笑いながら二人は料理を分け合う。フォークがぶつかり、二人とも顔を赤らめる。
隣のテーブルでは、子ども連れの母親がアイスクリームを落とし、父親が大声で「待て、待て!」と追いかける。絹はその様子に笑いをこらえつつ、志村も思わず吹き出した。
街を歩き千束町に差し掛かると、昼の賑わいとは違う路地の静けさが広がる。女たちが商売に励む姿を目にし、絹は志村に小さく言う。
「……この光景も、民情ですね」
志村は言葉を失い、頷く。
日が傾き、家路につく絹の頬には、ほのかな赤みが差していた。笑い、拍手、ハプニング、花束——一日の遊びに満ちた時間が、彼女の心を温める。
――観客席での笑い声も、花道の喝采も、今日の浅草も。
いや、それよりも――志村のことが絹の心を温めたのかもしれない。
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