第11話 民の声、五月の空に
1920(大正9)年、4月。
絹は三年生に進級した。
この年、明正女子専門学校に一人の非常勤講師が着任した。その人の名は矢内原忠雄。講義は「植民政策論」。
矢内原は東京帝国大学経済学部で教鞭を取り始めたばかりの30歳そこそこの青年だが、その口調は理路整然とし、時に熱を帯びる。彼は単なる統治技術ではなく、植民地における倫理と責任を問い続けていた。
講義は、静かに始まった。
「国家とは何でしょうか? 制度か? 軍か? 税か?――私は、民であると思います」
絹はノートをとる手を止めた。
「この国の政治は、上から下を『導く』形をとってきました。しかし、導かれる者が語らず、選ばず、疑わないなら、それは政治ではなく、管理です。政治とは『ともに治める』こと、すなわち民とともに、言葉を交わすことであります。民が声を上げぬ社会では、正義も静かに死んでいきます」
教室は静まり返っていた。
絹の胸の奥に、小さな灯がともるようだった。
「では、皆さんは、『植民とは何か?』と問われて、どう答えるでしょうか? 経済開発か? 文明化か? それとも、支配?……でしょうか?」
チョークが黒板に音を立てる。
絹はノートに鉛筆を走らせながら、カンガのことを思い出して自然と息を詰めていた。
「支配とは、剣を持つことではありません。支配者が神の義に背けば、やがてその剣は錆びるのです……かつてドイツが南西アフリカで何をしたか、ご存知ですか? 先住民ヘレロ族を、砂漠に追いやり、飢えさせ、死なせた。生き残った者には番号札をつけ、髑髏を研究の標本としてドイツに送った……それは文明の名を借りた殺人であり、学問を盾にした蛮行です」
教室に、ざわめきが広がった。
「文明国ドイツが?」
という声が、小さく漏れた。
矢内原はそれを遮らず、むしろ促すように頷いた。
矢内原の言葉は嘘ではなかった。
二十世紀の初め、ドイツの南西アフリカ統治は苛烈をきわめた。なかんずくヘレロ族とナマ族に対する弾圧は、後世「近代最初の虐殺」と呼ばれる。
1904(明治37)年、土地と家畜を奪われたヘレロ族が蜂起すると、ドイツ軍はこれを徹底して弾圧した。総督ルートヴィヒ・フォン・トロータ将軍の命令により、男は殺害し、女子供は砂漠へ追いやり、水場に近づくことを禁じたのである。飢えと渇きに倒れた者は数万にのぼり、人口の大半が失われた。
この惨劇は、ヨーロッパ諸国による帝国主義支配の暴力を象徴する出来事として記憶されることとなった。
矢内原は語る。
「人は、制度の中で人を殺すことを覚えます。植民政策を語る時、我々は統治ではなく、倫理を語らねばなりません」
絹の鉛筆の動きが止まった。
そ の言葉は、新聞記事でも、政治演説でも聞いたことがない、重さを持っていた。
──私は、この場所で何を学ぼうとしていたのだろう。
正しさとは何か?
書くとはどういう行為か?
記者としてではなく、人間として何をすべきか?
講義が終わった後、学生たちはざわざわと談笑しながら退出していった。絹は立ち上がれず、机の上に手を置いたまま、しばらくじっとしていた。
気がつくと、教室に残っていたのは、絹だけだった。
黒板にはまだ「倫理」と書かれたままの白墨の文字が残っている。
絹は立ち上がり、ゆっくりと教壇へ向かった。
その時、矢内原がチョークを取ると「倫理」の下に小さく書き足した。
「視ること」
絹は思わず、声を発した。
「……視ること、ですか?」
矢内原は振り返り、絹に向かって穏やかに頷いた。
「はい。多くの人は、現実を『見る』ことはできても、『視る』ことは難しい。
目で見るだけでは、真実には届かない。魂で視るとは、目を背けないことです」
絹は息を飲んだ。
新聞記者として、何度も現場を見てきた。
だが、視ていたのか。あるいは、ただ「記録していただけ」なのか。
「先生、私は……ヘレロ族のことを、今日初めて知りました。新聞には書いてありませんでした。教科書にも、載っていません。けれど……その話を聞いたとき、なぜか、胸が痛くなったんです。私は……間違っていませんか?」
矢内原は絹の言葉をしばらく黙って聞いていたが、やがてゆっくりと口を開いた。
「あなたは、倫理の入口に立っておられる。世の中には、知識を得て満足する人もいれば、知ったことに責任を感じる人もいます……あなたは後者のように思えます」
絹は、初めて心の奥に差し込んできた暖かい言葉に、ただ頷くことしかできなかった。
矢内原はふと窓の外に目をやった。かすかに夜風が吹いている。
「ヘレロの地に立ったことはありませんが、私はドイツの統治記録を読みました。数字と報告の羅列に、人間の声はありません。でも、あの数字の向こうに、誰かの母や、誰かの息子がいた……それを『視る』ことができる人は、政治にも、報道にも、必要です」
絹は、静かに言った。
「……私は、視たいです。できることなら、世界の向こう側まで」
矢内原は微笑み、チョークを手にとって、黒板に最後の一文字を加えた。
「責任」
この時、矢内原によって黒板に書かれた「倫理」「視る」「責任」の三つの語は、後に「三つの鍵」として絹の行動規範になる。
この年(大正9年)の5月2日日曜日、東京・上野公園では大日本労働総同盟友愛会が主催する日本初のメーデーが開かれようとしていた。メーデー自体は本来「5月1日」に行われるのが国際的な慣例だが、日本では労働者の参加を考慮して、休日に当たる日曜日にずらされたのである。
この日、東京の空には五月らしい雲が薄く流れ、陽ざしは柔らかく、風がときおり木々を揺らしていた。
絹は製糸工女姿に身を包み、足元の靴紐をきちんと結び直す。今日の任務は取材――ただし、労働者の声を直に知るため、変装して潜入するのだ。
上野公園に近づくと、噴水広場の周囲にはすでに多くの人々が集まり、ざわざわとした喧騒が地鳴りのように地を伝っていた。朝の時点で5千人とも言われた参加者は、午前10時を過ぎる頃にはさらに増えていた。手書きのプラカードには「八時間労働制ヲ確立セヨ」「最低賃金法ヲ制定セヨ」と墨痕も鮮やかに踊っている。赤い旗や幟が風になびき、各組合の名が書かれた横断幕が並ぶ。蒸気の匂いや土埃、労働者たちの熱気が混じった空気に、絹は心が昂った。
「ふう……これが、現実の声か……」
絹は製糸工女の姿で、人の波にまぎれながら歩いた。紺のモンペに白っぽいブラウス、頭には手拭をかぶり、普段の婦人記者らしい雰囲気はすっかり隠してある。
群衆の間からは、工員同士の小さな会話が聞こえてきた。
「昨日の残業、また無給やったぞ!」
「まったく、8時間労働制はいつ実現するんだ?」
若者も年配者も声を揃えて不満を漏らす。その声の力強さに、絹は胸を打たれた。
演説台に立った青年が叫ぶ。
「我らは八時間労働制を求む! 賃金の改善を! 生活の安定を!」
群衆が応える。
「その通りだ! 生活を守れ!」
「搾取は許さぬ!」
赤い旗が波打つ中、熱気はさらに増していく。
絹は胸の奥に熱いものを感じた。本で読んだ理屈よりも、ここにある生の声の重みの方が遥かに大きい。ペンとノートを取り出し、手元に走らせる。
「……なるほど。これが、民の声……」
その時、近くで年配の工員が若者に叱咤していた。
「おい、旗を引っ張るな! 他人の声を消すな!」
「すみません、気をつけます」
絹は群衆のやり取りをメモしながら、社会の多層的な力学を肌で感じた。
旗や横断幕の間を歩きながら、絹は声を上げることの意味、連帯の力、そして社会の変化を願う気持ちの尊さを噛み締めた。
この場にいるのは、男たちだけではなかった。赤ん坊を背負った女、幼い子の手を引いた母親、顔を煤で汚した少年。誰もが一様に真剣な表情をしていた。普段、日曜の上野公園では見かけぬような服装の人々がほとんどで、まるで都市の下層に沈んでいた人々が地上にせり出してきたかのようだった。
──これこそが、民の声なのね。
絹は胸中でつぶやいた。彼女は一瞬、かつて故郷の農村で見た下男や下女、小作人たちの顔を思い出していた。鍬を握る老いた手、冬でも裸足の子供、文字の読めない老婆。あの人々も、ここにいる人々と地続きなのだ。
「やあ、お久しぶりですな」
不意に背後から声がかかった。
思わず足を止めた絹が目を向けると、そこには鳥打帽をかぶった若い男が立っていた。粗布の濃紺の作業上着に、白い木綿シャツ。鼠色のズボンはややだぶつき、足元には安物の編み上げ靴。首にはねじり鉢巻きを解いた手拭がかけられている。服装はいかにも工員風だが──。
「……志村さん!?」
内務省の若手官僚、志村清だった。
「どうしてここに?」
「いや、うちの上司が『視察に行ってこい』というもので。まあ、僕は個人的には、こういう場を直接見るのは大事だと思ってます」
絹は少しだけホッとした。志村は彼女が以前、取材したことがある男で、折に触れて情報をくれる良き「現場の味方」でもあった。
「それにしても、その恰好?」
「ええ、変装です。『郷に入れば郷に従え』と言うでしょう?」
志村はわずかに笑い、鳥打帽のつばを下げた。なるほど群衆に溶け込み、工員の一人にしか見えない。
「あなたこそ、まるで本物の女工にしか見えませんよ」
「ふふふ……慣れてますから」
絹は少し冗談めかして答えたが、その眼差しは群衆に注がれていた。壇上ではまた誰かが演説を始め、人々は拳を振り上げて唱和する。
「治安警察法十七条を撤廃せよ!」
「失業を防止せよ!」
「最低賃金制を確立せよ!」
志村はその光景を見つめ、声を低くした。
「今日のことは、きっと歴史に残りますよ……いや、残さねばならない」
絹はうなずき、胸の奥に記者としての使命感が熱く広がっていくのを覚えた。
「それにしても──こんな大きな集まり、初めてですな」
と、志村が小声で言う。
「本当に。しかも、内務省が黙認しているというのが何より驚きです」
「ははは、うちの大臣──後藤新平が大きな器の人ですから。ああ見えて、大杉栄にも、資金を出したことがあるそうですよ」
絹は目を丸くした。
「大杉……栄? あの有名な無政府主義者の?」
「ええ。もっとも、出版事業という名目でしたけどね。あの人は敵を味方に変える術を心得ている」
その名を聞いた時、絹の視界の端に奇妙な人影が映った。黒いソフト帽をかぶり、細身の身体に角ばった肩。眼鏡の奥から鋭い視線を放って群衆を眺めている──あれが、
「大杉栄……本人?」
「ええ、今日は演説はしないそうですが。彼が来ただけで、警察が少しピリピリしてますよ」
志村はそう言いながら、ポケットから煙草を取り出し、一本くわえた。絹は視線を逸らさず、彼を見ていた。思っていたよりも繊細そうな顔立ち。過激な思想の持ち主というよりは、どこか疲れた理想家のように見えた。
「私は……話してみたいな」
「やめといたほうがいい。記者としてもね。君の文章は鋭いから、誤解されやすい」
すると、その時。
だが絹は、すぐに足を向けていた。
絹は大杉に近づくと、意を決して声をかけた。群衆の騒がしさの中で、二人はわずかに言葉を交わす。
「あなたの本、読みました。『日本脱出記』」
「ほう……それで、君はあれをどう読んだ?」
「苛烈で……でも、どこか詩的でした」
大杉は微笑した。だがその笑みは、どこか陰りを帯びていた。
「詩と革命は、いつも人の血を呼ぶ。だが君のような目をした女性がいるのなら、日本もまだ捨てたものじゃない」
しかし、大杉がその言葉を口にした直後、絹はまた不意に横から声を掛けられた。
「……あれ? はるちゃんでねえが!?」
振り向けば、そこに立っていたのは、去年、製糸工場に「化け込み」で働いた時、寄宿舎で夜な夜なお喋りを交わした三人の女工仲間だった。
「んまぁ、ほんとだぁ! 一年ぶりだべなぁ!」
「元気でいだが? 急にやめでしまって、心配してだんだよ」
彼女たちは目を輝かせて駆け寄ってくる。絹――いや、「澤村はる」は胸の奥がじんと熱くなった。
彼女たちは、「澤村はる」が「婦人記者川戸絹」であることを知らない。
そのとき、少し離れた位置にいた志村が「やあ」と軽く帽子を上げた。鳥打帽に濃紺の作業上着、鼠色のズボンは、群衆にまぎれれば労働者そのものだ。
「……はるちゃん?」
「なぁなぁ、あの人……もしかして……」
「えっ、恋人さんでね? なんか、ええ人そうに見えるっちゃ」
三人は顔を見合わせ、にやにや笑う。絹の頬に血が上った。
「ち、違うの! そんなんやないってば!」
絹は慌てて手を振るが、
「へえへえ、ええってええって。うちらに隠さんでも」
と、東北訛りの女工たちは、にやにや笑いながら背を押し合った。
絹は顔を真っ赤にし、どうしていいか分からず足をもじもじさせる。
そんな彼女の横で、志村は苦笑しながらも、どこか満更でもなさそうな表情を浮かべていた。鳥打帽のつばを指で軽く触れ、群衆の向こうを眺めるふりをしているが、口元は抑えきれない笑みにわずかに緩んでいる。
群衆の歓声が「団結せよ!」と高鳴る中、絹の胸の内だけは、羞恥と戸惑いと――説明のつかない温かさとで渦巻いていた。
気がついたら、大杉はすでに人波に紛れ、姿を消していた。
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