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絹の国  作者: 喜多里夫
第二章 新聞記者時代と社会認識の形成

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第10話 アフリカから来た青年

 1920(大正9)年の春。東京の春は、まだ少し肌寒い日もあった。


 絹は明正女子専門学校の廊下で、「新聞学」講義の後で杉村楚人冠から声を掛けられた。


「川戸君、ちょっと興味深い話がある。横浜の山下埠頭で働かされている黒人青年がいるという噂なのだが、なかなか尋常ではない状況らしい。君、よかったら行ってみればどうだろう?」


「黒人青年……ですか? どういう状況なのでしょうか?」


 絹は眉を顰めた。


「ああ、なんでもアフリカから来た青年だそうだ。日本に留学するために来日したのに、港で荷役作業に駆り出されているらしい。本人は困っているようだ」


「ありがとうございます、先生。ぜひ取材に行かせてください。異国から来た彼の声が、日本の人々に伝わるように」


 杉村は静かに頷いた。

 絹の心は新たな使命感で満たされていた。

 これが、彼女の政治家としての歩みの第一歩ともなる出会いに繋がるのであるが、この時の絹は知る由もない。




 杉村から話を聞いた翌日、絹は早速、横浜まで出かけた。

 もう夕闇の迫る山下埠頭は、夜の潮の匂いと石炭の粉塵で重たく湿っていた。灯が遠くに揺れ、港の水面にまばらな光の帯が漂っている。

 鉄のタラップを上がった先に、黙々と木箱を担ぐ青年がいた。浅黒い肌、しなやかだが疲労の色を帯びた肩。


 絹も当時の日本人女性としては背が高かったが、さらにひときわ背の高い彼に、絹は思い切って声をかけた。


「エ、エクスキューズ……ミィ?」


 青年が怪訝そうに顔を上げる。まるで聞き慣れない鳥の声でも耳にしたような表情だ。

 絹は心臓が跳ねるのを感じながら、必死に言葉を継いだ。

 女学校でも女専でも英語の授業は専ら英文の読み書きであり、実際に外国人と話すのはこれが初めてだった。舌がこわばり、次の言葉が出てこない。


「アーユー……スチューデント? オア……ウォーカァ?」


 拙い英語。青年の顔にますます困惑が広がる。軽く首を傾げ、返事に迷っている様子だ。

 絹の頬は、たちまち熱くなった。


 ——やっぱりダメだ、全然通じてない……! 私の発音ったら、どこがいけないのよ!


 額にじんわり汗が滲むその時、意外な言葉が返ってきた。


「ニホンゴ……ちょっと、できます」


「えっ?」


 絹は、拍子抜けして聞き返した。


「に、日本語を?」


「はい……すこしだけ」


 青年は、たどたどしく答えた。だが、その口元には、困ったような、それでいて相手を安心させようとする微笑みが浮かんでいた。どうやら、絹の奇妙な(?)発音に戸惑いつつも、笑って受け止めてくれているらしい。


 絹は一瞬、恥ずかしさで穴があったら入りたい気分になったが、同時にその微笑みに救われた。


「わ、私……あなたと話したくて……!」


 互いにぎこちないが、それでも伝わろうとする気持ちがあれば言葉の壁は越えられる——絹はそう感じて、少しだけ胸が温かくなった。




 名前は、ヨハン・カハンガ・チヴィク。

 旧ドイツ領南西アフリカ出身。日本語は、事前に教えられた「必要最低限」しか知らなかったが、努力して覚えたという。


「ガッコウ行ける、っていわれた。でも、ココは、シゴトばかり。故郷には……かえれない」


 絹は、肩に掛けていた鞄から取材ノートを取り出し、ヨハンの話をメモし始めた。


 ヨハンは1898(明治31)年、ドイツ領南西アフリカ、オバンボ族の名家に生まれる。父は部族の長老、母は家庭教育に熱心で、幼少期から村の伝統と教養を学ぶ。少年期にはドイツ人宣教師の学校に通い、英語やドイツ語を習得。知的好奇心旺盛で、村の長老たちからも将来を期待される存在だった。


 欧州大戦が終わる頃、村には大きな変化が訪れた。ドイツ人の支配者は敗戦の結果、土地を去り、村々は混乱に陥った。そこへ今度は日本が委任統治国となると、日本人の役人や商人たちが村を訪れ、「若者を日本に送って教育を受けさせる」という話が持ち上がる。


 ヨハンは、「日本に行けば勉強を続けられる」と聞かされ、期待に胸を膨らませた。父も母も、村の未来を担う者として彼を送り出すことを決めた。だが、現実は甘くなかった。村を出発する際に面倒を見ると約束した留学斡旋業者は、日本に到着するとその約束を反故にし、港で荷役作業に駆り出したのだ。


「あなたは……本来なら学問を学ぶために来たのですね?」


 絹が訊ねると、ヨハンは小さく頷いた。


「はい……学ぶ……希望……」


 絹はカンガに問いかけ、彼の事情を一通り聞き終えた。絹は胸を打たれた。何とか助けたい。メモを取りながら、港の重たい空気と潮の香りを胸に刻む。


 すると――。


「おい、そいつの仕事の邪魔せんと、もうええやろ!」


 浜言葉混じりの怒声が、潮風に混じって響いた。親方の荒々しい口調に、絹は思わず身をすくめる。ヨハンも肩をすくめ、親方の声がした方を振り返った。


「す、すみません……」


 絹の声は小さく、しかし誠意を込めていた。親方は荒い息をつき、腕組みして鋭い目で二人を睨む。


「おい、あんた、そいつの邪魔、もうやめんかい!」


 港の喧騒、木箱を運ぶ音、潮風に混じる石炭の粉塵――その中で、絹は胸に決意を固めた。たとえ叱られようとも、このいヨハン・カハンガ・チヴィクの声を世に伝えることをやめはしない、と。




 絹がこの時のことを「大正9年3月16日付東京タイムス」に書いた署名記事が、現在も史料として残っている。それには、


   アフリカの若者、留学詐欺に苦しむ——港で荷役作業、救済の手を求む


とあり、ヨハンの生い立ち、幼い頃の生活、中等教育まで受けた背景、留学の夢が詐欺によって妨げられた経緯を詳細に書き、横浜港で働かされる日々の様子も描写された。また、日本語がまだ流暢でないことも、彼の必死さを際立たせる要素として取り上げた。

 以下、絹の記事の末尾を引用する。




   然るに、南西アフリカより渡来せし青年ヨハン・カハンガ・チヴィク氏は、

  留学の志を抱きしにもかかわらず、不心得なる輩の奸計に陥り、港湾労役に服

  せしめらるるに至れり。

   帝国の委任統治領となりし地の出身者、正に我が邦の保護を仰ぐべき者な

  り。然るをして斯かる不正を蒙らしむるは、果して許すべきことならんや。

   今こそ、帝国はその責務を果たし、彼の如き青年をして真に学問の道を歩ま

  しむべきならずや。




 なお、後世の史家・大久保(おおくぼ)(ひとし)(『帝国民主主義の萌芽』  

巌波書店、1991年)は、この一節を評して「川戸絹における人種平等的姿勢の最初の公的表明であった」と述べている。


 記事は大きな反響を呼び、この似非留学斡旋業者は摘発され、ヨハンは自由を取り戻すことができた。両親がこの業者に払った費用も取り返されたうえ、読者から少なからぬ義援金まで集まった。


 だが、これからどうするか? 絹はすぐに、教育面での支援を考えた。彼女は明正女専で非常勤講師として倫理学の講義を担当していた阿部(あべ)義宗(よしむね)の名を思い出す。阿部は牧師であり、当時、青山学院高等部の教員でもあった。


「阿部先生……ヨハンを受け入れていただけないでしょうか。学問を学ばせたいのです。日本語も英語も少しずつ理解できます。中等教育は済ませていますので、高等部で学ばせるのがよいかと思います」


 阿部は静かにうなずいた。


「なるほど。青山学院高等部なら、外国人留学生も一定のサポートがあります。寄宿舎もある。生活の面倒も私どもで見ましょう」


 絹は心底ほっとした。ヨハンの住居、食事、学用品、生活指導まで、学校側の協力で整えられることになった。これにより、彼は学問を再開できる環境を得たのだ。


 こうして、港で荷役に駆り出されていた南西アフリカの青年ヨハン・カハンガ・チヴィクは、新聞記事と教育者たちの助力によって自由を取り戻し、青山学院高等部で学ぶ日々を始めた。絹にとっても、記者としての使命と教育者としての情熱が交わる、忘れがたい春の出来事であった。




 それから、しばらくして。

 昼どきの東京タイムズ社の階段を、ヨハン・カハンガ・チヴィクが上がってきた。

 絹が驚いて出迎えると、彼は深く頭を下げてこう言った。


「ワタシ、アナタの……ショセイ、になります。ツタナイけど……カラダ、うごく。アナタを、マモリタイ」


「えっ?」


「ワタシは、人として、いきる。そのキカイをくれたのは、アナタです」


 もちろん、絹の立場では「書生」の面倒などはみれない。だいたい絹自身、下宿人の身なのだ。


「じゃあ、私の『協力者』というか……『同志』になってください」


「ドウシ?」


 カンガは首をかしげ、少し考える。


「ドウシ……? ナニ?」


「同志。国や生まれた場所は違っても、同じ信念や目的を持って、ともに行動する人のことよ」


 絹は手で空間を指し示すようにして続ける。


「たとえば、学問を学ぶために助け合ったり、正しいと思うことのために力を合わせたりする……そういう関係の人のことを、同志と言うのよ」


 カンガはゆっくり頷き、声を強める。


「ワカッタ……ワタシ、アナタの……ドウシ」


 絹はにっこり微笑み、静かに答えた。


「ええ、これからは本当に同志ね」


 記事の文字が二人を結び、「東京タイムス」を仲立ちにして、新たな絆が生まれた瞬間であった。


「……それと、もう一つ」


「もう一つ?」


「ヨハンというのはドイツ人がつけた名。ワタシのこと、両親のつけたカハンガという名前で呼んでほしいです」


「カハンガ……」


 その時、絹の耳には「カンガ」と聞こえた。


「カンガね……わかったわ。カンガ」


 以後、ヨハンは絹の「ドウシ」となり、時折、取材の助手や護衛として同行するようになる。そして、絹からは親しみを込めて「カンガ」と呼ばれた。


 なお、ヨハン・カハンガ・チヴィクという名については、後世のアフリカ研究者佐伯(さえき)恒雄(つねお)(『アフリカと日本——委任統治時代の交錯』、東京帝国大学出版会、1978年)が詳細に論じている。




   ヨハンはドイツ人宣教師による洗礼名にすぎず、本人が生涯にわたり誇りを

  もって名乗ったのは『カハンガ・チヴィク』であった。オバンボ語(正確には

  オシオバンボ諸語)において『カハンガ』は「建てる者」を、『チヴィク』は

  「苦難を越える者」を意味し、合わせて『苦難を越えて新しきものを築く者』

  という含意を持つ。つまり、西洋の名『ヨハン』で近代と植民地支配を示し

  つつ、土着の名が「苦難にあっても建て直す者」という力強い意味を帯びてい

  るわけである。

   この名には、後に彼が独立運動や国家建設に携わることが、まるで運命的に

  示唆されているかのようである。後年、独立ナミビアの初代大統領となった人

  物に、このような名が与えられていたことは、歴史の偶然以上の意味を感得さ

  せるであろう。


 


 二度目の欧州大戦の後、日本の委任統治領から独立したナミビア共和国の初代大統領となったカハンガ・チヴィクは、晩年の回想録でこう記している。


「あの日、私は日本の埠頭で鎖を外された。だが実際に、私の魂を解き放ってくれたのはカワト・キヌのペン先であった」


と。

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