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絹の国  作者: 喜多里夫
第二章 新聞記者時代と社会認識の形成

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第9話 遠き領土、近き問い

 1919(大正8)年6月、ベルサイユ宮殿。

 ついに、講和条約が締結された。世に「ベルサイユ講和条約」という。


 世界を焼いた大戦は、条文と印章で「終わった」ことになった。だが、それは新たな秩序の幕開けでもあった。戦勝国日本は、敗戦国ドイツからの戦利品として、南洋群島――赤道以北のミクロネシア諸島――と、遥か彼方アフリカ大陸の南西部、旧ドイツ領「南西アフリカ」の統治を委任されることとなった。

 大戦初期に日本が占領した中国山東省のドイツ租借地(青島(チンタオ)など)は中国に返還され、その代わりに日本が得たのが旧ドイツ領南西アフリカというわけである。

 しかし、南洋群島はともかく、アフリカの大地は日本にとってあまりに遠かった。


「どうするんでしょう? あんな遠くを統治することになって……」


 「東京タイムス」の休憩室でも、その話でもちきりだった。村岡デスクが肩をすくめて言った。


「名目上は国際連盟の委任統治ってことだが、事実上の領有だろ。けど、日本から万里も離れてる。現地の言葉も気候も文化も違う。おまけに、欧米列強の目も光ってる」


 絹はその言葉に、胸の奥がざわめくのを感じていた。




 数日後。


 外はもうすっかり夜の帳に包まれていた。明正女専の教室に灯る蛍光灯の白い光は、生徒たちの肩やノートにまばらな影を落としている。窓の外を走る市電の音がかすかに響き、時折、風がどこかで木の葉を鳴らしていた。


 この学び舎は昼と夜で姿を変える。夜間部に集う生徒たちは、働く女たちだ。タイピスト、裁縫職人、電話交換手、事務員。服装も年齢もまちまちで、世間一般に考えられる女学生の制服など着ている者はほとんどいない。襟元の糊が取れかけたブラウス、靴のつま先に埃をかぶった長靴。けれど皆、真剣な目でノートを開いている。


 絹もその一人だった。

 夕方の退社後、記者鞄を肩にかけたまま、直接登校してきていた。ストンとしたシルエットのワンピースにストラップ靴、髪は肩につかない程度のボブカットである。活動的で、動きやすい。筆記具を詰めた鞄も、鉛筆の芯で黒ずんだ指先も、今の彼女の「制服」だった。


 先月、母から届いた手紙にこんな一節があった。


 ——近ごろ東京にては、娘子ら断髪してはしたなき洋装をまとひ、往還を闊歩する由しきりに耳に入る。世間の目もこれあり候へば、絹もまた身を慎み、よそ様の批難を招かぬやう心がけ給ふべし。


 封筒を閉じるとき、絹は少し笑った。


 ——でも、お母さん、私ももう洋装してるのよ……私はここで、私のやり方で生きている。


 母の感覚では、女性は人前では着物を着るものなのだろう。しかし、それでは記者の仕事はしにくい。最近の絹の服装は、動きやすい洋装一択である。




「さて、今日の講義では、『法的人格』という概念について扱います」


 教壇に立っているのは、東京帝国大学教授、穂積(ほづみ)重遠(しげとお)。今年度の「民法」の非常勤講師である。三十代半ばの男で、欧州留学帰りと聞くが、押しつけがましさのない落ち着いた物腰だった。


 黒板に「法的人格」と記すと、彼は静かに語り出した。


「わが国の民法は、『家』を基礎とする構造を持ちます。しかし、本来、法とは『個人』に立脚するものです。性別や身分にかかわらず、すべての人間に人格があり、それに基づいて契約や財産権が与えられるべきだと、私は考えます」


 疲れの見える生徒たちの顔が、少しだけ引き締まった。居眠りしないように瞼を押さえながらも、ノートに鉛筆を走らせている者もいる。

 絹は、姿勢を崩さず聞いていた。


「近代法の目的は、国家の命令を押しつけることではありません。むしろ、『人間同士の約束』を制度化することにあります」


 その声は、広い教室に静かに沁み渡った。


「法的主体——それは『自分の行動に責任を負える存在』ということです。女性がこの社会で未だにそう見なされていないなら、それは法の側が遅れているのです」


 教室の片隅で、誰かが小さく息を呑んだ。

 絹はノートの余白に、「法の側が遅れている」と記した。


 ——「私たちが未熟だから」ではない。「法が私たちを見ていないから」なのだ。それを口にしてくれる男性が、帝国大学にもいるのだ。


 講義が終わると、すぐに机を立つ者、背中を丸めて肩をほぐす者が教室から流れ出ていく。が、絹はノートを手にして立ち上がった。記者鞄を肩に掛けると、教壇のそばに歩み寄る。


「穂積先生」


 穂積が顔を上げた。

 その横顔が、絹の声にわずかに緩んだ。


「本日の講義、大変刺激を受けました。けれど、一つお尋ねしたいのです」


「どうぞ」


「先生は、『法はすべての人間に等しく与えられるべきだ』とおっしゃいました。ですが、もしそうなら……なぜ南西アフリカでは、いまも人々が人として扱われていないのでしょうか?」


 穂積の表情が少し変わった。

 教室の蛍光灯が、彼の眼鏡の奥に影を落とす。

 絹は続けた。


「私は新聞記者をしています。政府は表向き、『国際連盟の委任統治領』として、南西アフリカに文明をもたらすと発表しています。でも、現地では農民たちがひどい仕打ちを受け、鉱山労働を半ば強制されている、と聞きます。反抗した者は、地下牢に閉じ込められて……」


 口にするほどに、絹の声は熱を帯びていた。


「彼らも、人格を持った人間ではないのですか?」


 穂積は、しばし沈黙した。その間に、窓の外を通る市電の音がまたかすかに響いた。


「……南西アフリカを日本の委任統治領とすると決まった時、私たちの中には、文明の責任を果たすのだという理想もありました。しかし現実には、旧宗主国ドイツの圧政の名残と、日本政府の統治方針が未だに定まらないという問題があります。結果として、支配者は変わっても、内容はいまだほとんど変わっていないのです」


「それでも、私たちは正しいことをするべきじゃないのですか?」


 穂積は、目を細めて彼女を見た。蛍光灯の光の中に、彼の顔の輪郭が一瞬やわらいだ。


「そうです……そして、だからこそあなたのような人が必要なのです。法が届かない場所に、言葉で真実を届ける人が。あなたが見たものを書き、人に伝える。それは、私たち法律家にはできない重要な営みです」


 絹は小さく頷いた。

 鞄の中には、取材中に撮った写真と、書きかけの原稿があった。

 それを誰に向けて書くのか、自分に問いかけていたものが、少しだけ形を持ち始めた気がした。


 教室の明かりは少しずつ落ち、廊下には足音が遠ざかっていった。

 絹の胸の中には、一つの確信が残っていた。


 ——私がやる。「誰にも見えないもの」を、書き残すこと。それが、私の戦い方だ。




 この年、7月の帝都は、まだどこか明治の残り香を引きずっていた。


 煉瓦づくりの建物、麦わら帽子をかぶった男たち、そして絹が生まれた三重の田舎では見たことのないような色鮮やかな袴を穿いた女学生たちが、街角を行き通う。


 7月19日のことだった。

 神田の「東京タイムス」玄関前に、馬車が一台到着した。


「ほら、今日は馬車で行くぞ。市電なんかで汗だくになって行けるものか。自由民権の葬儀なのだ」


 荒井主筆のそんな見栄を、絹は呆れながらも少し誇らしく思った。そして絹は荒井と一緒に馬車に乗った。


「川戸君、外を見てみろ。人の流れが青山のほうへ向かってるだろう」


 荒井が窓越しに指をさす。

 絹の目に、喪服の群れがちらほらと見えた。

 焼けつくような夏の日差しと、群衆のざわめきがひとつに溶けていった。 


 青山斎場に着くと、もう群衆が黒い波のように押し寄せていた。

 政府の高官、陸海軍の将官、新聞社の男たち、学生、自由党の古老たち――。

 誰もがこの日だけは、形式ばった礼服に身を包んでいた。

 夏の光は重く、白木の棺を包む布の上で反射して、目を細めるほどに眩しかった。


 板垣退助翁、享年八十二歳――。


 読経が静まり、代読の弔辞が始まる。

 その声が響くたび、参列者の背筋がわずかに揺れた。


 絹は列の後ろで、黒い喪服の裾を手に持ちながら、その言葉を聞いていた。


 ――明治維新の元勲。土佐の志士。自由民権の父。


 だが、荒井の小声が絹の耳に届く。


「この人の志は、まだ生きている。まさに『板垣死すとも、自由は死せず』だよ。民のための政治、言論の自由――それを信じた男の魂が、いま燃え尽きたのだ」


 そう語りかける荒井の顔には、年齢以上の疲れがにじんでいた。

 絹はその横顔を見つめながら、炎天下の中で棺を覆う花々の香りが、なぜか野焼きの匂いにも似ていると思った。


 焼香の列が進む。

 新聞各社の記者たちは手帳を握り、時折ペンを走らせている。

 だが絹は、手帳を開けずに棺を見ていた。


 ――板垣死すとも、自由は死せず。


 いつか本で読んだその言葉が、ふいに胸の奥で響いた。

 彼が生きた明治という時代の長さと、その理想がもう一度燃え上がるかもしれないという予感が、熱い夏の日差しのように、絹の心に滲み込んだ。


「見たか、川戸君。これが歴史の匂いってやつだ」


 帰り道、市電と徒歩で社屋へ向かう二人。荒井が煙草を咥えながら呟いた。


「我々が書くものは、やがてこういう棺の上に積もるんだ。死んだ人間の理想を、活きた言葉で書き続ける。記者ってのは、そういう(ごう)なんだよ。」


 絹は何も言わなかった。

 だが、胸の奥では何かが確かに芽吹いていた。

 自由民権、記者の責務、民のための政治――それらの言葉が、蒸し暑い東京の空気の中で、ゆっくりと彼女の心の深部に沈殿していった。




 別の日。

 朝刊の校了を終えた「東京タイムス」の編集室には、鉛の匂いと煙草の煙、そして怒号混じりの活気が充満していた。


「川戸君、君の記事は、婦人欄にまわしてくれ」


「でも、これは工場の労働環境の話です。経済面で扱うべきでは?」


 絹の声は、朝の喧噪にかき消された。社会部のデスクは机の上の書類を無造作にひっくり返しながら、あくまで事務的に言い捨てた。


「いいから。婦人欄で『可哀想な少女たち』として書いてくれりゃ、それでいい」


 その場にいた男たちのいくつかの視線が、絹の横顔に集まる。だが、それは敬意でも関心でもない。


「若い女記者がまた面倒を言い出した」——絹はそんな空気を感じた。


 絹は、悔しさを押し殺して原稿用紙を抱えて席を立った。

 そんなことはしょっちゅうだった。

 新聞社という場所に「女」が入り込める隙間はまだまだ狭い。他紙と比較してリベラルな論調の「東京タイムス」でさえ、そうだった。報道の現場を歩く資格は、いまだに性別で測られている。


 ——私は書く。誰も拾わない声を。誰も掬わない怒りを。そのために、ここにいるのだから。


 絹はそう自分に言い聞かせながら、社屋を出て取材先へと歩き出した。


 その日の午後、絹は細い路地を分け入っていた。

 木造の長屋が肩を寄せ合う一角に、煤で黒ずんだ煙突が天をにらんでいる。ここが、深川の紡績工場だった。


 門をくぐると、女工たちのざわめきが潮のように押し寄せる。午前からの長い労働で顔は青白く、手は油で黒ずんでいる。だが瞳だけはぎらりと光り、まだ少女の面影をとどめていた。


「お嬢さん、新聞の人か?」


 そう声をかけてきたのは、十二歳のカナコと名乗る娘だった。背は低く、まだランドセルを背負っていてもおかしくない年頃だ。


「寄宿舎に入れられてから、母さんには一度も会ってないの。お米がないからって、お芋ばかり……夜は咳で眠れなくて」


 言葉は淡々としているが、まぶたの奥には涙がたまっている。


 他の女工たちも次々と口を開いた。


「日曜でも糸の掃除だ」


「糸屑で肺が悪くなる」


「給金は遅れるばかりだ」


 彼女らは寄ってたかって絹に訴える。メモを取る絹の手は、知らず強ばっていた。


 工場の監督が横から口を挟んだ。


「新聞屋さん、あんまり書きたてないでいただきたい。女工が増長しますからな」


 その言葉に、絹の眉がぴくりと動いた。


 ――増長? この娘たちは、声を上げることすら許されぬのか。


 絹は深く息をつき、メモに太い線を引きながら答えた。


「世の人が知るべきことを書くだけです」


 夕暮れ、工場を出ると川風が頬を冷やした。

 赤く染まる空に、煤けた煙突の影が突き立っている。

 絹はふと、新聞で読んだアフリカの鉱山の記事を思い出した。砂漠の果てで黒い肌の人々が、やはり食も住も奪われ、黙々と石を掘らされている――。

 深川の女工と、遠い大陸の鉱夫。

 違うようでいて、同じ痛みに沈んでいるのではないか。


 「女工の涙、かくの如く世界市況の波に翻弄せらる……」


 この前読んだ山科冴子の記事が絹の頭の中に蘇った。




 編集部に戻ると、いつもの喧噪が耳を打った。

 煙草の煙とインクのにおい。男性記者たちの怒鳴り声と笑い声。

 絹の居場所は、いつも「隅の机」だった。


 自分の原稿に目を落としながら、絹はふとため息をついた。

 工場の少女の声は、行間にしみ込んでいた。だがそれは、活字になる段階で「情緒的」にされる。


   働く少女たちの哀愁


   赤い鉢巻きが揺れる春の風景


 そんな見出しで、消費されてしまうことも多い。


 ——これで、本当に伝わるのか?


 ——この国の制度を、構造を、変えたいと思っても、記事にできるのは「現場の断片」だけ。


 記者であるということは、声を拾う者であると同時に、「枠内に収められる」者でもある。

 だが、それでもなお、書かなければならない。


 彼女の胸に、杉村楚人冠の言葉が蘇る。


「記者とは、水汲みのようなものだ。だが、その水を濁らせてはならない。君の水差しが清らかであるよう、心せよ」


「今の私は、清らかなのだろうか?」


 絹は自問しながら、鉛筆を握りなおす。

 原稿の余白に、ふと走り書きをした。


「制度の外に置かれた声を、制度の中へ届けるには——」


 それはまだ「政治」という言葉にはならない。

 だが、確かに、絹の胸の奥で形になりつつある思いだった。


 ——この国の制度を変えるには、記者として言葉を届けるだけでなく、その制度そのものに「手をかける」側に立たなければならないのではないか?


 絹は、その思いをまだ口にせず、そっと原稿を提出した。声を掬いながら、彼女自身もまた、歩み出す途中にいた。


 それから、彼女はこう書いた。


「ベルサイユで語られるのは、勝者の論理。けれど、東京の路地裏にあるのは、戦争の現実。女の目は、そこから始まる――」


 彼女の指先に灯った言葉は、やがて一つの長い記事となって紙面に載ることになる。


 『戦後東京点描――帰還兵と女たちの風景』。


 そこには、戦地から遠く離れた都市で、戦争の続きを生きる人々の姿が、静かに記されていた。

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何卒よろしくお願いいたします。



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