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棚機津女

 七月六日の夜。一人の棚機津女(たなばたつめ)が水辺の機屋(はたや)に籠もり、水神に捧げる織り物を織っていた。女は純粋な心根の清純なる処女(おとめ)であり、これからやってくるであろう水神を迎えようとしていた。処女はここで水神と一つになり、(みごも)り、自らも神になろうとしていたのだ。


 純真無垢な処女は神を信じて疑わなかった。自身が水神の妻になることに、何の疑問も抱かなかった。それは夜になれば月が浮かぶように、朝になれば太陽が昇るように、至極当然の事だったのである。神の為に産まれ、神の為にこの身を捧げる。処女のこれまでの人生はただ、今この時の為にあったのだ。未知の存在との接触はそれだけで人の心を不安にさせるものであるが、しかし処女の心は安らかだった。むしろ来たるべき時が来たことに高揚し、神の訪れを今か今かと待ち侘びていたのである。



 そんな機屋の外に、一人の男の姿があった。瘦せ細った色の白い肌をしたその男は水干姿に烏帽子を被り、機屋の隙間からじっと機織りをする処女を見つめていた。


 男は処女のその透き通るような肌と端正な顔立ち、そして何よりその流れるような曲線を描く身体の美しさに心をときめかせていた。いつ戸を叩こうかと悩みながら、いつ処女に声を掛けようか、どのような言葉を囁けばいいのだろうかと悶々としながら、夜闇の中をそわそわしていた。


 これから娶ろうとしている処女は私の事を神だと思い込んでいる。そんな処女に私の醜い顔を見せてしまって良いのだろうか。この醜い顔を見ても果たして私の事を夫として認めてくれるだろうか。神であると騙して手籠めにしてやろうとしている私の事を許してくれるだろうか。いや、許すはずがない。そもそも私の顔を見て驚き、泣き喚くかもしれない。あぁ、どうしたものか、どうしたものか。優柔不断なこの男はそんなことを考えながら、いつまで経っても機屋の中に入れなかった。


 古くからの習わしに従い、程よい年ごろとなった娘は七月六日から七日の夕刻にかけて棚機津女として水辺の機屋に籠り、水神と交わって子を孕み自身も神となるという儀式を行う。この水神というのは実のところ神ではなく村の青年であり、言わばこの儀式は村人同士の婚姻の儀式であった。誰と誰を夫婦とするかは村を仕切る神官の一存で決まる。そこにどんなに不満があろうともその不満が許されることはなく、事実そうして村人たちは連綿と子孫を繁栄させているのだった。


 男は村で一番美しいと言われる処女と一緒になれる事を神に感謝しつつ、けれども自分の醜さを思えばこそ、本当に自分が夫で良いのだろうかと延々悩み続けていた。悩めば悩むほど坩堝るつぼに嵌はまり、そして一度嵌ってしまうと底なし沼のようになかなか抜け出せなくなってしまったのである。もしこれがあの処女でなければ彼は思い悩んだりなどしなかっただろう。例えば彼の家から三軒隣の醜女しこめであったならば逆に諦めもついて闇に乗じて契りを結ぶこともできたであろう。しかしながら、今、目の前にいる処女の可憐さを思えばこそ、本当にあの処女を抱いても良いのか、あの可憐さ、純真さ、純朴さを奪い去ってしまって良いものか悩まされた。私が抱いたことによって彼女からその全てが失われてしまうことが、とてつもなく恐ろしい事のように思えてならない。その清純を果たして私が奪ってしまって良いのか。私よりももっと相応しいものがいるのではないのか。そんな事ばかりを考えてしまうのだった。


 やがて夜も更け、月に重たい雲がかかりその姿を隠し始めた頃、機屋の中からぱたりと機を織る音が止んだ。どうやら処女が眠気に負けてうつらうつらと船を漕ぎ始めたらしい。そればかりか機屋の中を照らし出していた蠟燭も今まさに風前の灯火となって消えかかっており、あっと思った時には機屋の中には真の闇が広がっていたのだった。


 男は聞き耳を立て、中からすうすうという処女の寝息が聞こえてくるのを確かめると、抜き足差し足で戸口まで進み、なるべく音を立てないように機屋の中に忍び込んだ。心臓は早鐘を打ち、まるでこれから大罪を働こうとしているかのような緊張の中、男は処女の傍まで歩み寄った。何も見えない暗闇の中にあって、それでも尚処女の身体は光り輝くような美しさを保ったまま、軽く腰を曲げた状態でそこにあった。


 男はしばらくの間処女のすぐ隣に立って荒くなった息を必死に整えながら、次にどうしたものかと再び悩んでいた。このまま衣服を脱がして有無も言わさず押し倒してしまうのが良いのか、それとも声を掛けて私が神である、お前を妻として娶りに来たと嘯いた方がよいのか。ただそれだけの事ですら彼は悩んだ。詰まる所、彼もまた処女と同じく純粋な心根の、清純なる穢れを知らない男だったのである。


 そうこうしているうちに月を隠していた雲も流れゆき、機屋の隙間から月明かりが差し込み始めた。その優しい光に照らし出された処女の顔はまるで菩薩のように柔らかく穏やかで、見ているだけで吸い込まれてしまいそうな程男の心を掴んで離さなかった。まだ幼さの残るその顔は、しかしすぐにでも大人の女性に成長して色香を醸し出し、あらゆる男を虜にしてしまうであろうことが目に見えて解った。そんな処女を私は今まさに穢そうとしているのだと思うと、彼の心はどうにもざわついていけなかった。これから処女の純潔を奪おうという事実に高揚し、昂り、けれど処女の清らかさに畏怖するあまり、今だに手を伸ばせないでいる自身の不甲斐なさに苛立ちを覚える。処女の肌から発せられる甘い芳りに男の身体は正直だったが、その身体に手を伸ばそうとするも、強張って腕が思うように動かせない自身の意気地の無さが、情けなくて仕方がなかった。


 不意に処女が「ん」と小さく声を漏らして身じろぎして、男は後退った。機屋の奥、機織りの後ろの陰に隠れるようにして身を引くと、すっと処女が上半身を起こすのが月明かりの中で目に入った。処女は大きく身体を伸ばすと、清らかで大きな眼を擦りながら、ふうっと息を一つ吐いた。それから不意に男の方に顔を向け、視線が交わった瞬間、ピタリとその動きを止めた。男はそんな処女から目を逸らすこともできず、息を吞みながらじっとその場に佇むことしかできなかった。処女はしばらくの間、男を不思議そうな顔で見つめていたが、やがて頬に朱を注ぎながら紅をさした可愛らしい唇を開いた。


「……貴方が、水神様で在らせられますか?」


 男はその雲雀(ひばり)の囁くような美しい声を耳にして、けれど緊張の為かすぐに返答することができなかった。処女の声を耳にしたのは実のところこれが初めてというわけではないのだけれど、これから自分が彼女に何をしようとしているのかを考えると、なかなか思ったように口を開くことができなかったのである。加えて「はい、そうです」と肯定するべきなのか、それとも「いいや、違う」と否定するべきなのか、それすら彼には判断がつかなかった。


 処女は黙りこくったままのそんな男を見つめながら、何を思ったのかすっと立ち上がると小さな歩幅でゆっくりと一歩、男に近づいた。男はその動きに思わず硬直し、目を丸くしていったいどうすれば良いのかと目を泳がせる。


「……お待ちしておりました。貴方がいらっしゃるのを」


 処女は言って、更に一歩、足を踏み出す。にっこりと微笑んだその顔は花のように可憐で儚げで、けれど同時にどこかしら芯のしっかりした出で立ちで。本当に処女は男が――いや、水神が訪れるのを心の底から待ち望んでいたようだった。そして事実、処女は水神の妻として迎えられることを待ち望んでいた。


 けれどそれは“水神”であり、私の事ではない。処女が待っていたのは私ではなく、あくまでも水神様なのだ。


 男は思わず首を横に振っていた。「私が水神である」と嘯くことなど出来なかった。処女を騙してまで純潔を奪うことなど出来るはずもない。如何にこれが習わしであったとしても、儀式であったとしても、彼にはどうしても処女の清らかさを失わせることができなかったのである。男にとって純真無垢とは畏怖の対象であり、神聖の象徴であり、それを穢すことは即ち自らを穢すことでもあった。そして何より、処女自身の気持ちを踏みにじるようなことを、彼はどうしてもしたくなかったのである。


 男はもう一度首を横に振りながら眼に涙を浮かべ、腹の底から絞り出すようにして、ゆっくりと、口を開いた。


「……私は、水神では……ない」


 その言葉を口にするだけで、彼の胸は激しく痛んだ。村の習わしに背いた痛みか、それとも処女の期待を裏切ってしまったことに対する痛みか。


「……どういうことでしょうか?」と処女は首を傾げる。「水神様でないのであれば、貴方はいったい、どなたなのです?」


「私は、私は……ただの、醜い……獣けだものです」


「獣? わたくしには、人の姿をしているように見えますが」


 男は処女のその問いに、激しく頭かぶりを振りながら、


「いいえ。いいえ、私は獣です。私は今から貴女を穢そうとしている。犯そうとしている。貴女のように清純で純粋な方を押し倒し、その身に我が子を孕ませようとしている。私は水神であると嘯いて貴女の純潔を奪おうとしていました。何故ならそれが村の習わしだからです。けれど、貴女の気持ちを踏みにじってまでそのような事、出来るはずもない。貴女のように美しく可憐で清純な、純真無垢な方を騙すなど、とんでもないことです。貴女はこのまま清らかでいるべきです。まして私のように醜い男に抱かれるなど、以ての外だ」


 そう捲し立てて嗚咽を漏らす男に対し、処女は「いいえ」と首を横に振りながら口を開いた。


「……わたくしは、そのようには思えません」


 処女の言葉に、男は「え」と声を漏らす。戸惑うように視線を交わし、処女の言わんとしていることを必死に理解しようと思考を巡らせる。けれど理解が出来なくて、そんな男に処女は微笑みながら言うのだった。


「わたくしには、貴方の心根が解ります。ただそうしてお立ちになっているだけでも、ひしひしと貴方という存在がわたくしの心に伝わってくるのです。貴方はわたくしを穢そうとしていると、犯そうとしていると仰いましたが、もし本当にそのようにお考えだったのであれば、とっくにそうしていたでしょう。けれど、貴方はそうはなさらなかった。わたくしの事を、わたくしの気持ちを第一に考えて下さった。それが、貴方が清らかである何よりの証。貴方様が神々しい存在であることの、何よりの徴です。ならば貴方は水神様です。貴方がどのようにご自身を思われようと、わたくしには間違いなく、貴方は水神様でいらっしゃるのです」


 だから、と処女はするすると衣擦れ音を立てながら男の前まで歩み寄ると、すっと男の胸に手を添え、言った。


「貴方は間違いなく、わたくしの夫です」


 その途端、男はまるで赤子のように泣き出した。大きな声で、憚ることなく、純粋に、気持ちのままに、安堵したように。


 そんな男の身体を、処女はそっと抱きしめる。


 男もまた、泣きながら処女の身体を抱きしめた。


 そんな二人を祝福するように、天空には星の大河がどこまでもどこまでも清らかに、滔々と流れ続けているのだった。



(了)

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