第7話 歴史改変
*西暦1938年4月25日夕刻 内閣情報調査室*
定例の会議を終えた男達は、煙草を吹かしながら談笑していた。
彼らの多くは国の要職に就いている。内閣閣僚を始め、政府高官、財閥企業の代表や役員、将官級以上の軍人が多くを占めていた。
東京は千代田区永田町の一角にある内閣情報調査室は、その存在そのものが国民に知られていない。
その活動目的も、設立の経緯も、組織の構成要員も、世間で知る者は誰ひとりいない。その全容を知っているのは、ここに集う者達でさえひと握りである。内閣情報調査室は、日本のトップシークレットと言って良い組織であった。
そのため当然、防諜の観点からこの主要メンバーが集まれる場所は限られる。
首相官邸や超高級料亭を除けば、彼らが「ある目的」のために話し合うことができるのはこの建物━━通称「内調ビル」の中だけであった。
内調ビルは内務省によって運営されるペーパーカンパニーの自社ビルであり、外部からの盗聴・侵入を防ぐために特殊な構造になっている。
また外敵からの襲撃を防げるよう、相当数の私服軍人がビル内外を巡回していた。
それほどまでに、ここで話し合われる情報と集まった人間の命は重要だった。
その内調ビルで、電話のベルが鳴った。
1人の私服軍人が電話に出ると、談笑中の男達に向けて急足で歩み出す。そして男達の中で最も小柄な海軍軍人に近寄り、耳打ちした。
「長官!お取り込み中に失礼いたします……樺太管区より緊急連絡です。本日13:30より、樺太・千島の陸海軍基地が敵戦爆連合、のべ150機の爆撃を受けたと報告が入りました。空襲の規模の割に基地の被害は軽微のようですが、敷香・大泊基地にて多数機が撃破された模様です。戦闘機の戦力補充を強く求めております。いかがなさいますか?」
長官と呼ばれた男は「またか」とため息つきながら答えた。
「やむを得ん。内地からの兵力抽出を許可しよう。確か三沢の艦戦隊がこの4月にまとまった戦力の練成を完了していたはずだ。直ちに2隊を樺太に向かわせてくれ……それから哨戒中の「龍驤」を直ちに宗谷海峡へ向かわせろ。また道北を爆撃されてはかなわんからな」
こう命じた男は海軍の第一航空艦隊の司令長官であり、彼は隷下の航空隊を自由に動かすことができる。これまで満州を中心に展開していたソ連空軍は、ここ数ヶ月で千島・樺太・北海道にまで足を伸ばして爆撃を仕掛けてくるようになっており、第一航空艦隊はこの対応に追われていた。
「はっ、直ちに」
「それにしても空地分離を進めておいて本当に良かったよ。内地のどこの基地の部隊も、命令一つですぐ動かせるからな」
「全くです……しかしこの消耗ペースでは、いくら戦力を補充してもキリがありませんね。日本には総力戦をやる能力がないと思い知らされます」
「だが我々は当面の間、この戦いに耐えねばならん。すべては、アメリカとの戦争を回避するために」
そう言い放った男の目に、迷いは無かった。
男の名は、山本五十六と言う。
*同刻 敷香基地*
「アメリカとの戦争を回避することが目的?」
命からがら戦闘を終えて帰還した僕と快斗は、分隊長に簡単な報告を済ませたのち、純一と一緒に空襲前の話の続きをしていた。
基地内には多数の爆弾が落下していたが、純一は防空壕に避難していたので無事だったようである。
それでも一発の爆弾が防空壕付近に落下していたため、僕と快斗は彼の身を案じていたのだが……彼はかすり傷一つなく「やあ、おかえり」と眠たそうな顔で出迎えた。
その時の彼の手元には何やら紙の束があり、パラパラと内容を確認しては火の中に放り込むという動作を繰り返していた。
彼はあろうことか、爆撃で生じたボヤを利用して始末書や帳簿類を焼き払っていたのである。倉庫や兵舎も爆撃の被害を受けていたため、書類消失を「不幸な事故」として始末しようとしていたようだ。やる事がまるで両◯勘吉である。
そして足元には倉庫からくすねてきたであろう缶詰やラムネ瓶が転がっていた──人が命懸けで戦っている最中、コイツは自分のおやつを盗んでいらしい。僕は呆れて何も言えなかった。
彼の所業を横目に、僕は足元のラムネを1本頂戴して喉奥に流し込む。常温だったので爽快感はないが、戦闘で恐ろしいほどのカロリーを消費した体には、甘ったるいラムネがひどく美味く感じられた。
やがて書類の焼却を終えた純一が火元から離れ、こちらに向き直る。その顔は達成感に満ちていた。コイツ、軍隊での横領は重罪だと知らないわけではあるまいに──彼の性格は、21世紀の時と何ら違いが無かった。
「そうとしか考えられないんだよ。満州事変からの不可解な歴史改変は、アメリカとの戦争回避のためだけに行われたと見れば、合点がいく」
ちびりとラムネを飲みながら純一が言った。ぬるいラムネがあまり美味しくなかったようで、一気飲みした僕とは対照的に、少し口にしただけで地面に置いてしまう。
戦闘前と同様、僕らは草地の上で円になって座り込んだ。
「颯真、太平洋戦争で日本がアメリカと戦って敗戦したのは知ってるだろう?」
「うん」
「じゃあ、太平洋を挟んで8000キロも離れた両国が戦争するに至った理由は何だと思う?」
「ええと……」
僕は21世紀で読んだはずの、日本史のテキストを脳内から思い起こした。太平洋戦争は、確か第二次世界大戦の期間中に起こった戦争のはずだ。その第二次世界大戦は、第一次世界大戦の後に起こった戦いで……その間、日本や諸外国の歴史はどんなだったっけ?
近現代史にまるで興味のない僕は思い出すことができず、素直に「教えてください」と頭を下げることにした。
「理由は色々あるんだけど、日米が中国の覇権を巡って対立したことが要因の一つだと言われている」
━━史実の日本とアメリカは、20世紀初頭から今日まで中国市場を巡って対立してきたんだ。広大な国土と巨大な国内消費人口を持ちながら、その巨大な生産力を国内だけで消費しきれない米国は、海外に市場を求めた。
英仏列強によって世界中の国々が併合・植民地化されていく中で、数億の消費人口を持つ中国はまだ他の列強によって完全な植民地化がなされておらず、米国は中国市場に食い込もうと必死だった。
米国は19世紀後半から、ハワイやフィリピンを戦争で奪い取って中国までの航路とし、長い年月をかけて狙っていたんだ。
そしてじわじわと中国を分割し、植民地化しつつあった他の列強に対して「オレにも中国よこせ(意訳)」と言った。
これが有名な1899年の「門戸開放宣言」だ。
そんな中、アメリカの中国進出に対抗しようとする国がいた。
それが日本だ。
日本は、日清・日露戦争で多くの血を流して大陸の利権を獲得してきた経緯がある。ぽっと出のアメリカが「中国よこせ」と言ってきても応じるはずもなく、中国利権を巡って日米は衝突を繰り返してきた。これは史実でも、この世界でも全く同じだ。
日本は無資源国だ。そして国の近代化・産業革命は他の列強よりもずっと遅れてやってきた。そんな日本が欧米列強の植民地にされず独立を保つためには、朝鮮や中国を植民地にするしかない……明治以来、日本はその思想のもと、大陸進出を強めていった。
その果てに誕生したのが、満洲国だ。この世界に存在する満洲国も、こうした中国の資源と土地を狙った日本の軍人によって、中国領を奪い取って作られたんだ。
ただしこの世界の満洲国には、史実と大きく異なる点がある。
それは、満洲国内の領土や資源を、アメリカなど他の列強とシェアしていることだ。
これに対して史実の満洲国は、その領土・資源を完全に日本が独占するというものだった。そのため、史実の満洲国建国は日米対立を強め、戦争へ近づく大きな一歩となった。
そして更に日米対立が決定的となったのは、史実の1937年7月7日に発生した「盧溝橋事件」だ。
この日、北京郊外の盧溝橋で演習中の日本軍が銃撃を「受けた」とされる。日本軍はこれを機に、中国領に全面侵攻をしかけて「日中戦争」へ━━この時代の呼称で「支那事変」へ突入する。
この世界では、同年同日にソ連軍が満州へ南下を開始してきたため、この戦争は起こっていない。
日中戦争の代わりに僕らが戦っているのが、この日ソ事変だ。
史実の日中戦争は、当初は現地の日中両軍の偶発的戦闘として始まったが、戦火を拡大して中国を征服したい一部勢力や、その他有象無象・魑魅魍魎の策略もあって……まあ、とにかくだ、今の日ソ事変と同じくらいに大規模な戦争に発展していったんだ。
史実では、日本が中国侵攻を進めるにつれて、米国は日本への輸出制限を強めていった。航空燃料や屑鉄の輸出制限に始まり、最終的には近代国家が生きる上で必要不可欠な石油の全面禁輸に踏み切った。
米国からしたら、魅力的な市場だった中国を、日本が軍事力で完全に支配・独占しようとしていたのだから、見逃す訳にはいかなかったんだ。アメリカは日本を禁輸措置で徹底的に搾り上げた。
アメリカの同盟相手だったイギリス、オランダも対日禁輸に加わり、日本はアメリカ以外の産油国からも石油を輸入できなくなった。当時、オランダ領だったインドネシアからは大量の石油が算出していたが、これも手に入れることが出来なくなった。
とうとう追い詰められた日本は、資源を求め、対日禁輸措置を取るアメリカ・イギリス・オランダとの戦争を決意するに至った───。
「日米対立は中国の奪い合いの中で進展し、アメリカの対日禁輸措置で戦争へ発展したと言って良い。事実、日本が中国からどこまで手を引けるのか?というのが開戦前の日米交渉の焦点になっていたんだ」
アメリカが禁輸措置を強める中、幾度となく日米は妥協点を見つけるべく交渉の場を設けてきた。
しかし絶対に中国を独占したい日本と、絶対に中国を日本に独占させたくないアメリカが話し合って話がまとまるはずが無く、交渉は決裂した。日米が中国というパイを奪い合う以上、戦争は必然だったとも言える。
「だから歴史に介入してきた未来人達は、これを必然ではなくす方法を考えた。何だと思う?」
「満洲国の切り売りオークションにアメリカを参加させて、その土地をソ連に攻めさせる……か」
「ご名答」
聞きに徹していた快斗が「急に頭が冴えてきたじゃないか。空戦中に頭でも打った?」などと言ってきたが、あえてこれを無視して純一に続きを促した。
「ソ連が領土的野心を剥き出しにして満洲国に攻め込んだことが日ソ事変の発端だと、世間では言われている。それは事実だ。事実だが、ソ連をそう誘導したのは、おそらく歴史を改変している連中だろうね」
「……アメリカに満洲国へ資本を投下させ、そこをわざとソ連に攻めさせる。そしてそれを奪還するために戦う日本は、アメリカにとっては味方だと……?」
「その構図を意図的に作り出すための戦争が、日ソ事変だ。4年前に発見された黒竜江省の油田だけれど、あれは戦後しばらくしてから発見されるはずなんだ。歴史を知る連中が、あえて黒竜江油田を早期に、しかもアメリカ企業に『発見』させたのはなぜか?アメリカ企業が嬉々として油田を開発している所をソ連に侵略させ、それを奪還するため日本軍が戦うという構図を成立させるためさ」
この状況が成立すれば、アメリカは日本に禁輸措置をすることなんて絶対にできない。禁輸措置をしなければ、まず日本はアメリカとの戦争を決意することはない━━これが日ソ事変の正体だ。
歴史を改変した連中は、これを狙っていたのだと、純一は言う。
「ちょ、ちょっと待ってよ!アメリカと戦わないで済むからって、ソ連と戦争するのか!?ソ連も大国だよ?現に僕達はソ連軍の物量攻撃に苦しんでいるじゃないか。ソ連とは戦うのに、アメリカとの戦争をそこまでして回避するのは何で!?」
「ごもっともな反応だね。じゃあ、ここで日米の力を比べてみようか……快斗、この時代の戦争に必要な資源やモノを挙げてみてよ」
「あー……俺は純一ほど戦史バカじゃないから代表的なものしか分からんが……じゃあ……鉄鋼生産量は?」
「12倍」
「石油精製能力」
「527倍以上、比較不可能」
「石炭」
「9倍」
「アルミニウム」
「生産能力は5倍以上、原料のボーキサイト産出量は日本がゼロのため比較不可能」
「銅」
「10倍」
「造船能力」
「3倍以上、ただしここから数倍に跳ね上がる」
「航空機生産能力」
「3倍以上、これも今後数倍以上になる」
「自動車生産量」
「100倍前後」
「戦略資源全般」
「アメリカはほぼ国内で調達、日本はほぼ海外輸入に依存」
「総合的な日米国力差」
「約77倍……颯真、もうこれで分かったろ?」
「こ、こんなに日米の国力差があるのか……こりゃあ、勝てんわな」
「そして颯真の質問の答えだけれど、第一に、アメリカの国力はソ連を凌駕しているから、まだソ連の方がマシというのがある。第二に、海で囲まれた日本本土に攻め込める海軍をソ連は持っていないが、アメリカは世界最強の海軍を持っているというのがある。だから、この世界の日本はアメリカよりソ連と戦うことを選んだわけさ」
特にアメリカ海軍は……まあ、戦史の話はまた今度するけれどさ、とにかく質も量も日本の比じゃないぐらい強かったんだ。
史実の太平洋戦争では、日本海軍は幾度となく米海軍に決戦を挑んだ。けれど、頭のおかしい速さで次々と軍艦を建造する米海軍に数で敗れ、事実上全滅した。
軍艦の性能も良かった。レーダー技術や防御力の高さで米海軍は世界一の艦隊を作り上げた。大戦末期には、日本海軍は米海軍に太刀打ちできなくなっていた。
ついでに米軍の飛行機はとにかく強くて、これを何万機と飛ばして来るから日本の軍艦や商船はこれにバカスカ沈められてしまった。
結果、アメリカが太平洋の制海権を握り、日本は資源輸入が出来なくなって降伏することになったんだ。
日本の敗因は色々あるけれど、まあ一言で言えば「絶対に勝てない怪物国家に戦争を仕掛けて戦いに敗れ、資源輸送路を封殺されたこと」に尽きるね。
「歴史を改変した連中は、それをよく分かっているんだろう。何をどうやっても、日本はアメリカに勝てない。でもまともな海軍を持たないソ連相手なら、少なくとも負けることはない。日本は島国だし、現時点で日本海軍はソ連海軍を圧倒しているからね……ともかくだ、この戦争は歴史を改変した連中によって仕組まれたもので、その戦争目的は『アメリカとの戦争回避』だろうと、僕は考えている」
───段々と早口になっていく純一の説明を聞いて、僕の頭はパンク寸前になっていた。
またしてもぐるぐると巡る思考。
アメリカとの戦争回避がこの日ソ事変の目的?
そして歴史に介入してきた連中は、その目的のために戦争を引き起こした?
純一の言うこと自体、理解はできる。
しかし、それが何だというのだ───。
僕は、ここまでの話を一旦飲み込んで、純一に問うた。
「なあ、教えてくれよジュン……そんな簡単に歴史を変えたり、戦争を引き起こすイカれた連中がいるこの世界で、僕たちは何をすれば良いんだ……?」
「それは……」
僕は、僕たちは、すでに戦争を経験していた。
僕と快斗はつい先頃まで敵と殺し合いをしていたし、防空壕にいた純一も、頭上に爆弾が降ってくるかもしれないという恐怖と戦っていたはずだ。
自分達ではどうすることもできないこの「戦争」という事象を前に、いったい何をしろというのか?
僕らがこうして話し合うのは、21世紀に帰るためである。
そのためには歴史を改変している連中に接触するなりして、21世紀に帰る手がかりを見つける必要がある、という話だったはずだ。
けれど現実には、手がかりは何も見つかっていない。歴史を改変する連中の「目的」を推測しただけである。この広い世界のどこに歴史を変えている連中がいるのか、見当もつかない。
果たして僕らは、21世紀に帰ることができるのだろうか?
その前に、最前線にいる僕らは、先ほど墜落していったソ連機パイロットと同じ結末を迎えるんじゃないだろうか?
そんな考えを口にしようとした時に、快斗が沈黙を破った。
「颯真、やるべき事はひとつしかない」
「……何だよ、快斗」
「生き残れ、どんな手を使ってでも」
「どんな、手を使ってでも……?」
「そうだ」
快斗は、確信に満ちた顔をしていた。
「俺たちは21世紀で文字通りお花畑に生きてきた高校生だ……自分で言うのもナンだがな。無力な俺たちが、戦争とかいうマジで理不尽な現実を付きつきられて出来ることなんて、ひとつしかねぇだろが。生き残るんだよ。どんな手を使ってでも……敵を殺すことになってもな」
「殺すって……どうやって?」
「あるだろう?俺たちには、武器がさ」
そう言って快斗は、クイと顎を駐機場の方へ向ける。
そこには、夕陽に照らされる九六艦戦の姿があった。
「……堕とせって言うのか?敵機を」
「そうだ。やられなければ、やられるからな」
躊躇のない目をしていた。
そう言えば彼は、先の戦闘で積極的に敵機に銃撃を加えていた。
結果的に快斗と僕は敵機を撃墜してはいなかったが、敵弾を避けるのに必死だった僕とは違い、快斗はこの戦争という現実を受け入れて、7.7ミリ機銃の発射レバーに手をかけていたのである。
僕らはまだ、殺人を犯してはいない。
今は、まだ。
けれどこの先、自分を殺そうとする無数の敵に襲われた時、僕は敵機を、人間を撃てるのだろうか?
今日の空戦では、墜落した2人のソ連軍パイロットが命を落とした。彼らは、僕や快斗を殺そうと襲いかかってきた相手だ。それを仕留めたのは仲間の搭乗員によるものだが、これからも出撃を命ぜられれば、いつかは自分達も敵機を撃墜しなければならなくなるのだろう。
けど僕にはまだその覚悟は無かった。これまでずっと殺人は絶対悪だと教わってきたのに、18歳になって突然「人を殺せ」と言われて思考を切り替える事などできるはずも無かった。
しかし、やらなければ、やられるぞと、彼は言った。
彼は、なぜこうも簡単に現実を受け入れることができるのだろうか?僕とは対照的に。
(僕には、無理だよ)
声には出さず、僕はただ快斗の言葉に頷くだけだった。




