第6話 迎撃戦闘
*上敷香上空 高度1000メートル*
敷香基地のある敷香郡はソ連との国境にある。
国境の向こうには推定4万人のソ連軍が北樺太に駐留しており、度々越境して日本領へ侵入していた。
対する日本側は陸軍の樺太混成旅団が樺太防衛の主戦力であり、その総兵力は1万5千人ほど。このうち約4000人を中核とする歩兵第125連隊が国境の防衛陣地、古屯要塞に詰めてソ連軍と対峙していた。古屯は僕らの敷香基地の更に北方にあり、このまま北方へ飛行を続ければ最前線の友軍陣地が見えてくるはずだ。
──兵隊の数だけ比べてみても、4万人対1万5千人と大きな戦力差がある。これに加え、敵は我が方の十倍以上の火砲と戦車を有しているのだという。
これ、本気でソ連軍が侵攻してきたら防ぎきれないんじゃないかと思うけど……いや、考えるのはよそう。
地上で戦う陸軍さんには絶対に負けないでもらいたい。
切実に。
そうでないと、国境に最も近い航空基地である敷香基地は4万人の敵兵に蹂躙されることになるんだ。
それだけは避けたいものだ。
切実に。
そんな事を考えながら、ふと、眼下の小さな町に目をやる。
そこには上敷香の町があった。
今は戦争の影響で多くの人口が郡外へ流出してしまっているが、日ソ事変の直前には敷香郡全体で約4万人の邦人がいたという。敷香群の面積も広大であり、日本の群としては最大の面積があるという。
郡内には敷香町と泊岸村、内路村の1町2村があり、僕たちの敷香基地は敷香町の北部・上敷香の近くにあった。上敷香の住人の多くは戦争が始まってすぐに疎開していたが、未だ数百人の住人がいるという。
彼ら、彼女らを敵の攻撃から守るのもまた、僕らの仕事であった──。
前方に目線を戻すと、先行して離陸した基地航空隊の2個小隊6機が敵爆撃機を攻撃していた。
敵の爆撃機はSB爆撃機というものだ。この機体は双発機、すなわちエンジンを2基搭載した機体だ。双発機はエンジン1つの単発機に比べてより多くの爆弾や銃火器を積み、より高速で、より長い距離を飛行するのに向いてた。
そんな双発爆撃機の中でもSB爆撃機は群を抜いて早く、逃げに徹されるときわめて捕捉が困難だった。SBを追撃する6機はいずれも熟練搭乗員の機体であったが、背後を付いていくのがやっとで、有効な打撃を与えているようには見えなかった。
ふと、左前方の五十嵐機を見ると、僕に対してハンドサインを送ってきていた。「2時上方4000mに敵機多数、迎撃する」と言っている。敬礼してこれに答えると、2時の方向を凝視する。見ると、10粒ほどの黒点が先行する友軍機に向けて襲い掛かろうとしていた。
「アブか!?」
アブとは、僕らの基地の面子が敵の主力戦闘機、I-16戦闘機につけた蔑称だ。前方の黒点の正体である。そのズングリした見た目からは想像できないほど素早く飛び回り、高い攻撃力を持つことから「アブのように厄介な相手」だとして、この呼び名が付けられた。
友軍機に向けて降下するI-16はぐんぐん速度を上げる。このままだとSBの追撃に夢中の九六艦戦は上から被られて一方的な奇襲を受けて撃墜される──僕は「避けろ!」と心中で叫んだ。
だがそれは杞憂に終わった。彼らは接近するI-16の存在に気付いたようで、SBの追撃を諦めて散開し、I-16の攻撃を躱す。
そしてたちまちの内に、日ソ両軍機が入り乱れる混戦となった。
「さすが先輩達……」
10対6と数的に劣勢ながら、先輩たちの乗る友軍機は敵機と互角の戦いをしていた。敵機の射撃をひらひらと回避し、他の友軍機を援護するため、果敢に攻撃を仕掛ける。それはさながら編隊空戦のお手本であった。
空戦に見とれているうちに、僕たちは戦闘空域に近づいていた。五十嵐機は若干機首を下げて降下し、続いて緩やかに左へ旋回した。針路から言って、どうやら6機のI-16の編隊に攻撃を仕掛けるらしい。奴らは6機で3機の友軍機を追い回していた。苦戦している味方の援護をするようだ。
(また戦闘か……嫌だな。それもI-16が相手かよ)
I-16は先日の初陣で実際に戦っており、その火力の恐ろしさは骨身に染みて理解していた。僕らの乗る九六艦戦が2丁の7.7mm機銃を装備しているのに対し、I-16は同格の7.62mm機銃を4丁も装備していた。単純計算で2倍の火力を有しているのだ。
おまけに敵の機銃は発射レート──すなわち弾の発射間隔が極めて短いという特徴がある。そうなると、一瞬でも敵機銃の射線上に自機が入り込むと大量の敵弾を浴びる羽目になるのだ。つい先日の戦闘でも、僕は危うくこの機銃にミンチにされるところだった。
(くそっ、絶対に生きて帰ってやるからな……!)
左後方から付いてくる快斗の機と、敵機の集団を交互に見ながらそう決意する。幸い6機のI-16は3機の九六艦戦に気を取られているようでこちらに気づいていない。このまま接近できれば、こちらが敵機の背後を取ることが出来る。
戦闘機同士の空中戦というのは古今東西、敵機の背後を取ったほうが有利になるものである。戦闘機は基本的に正面にしか射撃することができない。敵機に背後を取られたら一方的に攻撃を受けることになるし、逆に敵機の背後を取れば自機が一方的に攻撃を仕掛けられる。
そのため戦闘機同士の戦いは「いかに敵の背後を取り、自機の背後を取られないか」が肝要となる。空中戦闘機動と呼ばれる空戦の基本動作は、まさにこの点に重点を置いて進化を遂げてきた。
敵も味方も相手の背後を奪い合う空中戦の姿は、さながら2匹の犬が互いの尻尾を追いかけて戦う姿を連想させることから「ドッグ・ファイト」と呼ばれている。日本語では「格闘戦」や「巴戦」とも呼ばれる。
前方の敵味方入乱れる空中戦は、まさにドッグ・ファイトであった。
(……気づかれたか!)
敵機までおよそ1000m、九六艦戦の有効射程距離に入る直前、3機のI-16が散開してこちらへ向かってきた。奇襲は失敗したようである。
敵機のうちの1機が、まだ距離があるにも関わらず僕に対して射撃してきた。この遠距離からの射撃では的に命中させることは困難だと敵機も理解しているはずだ。これは僕に針路変更を強要させるための牽制射撃だろう。命中させる気はないはず……と、頭では理解していても怖いものは怖い。何しろ口紅みたいなサイズの金属塊が超音速で飛んでくるのである。敵の火箭が機体を掠めた途端、思わず操縦桿を引いて回避した。
だが3秒後、この回避機動が却って命取りになると思い知ることになる。
「しまった!」
敵機は僕が回避するのを見越していたようだ。先ほど僕を攻撃した機の後ろから別のI-16が現れ、無防備に翼面を晒した僕の機体目掛けて突っ込んで来る!
飛行機というのは操縦桿を動かして大きく機動すると速度が落ち、機動するために必要なエネルギーを失う。1機目の攻撃で僕に回避を強いたのは、速度を落とした僕に2機目がトドメを刺すためだったか──。
敵機のこうした連携動作は極めて教本的な動作であり、訓練で散々教え込まれたはずであった。しかし訓練の時と実戦では、敵の速さも攻撃のタイミングも全く異なる。何より相手がどんな手を使うのかを訓練の時はある程度予想することができるが、実戦はそうではなかった。
(くうっ!)
このまま後悔して死ぬ分けにはいかなかった。まだ2機目の攻撃を躱せなくなったと決まったわけじゃない。イチかバチか、僕は右のフットペダルを踏みこんで操縦桿を右手前に引き、円を描くように機動した。
この機動は、その軌跡から樽の内側を飛行しているように見えることから「バレルロール」と呼ばれる。バレルロールは敵の攻撃を回避したり、敵機の背後について攻撃するため空戦中で多様される空中戦闘機動の一つだ。このバレルロールをやると大きく針路が変わるため、攻撃しようとする敵機からは非常に狙いを定めにくくなる。
一方で大きく機動するということは速度エネルギーの消耗も激しく、九六艦戦のように低速度でも自在に機動できる機体でやらないと簡単に失速・墜落してしまう。既に一度目の回避機動で多少なりともエネルギーを失った自機が立て続けにやるには、やや難易度の高い機動だと言えよう。
それでも、何とか敵弾の回避に成功したようだった。バレルロールの直後、先ほど僕のいた空間に敵機の銃弾がバラまかれた。あと一瞬遅かったら、今度こそ僕はミンチになっていただろう──。
僕を撃墜する機会を逃したI-16が、そのまま僕の頭上を飛び去っていった。その機影を目で追いながら、僕はまたも「殺す気か!」と言い放った。
その直後、まるでこの動きを予期していたかのように五十嵐機が右急旋回で敵機の後方にピタリと付けた。そして至近距離から7.7mm弾を食らわせ、あっという間に1機のI-16が火達磨になって落ちていった──。
五十嵐機に続く快斗機ももう1機のI-16目掛けて攻撃を仕掛ける。快斗は訓練時からやたら射撃が上手く、有効打こそ与えられていないが明らかに敵機に弾を命中させることに成功していた。
しかし敵機もやられてばかりではなく、シザースという機動で快斗の射撃を躱し続ける。シザースは、左右に翼を振って蛇行飛行を続けるというものだ。敵味方2機の飛行機がこれを行うと、その軌跡がハサミのように見えることからそう名付けられている。相手の機体を前方に押し出し、背後を奪うために行わる空中戦闘機動であり、あのI-16のように敵の銃撃を躱すのにも使える機動だ。
しばらくシザース機動を続けていた両機は、シザースの軌跡をらせん状にねじったローリング・シザースに移行する。これも空中戦で多様される機動であり、シザースを続けていると、いつの間にかローリング・シザースに移行していることが多いという。快斗機と敵機は、互いの背後を取ろうと必死に機動するが決着がつかず、最終的に五十嵐機が加勢したことで敵機は不利を悟り、急降下で離脱していく。
そしてもう1機いたはずのI-16だが──いつの間にか集まってきていた先輩たちの機体に囲まれて撃墜されたらしく、地上から一筋の黒煙を噴き上げ、その骸を晒していた。
その他の敵機も北の空に逃走していったようで、迎撃に上がった敷香基地の九六艦戦は、僕たちを含めて9機とも健在だった。
「い……生きてる」
気付けば、飛行服の中は汗でぐっちょり濡れていた。操縦桿を握る手は震えていたし、息があがったまま落ち着く気配が無い。
本気の殺し合いで限界まで張り詰めた緊張感が緩み、心身にとてつもないダメージが加わっていたことに今更気づくことができた。
そうか、これが戦争なんだ──。
眼下には、自分を殺そうとした敵機の残骸。
そして、奴が殺そうとした自分は、生きている。
こんな、こんなにも残酷な命のやり取りが、戦争なのか。
「僕らは一体、何のために、戦争をしているんだ……?歴史を変えようって連中は、何のために……」
何のために、この戦争をやっているんだ───?