プロローグ
ある日、僕は戦場にいた。
こんな表現をすると多くの人は、兵隊が銃撃戦を繰り広げていたり、武将が馬に乗って敵陣に突撃したり、あるいは刀剣で兵士たちが斬り合っているシーンを想像することだろう。
実のところ僕自身も、「戦場」という言葉にはそんなイメージしか無かった。
泥臭くて、血生臭い。
死体が一杯転がってて、大変に不衛生。
屈強で汗だくの男共が敵兵の生首を掲げて「討ち取ったりー!」と叫ぶ。
それが、実際に僕が戦場に赴く前の「戦場」のイメージであった。
ところがどうだ、この「戦場」は。
死体もなければ、屈強な男共の姿はどこにもいない。
それどころか人間の姿もちらほらとしか見えず、馬に乗った武士や、銃や刀剣を手にした兵士の姿は見当たらない。
汗臭くも、血生臭くも何ともないではないか。
それもそのはず、ここは一般的に言う、空中戦とやらが繰り広げられている大空だからだ。
空戦といえば、戦闘機が敵味方に分かれて機銃やミサイルを撃ち合い、ダメージを受けた戦闘機が煙を吐きながら墜落していくアレである。
ゲーム好きの人間ならば、一度くらいはそんな空戦ゲームで遊んだことがあるだろう。
まさしくここでは、そのゲーム画面に似たような光景が繰り広げられていた。
だから空戦の最中に、屈強な男たちや死体の山は見る事ができない。
かわりにこの「戦場」と呼ばれる空域では、対峙する2つの軍の戦闘機が乱舞する姿が見られた。
僕は今、まさにその空域の中にいた。
そうだ、僕は今、戦闘機の操縦桿を握りしめているのだ。
そしてこの空中戦に参加しているのである。
しかしここでちょっと立ち止まって現実のものとして考えてみてほしい。
そもそも空中戦って、そんなに日常的にお目にかかれるものだろうか?
ましてや自分が戦闘機に乗って敵機と交戦するなんてシチュエーション、そうそうあるだろうか?
ひょっとするとここが戦場だなどというのは何かの間違いではなかろうか?
───答えは否である。
「うああああ、へ、うあっ、はああっ、ヤバい!!これヤバすぎでしょ!!死ぬ、死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ」
この情けない声の主は桜木颯真、性別・男(♂)。
西暦20X7年4月15日生まれの牡羊座で血液型はO型、日本生まれの日本育ち、家族構成は共働きの両親と大学生の姉が1人、都立神田中央高校に通う高校3年生18歳、一人称は「僕」……。
うん、間違いない。何かのプロフィール欄に掲載される形式で「僕」自身の自己紹介をすれば、これが「僕」である。
それで?
今、僕がいる時と場所は?
───西暦1938年4月22日 樺太上空約1000メートル。
もう───もういいだろう。
こんな脳内自己紹介と自分が今、置かれている状況を反芻すること2週間、さすがにこうなったら認めざるを得ない。
「夢じゃない!やっぱりこれ、タイムスリップしてる!!」
それも、戦場に。
それも、なぜか一人の軍人として。
21世紀生まれの高校生は、なぜか20世紀前半に、日本海軍の軍人としてタイムスリップしていたのだ。
僕はこの時代に来る直前、確かに高校生活を満喫していたハズである。
あれは、高校生活最後のクラス替えと、新しいクラスメートたちとの初顔合わせがあった直後のことであった。
学友と下校中に、今年も桜はもう終わりか、志望校はもう決まったか、などと話していたことをよーく覚えている。
そして、気がつくと───うん、こうなっていました、と。
「いや、冗談じゃない!死んでたまるか!!」
なぜ僕が死んでたまるかと叫ぶ必要があるかと言えば、端的に言って僕は今、死にかけているからである。
なぜ死にかけているかと言えば、今まさに僕が操縦する戦闘機の背後に敵戦闘機が食らいつき、機銃を乱射してきているからである。
なぜ敵が機銃を乱射してくるかと言えば、僕が敵機にとっての「敵」であり、敵である以上は僕の乗機を撃墜する必要があるからだ。
端的に言って、殺す気マンマンということだ。
───うん、その殺意はどこまでも迷惑だ。
すぐにその強烈な殺意を捨てて欲しい。
頼むから、今すぐ僕への攻撃をやめて欲しい。
攻撃に当たったら死ぬ。
銃弾を食らったら死ぬ。
「テスト勉強してなくて死ぬ~」とかのノリじゃなくて本当に、死ぬ。
やばい、本当に、今まで18年間生きてきた中で今が最高に、やばい。
何でこの時代にタイムスリップしたとか。
何で僕が軍人なのかとか。
気になる事は山ほどあるけれど、今はそれどころじゃない。操縦桿を握りしめ、涙目になりながらも敵の攻撃を回避し続けた。
そして自分の境遇を呪い、自分を殺そうとする敵を呪い、神羅万象を呪わんとする威勢で、馬鹿みたいに青い大空に、ありったけの声を振り絞って自らの決意を叫んでみせた。
「絶対、生きて……」
───21世紀に帰ってやる!
これは時空を超え、理想の為に結末を変えようとした、戦後生まれの人間による、大戦の物語である。