白い部屋
解離性同一性障害。別名、多重人格。
ありえない話だろうと思うかもしれないが、私はその病気だ。
私の心には白い部屋がある。
心というものがどこにあるのか聞かれても答えられないが、目をつぶればその部屋に行ける。
ただの厨二病のように見えても仕方ない。心に白い部屋なんて存在するはずがないのだから。だけどその部屋は確かに存在する。出口はなく、正方形の真っ白な部屋。簡単に出入りできて、疲れたときや泣いてしまった日は、その部屋でひとり過ごした。目を開ければ、眠りから覚めるように部屋から出られた。
中学生になるまでは、その部屋には私ひとりだけだった。私はいじめられていた。靴の中に画鋲を入れられ、自転車のタイヤをパンクさせられた。教科書は破られ、筆箱は便器の中に入れられた。誰がやったのかは分からなかった。その恐怖の中、学校に行き、笑って過ごした。
いつの間にか、その部屋には赤ちゃんがたくさんいた。私が部屋に行くと、彼らはいつも泣いていた。なぜこの部屋に赤ちゃんがいるのか、不思議で仕方なかった。それから私は、学校に疲れ、行きたくなくなり、その部屋に居座るようになった。
私は、白い部屋にいる間は周りから見れば眠っているのだと思っていた。
けれど赤ちゃんが現れてからは変わった。普通に起きたつもりなのに、時計は昼を回っていて、親が起こしても反応がなく、意味の分からない言葉を発していたという。
すぐに分かった。私が部屋にいる間、代わりに赤ちゃんが私をやっているのだと。私として、赤ちゃんが生きてくれているのだと。
高校に入り、いじめはなくなるかと思った。だが何も変わらなかった。階段下で倒れている私が見つかった頃、私は自分の記憶を無くしていた。
ありもしない話だと思うだろうか。私自身も、そんなことあるはずがないと思っている。だが記憶がないことを、仲の良い友達に「自作自演だ」と言われたとき、全てが崩れた。
いつの間にか、白い部屋の赤ちゃんは皆、大人になっていた。五歳くらいの男の子、同級生くらいの女の子、おじいさん、そしてすぐに暴れる男の人。怖くはなかった。皆、私のことを考えてくれていた。信用できる人がいなくて、ずっと独りで考えていた私にとって、目をつむって部屋に行けば皆が私を肯定してくれる。感じたことのない幸せだった。この人たちなら信じてもいいとそう思って、気を緩めた。
それは間違いだった。
私がひとりでいたあの部屋は、嘘をついたり我慢しただけ人が増えた。どれだけきつくて苦しくても笑顔を見せる。そのたびに、あの部屋には赤ちゃんが生まれた。皆、私を守ってくれている。きっとそうなのだろう。私のストレスを溜め込まないように、私が部屋に行くと誰かが代わりにストレスを受け止めてくれた。嫌なことから目を背け、休むことができた。
けれど「怒り」その感情が外へ出てしまった。
私は休めると思い込んでいた。目を覚まし部屋から出たら、腕は血だらけ、家具は投げられ壊れ、壁には穴が空いていた。そいつは部屋から出ることを願っていた。私の代わりに我慢をし、私の代わりに暴れていた。きっと部屋に行かなくても、私自身が同じことをしていただろう。私に罪悪感がないよう、代わりにストレスを発散してくれていたのだと思う。
私は今、その部屋に行くことが怖い。
生活に疲れ、ぐったりしていると、心を取られそうになる。私の代わりに誰かが出てこようとしている。解離性同一性障害、そう診断され、私は「ああ、その通りだ」と思った。きっと、あの部屋に誰かがいることは間違いではない。
自分でストレスのはけ口を作って溜め込まないこと。それができれば、きっとあの部屋には誰も生まれない。そうすれば、昔のようにひとりであの部屋に行って休むことができるだろう。でもそのためには、まずあの部屋に行かずに今いる子たちを消さなければならない。あの部屋に行かない期間が確かにあった。心に余裕があり、全てを話せているのなら、あの部屋に行くことはない。行かなければ、ひとり、またひとりと彼らは消えていく。
きっとそれができて、やっと本来の「人」になれるのだと思う。
私は弱い。誰にも頼らず、結局あの部屋に縋って、他の人格に押し付けてしまう。独りでやろう、そう思えば思うほど、あの部屋は大きくなり、私を飲み込もうとする。片足を引きずり込まれ、誰かが私を乗っ取ろうとする。空気が重くなり、目眩がし、苦しくなる。手足がしびれ、意識が遠のいていく。その瞬間、私は部屋に引きずり込まれ、確かに誰かに変わる。それが、今の私の現状だ。まだ独りではどうにもできない。
ひとりじゃないのなら、きっとあの部屋には行かなくてもよくなると思う。
時に苦しくなり、引きずり込まれそうになることがある。片足を踏み入れたとき、「大丈夫だよ、頑張ったね」と言ってくれる人がいる。その声色は優しく、手を掴んで部屋から引きずり出してくれる。正気に戻してくれる。
ある人が私の頭を撫でてくれたことがある。あの白い部屋に包まれるよりも、ずっと優しく、ずっと暖かかった。初めてだった。誰かにちゃんと頭を撫でられたのは。その温もりに包まれるたび、白い部屋は小さくなっていった。
それでいいのだと思う。
あの部屋から引きずり出してくれる人がいる。それだけで、私は部屋に行かないようにしようと思える。
私はきっと、独りでは生きていけない。
だけど今はそれでもいい。片足を踏みいれた時手を差し伸べてくれる人がいる。ただその事実が私を強くさせる。
いつかは私もそんなふうにひとりでも生きていけるようになりたい。助けてくれるあの人を幸せにできるようになりたいと今はただ強く思う。
その日が来たとき、きっと私はもう、白い部屋の中ではなく、誰かの隣で目を覚ましているだろう。