前へならえ
「ルミちゃんさぁ。これくらいの事、言ったらすぐに終わらせてくれる?」
仕事を終えた週末の帰路、座れない程度に混雑した冷房の効く電車に揺られて今年から上司になった49歳独身男の言葉を思い出す。
高卒入社から6年が経ち、機械メーカーの事務にも慣れて来たのに、コネ入社の厄介男が上司になってしまった。昨年でコネを持っていた重役が退役し、春の人事で早速地方支店である私の職場に速飛ばされてきたらしい。本社としては厄介払いできて満足だろうが、受け入れる支店としてはたまったものではない。そもそも今日の仕事だって2週間前には期限が分かっていたのに、期限前日になって指示されたのだから今日中に終わらせたことをまず褒めてほしい。とはいえ休日目前に汚いおじさんの言葉を思い出しても得はない。「嫌いなものに心のリソースを割く必要はない」とは、院卒同期入社のお姉さまである香沙里の言葉だ。電車の窓から外を眺めて自分と同じように帰路についている人たちを見ると、今が週末の夕方であることを強く感じて休日の自由な時間への期待が高まる。
香沙里とは新人研修以来会っていないが、社内でも主力の海外支店で広報部長をしていると社内報に載っていた。香沙里から新人研修時に勧められたものにはいくつか自分の習慣になったものもあり、正直かなり影響を受けている。慕っている人の活躍とは素直にうれしいものである。毎週末の習慣になった健康施設への寄り道も香沙里に勧められたものの一つだ。新卒で配属先が決まり住居を決めるにあたって決め手となったのが、駅と家の間に健康施設があることだった。
自宅の最寄り駅についたころには、時刻は19時前だった。コインロッカーに入れていた小さめの旅行鞄を受け取り、自宅と同じ方向にある健康施設へ歩を進める。仕事を終えて疲れた身体に西日が刺し、重い熱気がまとわりついて鬱陶しい。ただの平日だったら速足で家まで帰るのだが何と言っても今日は週末である。夕暮れの不快感も休日に羽を伸ばすための助走だと思えば愛おしいものだ。住宅街を歩いて7分ほどでお目当ての健康施設に到着する。先にリフレッシュを済ませ脱力した人たちとすれ違いながら、靴を脱いでシューズ袋に入れる。旅行鞄からサンダルを取り出し下駄箱に入れてカギをかける。施設を出るときすでに身体は洗った後なのだから仕事の汗を吸った靴をもう一度履きたくない。
「いらっしゃいませ、どちらのコースでご利用されますか。」
いつも思うが、今からリフレッシュに向かっていく人たちを出迎える仕事とはどんなモチベーションなのだろう。私なんて職場でたばこ休憩をとっている人を見送るだけでもフラストレーションが溜まるというのに、全く知らない人が自分の職場で疲れを癒しているなんて耐えられない。
「90分コースで、回数券あります。」
30枚綴りの回数券から一枚を切り取って渡す。1回利用するだけなら850円の入場券を買えばいいが、私のように毎週利用するなら30枚で2万円の回数券の方がお得だ。利用期限が1年なのもポイントが高い。
「使い終わったタオルは脱衣所のボックスに入れてください。ごゆっくりどうぞ」
バスタオル1枚とフェイスタオル2枚を受け取り女湯の暖簾をくぐる。浴室から出る蒸気と火照った利用客の熱気で外よりも温度と湿度が高い。畳の偽物みたいな床を進み、空いたロッカーを探す。女性しかいないとはいえ、服を脱いでいる所を見られるのは抵抗があるのでできるだけ陰になる場所を探す。脱衣所だけで10人程度の客がおり客層は様々、一日中ここに居るのではないかと思うおばあちゃんや小さい子連れのお母さんなんかが利用している。私と同じくらいの女性もいくらか見受けられる。手ごろなロッカーはすぐに見つかった。
ロッカーに鞄を入れてファスナーを開ける。外を歩ける程度に洒落たスウェットを鞄からロッカーの網棚に置き、服のボタンを外す。下着を脱いで鞄に入れその上から服を入れていく。仕事着を脱ぐとストレスから心を守る自分の殻のロックが一つ一つ外れている気がする。
浴室へ入ると他の人の目が、自分に向いている気がしてくる。お世辞にもスタイルがいいとは言えない肉のついた腹をみんなが見ている気がしてしまう。前に香沙里にこのことを話した時は、「案外他の人は自分を見ていない。」と言われたが引き締まってスレンダーな身体の女性に言われても、あなたはそうでしょうよとしか言えなかった。とはいえそんな劣等感もメイクを落として体を洗ってしまえば、自分の殻のロックと共に外れてしまう。髪を洗って少し水気を取り、45度と少し熱めの薬膳湯に身を沈める。事務仕事で動いていなかった脚の細胞が大きく脈動するように動き始める。心臓が全身に血液を送り、先々で暖められた血液がまた心臓へ戻ってくる。別に疲れが溶け出す訳でもないし、デカデカと書かれた温泉の効能を信じているわけでもないが、さっきまで確かに私の身体にへばり付いていた硬くて重い不快感がホロホロと崩れていくのを感じる。
「あぁあ~あぁ」
我ながら年寄りくさい声だとは思うが、この声を出すと腹に溜まった不快感も外に出ていく気がする。
身体と腹の不快感を壊しながら、今日の仕事を振り返る。今日やり切りたかった仕事は終われたし、突然沸いた厄介上司からの仕事も残業30分で片付けられた。日本の事務仕事に明確な評価項目なんて無いだろうが、今日の私はA評価だと思う。厄介上司に言われた言葉だって、支店の他の従業員が聞いていれば私の味方をしてくれるはずだ。まぁ頭で振り払っても心には魚の小骨のように残っているのだが。
湯船で仕事の振り返りをして大体10分。身体が適度に温まりメインイベントへの準備ができた。ウォータークーラーで10口ほど水を飲み、濡れたタオルを絞ってサウナの扉を開ける。乾いた熱気が顔に当たり、反射的に目を閉じる。3段あるうちの一番上に腰かけて、タオルを頭にのせる。今この時が私の週末のスタート地点である。
新人研修時に香沙里から教えてもらったのはサウナだった。温冷の刺激により副交感神経を優位にすることでリラックス効果を得られるサウナは、私が香沙里に勧められたものの中でもトップ3に入るやってよかった事である。サウナでリラックス効果を得ることを「ととのう」と呼ぶが、私ができたのは香沙里に2回目に連れられた時だった。今では1,2回サウナと水風呂に入れば「ととのう」ことができるので、一週間の疲れを癒すために毎週末サウナに入っている。
サウナの中は備え付けのテレビの音くらいしかしないため、目を閉じて座っていれば入ってくる情報を絞ることができる。普段の生活で自分に入ってくる情報は思っているよりずっと多い。仕事であればパソコン画面の文字や光、メールの通知に、電話の着信、雑談の声や上司の悪態。休憩中にSNSを見れば、批判的な言葉や利己的な主張、中身のないネットニュースに不快な広告。サウナの中にそれらは無く、地域のお店を紹介するアナウンサーの声が遥か遠くに聞こえるだけ。瞼の裏の闇が、沸き上がる不快な記憶を飲み込んで身体の熱で溶かしていく。
「あつぃ」
入って5分、小さく声がこぼれる。代謝によって生じた熱は、普段なら体表から放熱され身体の温度を一定に保とうとする。熱い。しかし高温密室の環境下では汗をかいても放熱が追い付かず、代謝によって生じた熱は行き場を失い、血液に乗って全身を巡る。あつい。血液によって温められた細胞がその熱を隣の細胞に押し付ける。茹だる。身体の中で熱を逃がそうにも、代謝によって細胞自身も発熱していく。アツい。あふれ出す体内の熱が行き場を失って暴れる。熱い。暴れた熱が隣の熱を刺激する。熱い。細胞たちが熱を抱えてのたうつ。あつい。熱同士がぶつかり乱れる。アツい。熱が、巡る。アツい熱いあつい熱い暑い。
身体を駆け巡る熱の行方に思考を向けていると気づけばサウナ入室から10分が経っていた。
タオルを持って立ち上がる。扉を2つ押し開けて桶で水をかけ汗を流し、慎重に素早く水風呂に身体を沈める。茹だった体表が冷気で締まる。皮膚の熱が冷えて固まり、落ち着きを取り戻す。暴れる熱たちが外から順に大人しくなっていく。
冷静になった細胞は隣の細胞から熱を奪い、外の水風呂へ押し付ける。体感で体表1センチの熱を押し付けきったら、水風呂から出て露天風呂のチェアに座り外気浴をはじめる。
水風呂では急激に熱を外へ押し付けた。外気浴では、まだ身体の中心で暴れている熱を、溶かしてほどいて身体中に馴染ませる。
気分がいい。身体の内側で暴れて無秩序になっていた熱が、外気によって整列していく。
サウナでの熱代謝を「ととのう」と言い始めた人は誰だったのだろう。乱れて暴れる身体の熱が、徐々に秩序を取り戻してく様はまさしく熱の整列であり、整うという表現がしっくりくる。
「ふうぅ」
独特の浮遊感と脱力感で声が漏れる。サウナや「ととのう」の説明では、この流れを何度か繰り返すと深くリラックスできるというが、私は1度で十分深いリラックスができる。身体が冷めてしまう前に露天風呂の湯船に身体を沈める。週末の疲れがサウナの熱で壊れてお湯に溶け出していく。
不思議なものである。ここに来るまで自分は、今日あった不快な出来事を頭の中で常に巡らせていた。腹から湧いて喉元まで沸き上がった感情は、私の社会性によって言葉になれずに押し込められた。そうして行き場を無くした感情は暴れるように頭の中を巡っていたのに、サウナと水風呂に入った程度で私の中でどうでもいいことになっていた。
湯船から出て内湯に戻り、シャワーで身体洗う。タオルで身体を拭いてロッカー前に戻り旅行鞄から外出できる程度のスウェットを取り出す。スウェットを着ると無防備だった身体が柔らかく社会性を纏う気がする。裸で知らない人と話すことはできないが、スウェットを着ただけで多少話せるようになる。脱衣所の時計は20時半を指していた。
「ありがとうございました。」
「はーい。ありがとうございましたー。」
カウンター横の冷蔵庫で冷えていたビールを買い、サンダルを履いて外にでる。日の落ちた住宅街で目立たないようにビールを飲みながら家に向かう。道路には同じく家に向かう人たちがうっすら列になって連なっている。小学校以来、列になって歩く機会なんて無くなったと思っていたが、どうやら今でも私は列の中の一人らしい。
「前へ、ならえ。」
思ったより大きな音を出したその言葉に、列の数人がこちらを見る。普段なら気まずくなるが、サウナ後に休日を控えた私は気が大きくなっている。
「前へ、倣え。」
倣えていないことを棚に上げて、もう一度つぶやく。
今日はもう整列したくない気分なのだ。