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なんで働かないといけないの?

 働きたくない。そう思いつつも働かねば生きていけぬと就職し、朝から晩まで会社の管理下でなんやかんやとやっていたが、やはり10年ほど働いてみても働きたくない。とにかく面倒くさい。やりたくない。ゲームしたい。家に帰りたい。寝たい。


 そろそろ若いとも言えない年齢に差し掛かったが、気持ちは変わらず新卒のままである。多少はやらなければならないからやるしかないとも思えるようになったが、そんな思いは金のない頃も抱いていたから一緒である。それとも、やりたくもない仕事と効率的とも思えない社風に我慢することが働くということなのだろうか。


 そもそも「働く」とは何だろう。

 会社に行くことだろうか。8時間職場にいることだろうか。それとも、上司に言われたことを淡々とこなすことだろうか。

 誤解を恐れず身も蓋もない言い方をするならば、現代の働くとは職場の席を埋めるために顔を出すことだ。職場に行って、8時間自分の机で何かしらの作業をする。しない時間もある。早めに終わることもある。それでも帰ることはせず、終業時間までただそこに居続けることだ。利益を生むとは到底思えない業務をやれと言われればやり、やらなくていいと言われれば必要と思える業務もやらなくていい。そうやってやり過ごして、毎月決まった日に決まった給料をもらう。それが現代における「働く」という言葉の意味だ。


 だけど、それが本当に「働く」ということなのかは疑問である。資本主義社会であり、企業に就職するのが当たり前になった現代においては決して嘘とは言い切れない側面がある。だが、それによって「働く」という言葉が本来持っていた意味を見失っているように思う。先に述べた内容を振り返り、大まかに要件を整理してみよう。

「働く」とは、

①出勤する

②職場に所定の時間い続ける

③給料をもらう

 ということだ。この時点で突っ込みどころ満載ではあるが、あながち間違ってもいないはずだ。その証拠に、定年を迎え嘱託になりながらも出勤し、事務所の隅で朝から晩までネットサーフィンに興じる人間や、大して頼める仕事がなく仕方なしに野放しにされている人間にも給料は払われ続けている。そう考えれば、資本主義において彼らは「働いている」。しかし、やはり従来の言葉の意味からは乖離している部分があるように思う。


 仮に①~③の内容が正しいのならば、会社に所属していない人は働いていないことになり個人事業主の存在を否定することになる。また、遥か昔の狩猟時代の生き方のような、生活の糧を手に入れられるかどうかが労働時間に依存しない人々も働いていないことになる。給料が出ないという点では専業主婦(ここでいう専業主婦は家事をする人という意味)も同様で、それらを根拠に先の定義に照らし合わせれば「働いていない」ことになってしまう。


 無論、そんなことはあり得ない。どんな時代、どんな働き方であれ人類は働いてきた。今の時代でも、例えば自分たちの食べる分を自分たちで作る自給農といった人たちは、出勤したり事務所に滞在したりすることなく食料を得るために働いているし、地域自治体の溝掃除といった仕事も生きるために必要である。つまり、出勤するかどうかや、会社にいるかどうか、ましてや給料をもらうかどうかなどは「働く」の定義としてはあまりに不足している。

 ならば、ここで一度「働く」を再定義、あるいは本来の意味を再確認する必要があるだろう。


 再定義に当たって、とりあえず辞書を調べてみると「仕事をする・労働をする」というものが出てきた。会社に行ってどうのこうのと比べると近い気はするがまだ抽象的だ。ここは一旦「働く」に分類されるであろう内容を挙げていき、それらの共通点から再定義を行うことにする。何が「働く」に分類されるかの基準については、辞書に記載されていた「労働をする」という視点から行うのが自給農や専業主婦の「働く」にも合致しているため都合がいいだろう。


 以上から、「働く」の新しい定義とは、

①個人事業主

②自給農

③狩猟時代の人々

④専業主婦

⑤地域の溝掃除

 に共通するものとなる。


 個人事業主から考えるとやはりお金を稼ぐことが必要かと思うが、それは②~⑤で否定される。自給農は言ってしまえば現物支給がベースとなるし、専業主婦はそれが生活を成り立たせることが成果物となる。地域の溝掃除についても、賃金が発生するケースを聞いたことがない。どこかの自治体ではあるのかもしれない。知っていたらご教授願いたい。


 また、職場にい続けることが必要かと言えば、それは①~⑤全てで否定される。ここで言う「い続ける」とは利益になる行為をするでもなく、ただ所定の席に座り続けることを指す。当然のことながら、個人事業主は儲けの出る行為をしなければどれだけ名刺を配っても意味はないし、何時間歩き回ったところで獲物が獲れなければ狩猟時代の人間が食べていくことはできない。


 お金でもなく職場の自席を埋めるでもない――すなわち既存の「働く」の要件を満たさない働き方をしていることになるが、ならば①~⑤の人々は何を目的に働いてるのかというと、これが見事に多様性に溢れている。お金であり、米であり、野菜であり、肉であり、生活であり、インフラである。あまり似通っているようには思えない。


 レパートリーに富んだこれらの共通点を見つけるために、逆の操作を行ってみよう。それぞれがしている「働き」をしなければどうなるか。分かりやすいのは個人事業主。お金が手に入らなくなり、生活が成り立たなくなる。これはサラリーマンと大差ない。ならば専業主婦と溝掃除がなくなればどうなるか。家が荒れ、道に排水が流れ出る。これも生活が成り立たなくなる。同じ結論である。


 働いて得ているものが違っても、それを失った時に辿り着く場所が同じであれば、根本的な部分において両者は結局同じことをしている。お金を稼ぐことも、家事をこなすことも、インフラを整えることも、全ては「生活を成り立たせるために」やっている。

 つまり、「働く」とは「生活を成り立たせる」ことである。


 新しい定義で世界を見ると、会社で仕事をすることは納得できるようになった。生きるためにお金が必要だから、それを稼ぐために会社にいる。不思議はない。これにてなんで働かないといけないのか、その問いには答えることが出来たと思う。だけど、その代わりに面倒な思いがムクムクと湧き出てきた。


 お金を稼ぐだけで生活は成り立つのか?

 成り立つとして、お金が無くなったらどうするのか?

 働きたくないという思いは消えていなくないか?

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