49-6 クリシュナの苦難。②
午後。
クリシュナは、皇帝陛下の執務室に移動していた。
皇帝陛下は、のんびりと過ごしていた。
最近は一部の政務以外、クリシュナに任せていた。
ゆっくりと過ごす機会が多かったのだ。
クリシュナはソファに座る。
皇帝陛下は、椅子に座したままだ。
「ふむ、何かあったな?」
相変わらずの慧眼である。
さすがは、皇帝陛下である。
「わかりますか?
朗報です。
トリニアとレヴィが懐妊しました。
来年の秋には出産予定です。」
「ほぉ、そうか。
それは、嬉しい知らせだ。」
皇帝陛下は嬉しそうに笑う。
待望の孫の姿を拝めるのだ。
嬉しくないわけがない。
「・・・父上、私は今日、トリニアに叱られました。
子供ができたと聞いた時、私は混乱してしまったのです。
喜んでいいのかどうか、その時わからなかったのです。
だが、トリニアの言葉で目が覚めました。
子供を得た母親は、強いですね。」
「そうか・・・そのようなことがあったのか。
もし、クリシュナの母親が存命であれば、
素直に喜んでいたのかもしれないな。」
皇帝陛下はそう述べる。
実は、クリシュナは母親の顔を知らない。
いや、知っているのだが、それは絵画で見た、自画像のみである。
実際にあいまみえた記憶はないのだ。
それもそのはずだ。
クリシュナが2歳の時、母親は病死しているからだ。
生前の母親の顔を知るわけがないのだ。
それ以降、乳母に育てられた。
だから、母親の愛情を知らずに育ったのだ。
「母が、何か関係があると?」
「うむ。
もし、母親の愛情があれば、クリシュナも子ができた瞬間、
大喜びしたであろうと思ったのだ。
だが、妻は長く生きることはできなかった。
それが、残念でならないことだ。」
「父上・・・」
「クリシュナよ、これは戯言として聞いてくれ。
昔、余が20歳の時だ。
余が、皇帝に即位した時だ。
余に最初の正妻がいたのだ。
だが、彼女との間に、子供は生まれなかった。
側室もいたのだがな、子は生まれなかった。
彼女は悔やんでおった。
子を産めぬ苦しさを、いつも余に訴えていた。
そのたび、余は彼女を抱きしめ、慰めていた。
だが、彼女は、子を産むことなく、20代半ばで亡くなった。
余は、あの時ほど、寂しい気持ちはなかった。」
皇帝陛下は一旦言葉を切ると、息を吸って、言葉を続ける。
「そして、余が30代の時、2人目の正妻を迎えた。
クリシュナ、おまえの母親だ。
彼女も、当初は子がなかなかできなくてな、泣いておった。
余は、自分の不幸を呪ったものだ。
最初の妻にも子ができなかったのは、自分のせいではないかと。
だが、神というものはいるのだな。
ようやく、懐妊したのだ。
余は既に30代半ばだった。
余は、とても嬉しかったのを覚えている。
妻とともに、とても喜んだよ。
あの時は、本当に、本当に喜んだものだ。
そして、クリシュナ、おまえが生まれた。
余は、おまえが生まれた時、思わず泣いたものだ。
嬉しくてな。
だが、妻は、体を壊してしまった。
長く生きることができなくて、ごめんなさいと呟いておった。
余は、彼女を慰めることしかできなかった。
その後、彼女は亡くなった。
余は、彼女に感謝した。
クリシュナを産んでくれたことに。
そして、余のために、子を残してくれたことに。」
皇帝陛下は、いつの間にか涙を流していた。
その涙を拭きとり、言葉を続ける。
「その後、不思議なことに、側室たちも懐妊した。
驚くべきことだった。
きっと、彼女が加護をくれたのだろう。
だが、余の妻たちは短命だった。
子を産んだ後、皆亡くなってしまった。
余は、側室であれ、愛した女性だ。
大切にしていた。
だから、亡くなった時は、非常に悲しかった。
だが、それを表に見せることはしなかった。
余は皇帝だからな。
だから、彼女たちに感謝している。
子供たちは、元気に育ったと、彼女たちに感謝しておるよ。」
皇帝陛下には現在、正妻や側室は一人もいない。
皆、皇帝陛下が40代の時に、若くして亡くなっていた。
アリシアの母親も同様である。
そして、皇帝は、クリシュナに向き直る。
「クリシュナよ。
妻は大切にせよ。
そして、生まれてくる子を愛してあげよ。
そして喜ぶのだ。
それだけでいい。
子は宝なのだからな。」
「・・・はい、わかりました。
ありがとうございます、父上。」
クリシュナは、ほんの少しだが、父親の本音を知ることができた。
この人は、妻を本気で愛していた。
それは、正妻であれ側室であれ、関係なくだ。
そして、その彼女たちが先に逝ってしまったことに悲しんでいるのだ。
だが、それを表には見せない。
皇帝陛下だから、弱みを見せるわけにはいかないのだ。
強い男であった。
クリシュナは、改めて、皇帝陛下を尊敬するのであった。
こうして、クリシュナの苦悩は晴れ、妻と子を愛することに全力を注ぐのだった。