9 『詭弁と利器は使いよう』
階段を下りて二階の渡り廊下を抜けると、音楽室やコンピュータ室といった特別教室が八割を占める旧校舎に辿り着く。旧校舎は三階建てで、目的地は三階の隅にあるから一見遠回りしているように思えるかもしれないが、三階に渡り廊下がない以上、このルートが最短と言える。これから毎日この道を通らないといけないのかと思うとメランコリーになるが、元を辿れば自業自得だ。まったく過去をやり直したいもんだね。
生徒会室、コンピュータ室、文芸部の部室を通り抜ければ目的地到着だ。
「ここが俺の修練場だ」
「ただの教室に見えますが」
膝を打つなんてオーバーリアクションを見せることもなく、ゆかりは起伏のない声で感想を漏らした。まあ無理もない。実際、な~んの変哲もない教室だしな。
外装はだけど。
「ま、とりあえず中に入ってよ。そうすれば印象も変わるはずだからさ」
努めて温かな声で言うが、ゆかりの瞳から疑念の色は消えない。
不満げな顔つきのままドアに手を掛け、
「ではお邪魔しま……っ!」
部屋の内装を目にするなり、偶然ブラジルに到達したカブラルのように筆舌に尽くしがたい衝撃を覚えたようだった。
当然の反応だ。なぜならこの部屋は、
「なん……ですかこの部屋は」
姉貴の手によってオタ部屋に魔改造されているのだから。
俺が昼間ゲーム機を設置していたら段ボール箱を抱えた姉貴がやってきて、聞けば置き場に困っていたのだという。ならば隅に置いて解決――とは行かず、姉貴は自分の小遣いを費やしたグッズの数々がゴミ同然に扱われることに我慢がならなかったようで、なら少しだけと情けをかけたのが運の尽きだった。ビフォーの欠片もないほどにアフターされた教室には、タペストリーだのポスターだのが無数にあしらわれていて、そこにかつての影は少しもない。気づいた時には、勉学の場にまるで似つかわしい魔境の地が創造されていた。
茫然と立ち尽くすゆかりの背を押してドアを閉める。教員に見られようものなら色々と面倒なことになりそうだ。主犯は生徒会長だが。
「ようこそ秘境の楽園へ」
中二病の奴らは一様に闇を好む傾向にあり、当然中二病末期患者によって作られたこの部屋にもその傾向は色濃く滲んでいるわけで、だからだろう、闇色のシースルーカーテンの裏に妹がいることに今の今まで気づかなかった。
「なんで電気点けないんだよ」
言いながら電源スイッチを押す。廊下の仄かな光でしか見えなかった内装が明るみになって、ゆかりはますます驚きを露わにする。
天はふふと不敵な笑い声を上げると、
「決まってるじゃないですか。暗闇がカッコいいからですよ」
さてはお前、既に姉貴に毒されてるな? 危険な匂いがプンプンする発言だった。
やがてゆかりはハッとなにかに勘づいたような顔をして、
「た、謀りましたね⁉」
「どうしてそうなった」
「密室にわたしを閉じ込めて、二人がかりで言いくるめようという計略が丸見えです!」
びしっと指を差してくる。
それも悪くない案だ。だが生憎、俺はそんな鬼畜じゃないんでね。何事も穏便に済ませたいと思っている。
「安心しろ。俺にSMプレイの趣味はない。それよか、インフェルノの修行メニューが知りたいんだろ?」
ゆかりは心底呆れたようにため息をついた。
「神はどうしてこのような出不精に才を与えたのでしょう」
おっと、今の発言は諒とできないな。少しも苛立っていないが、このまま蔑称として確立されては困る。ここは少しお仕置きを。
「もう教えてあげない」
ふんっと鼻を鳴らしてそっぽを向く俺である。それは罰と呼ぶには弱すぎる、甘い甘い鞭だった。なんなら小学校低学年にも有効なのか怪しいほどに脆弱な一撃は、
「っ⁉ な、な~んて冗談ですよ。お師匠様は虚実の判別もできないのですか?」
目の前の魔法少女には有効打のようだった。チョロインかお前は。
鼻息を窺うような笑顔を無表情に見据えながら、時には冷たくあしらうことも大切なのだと俺は学んだ。ゆかりが暴走しかけたらこのネタで鎮静できそうだ。
処世術を学んだところで計画の最終段階である。ゆかりを椅子に腰掛けるよう促し、ミドルタワー型のコンパクトなパソコンケースの電源をワンプッシュしてOSを起こす。
ハードウェアはすべて姉貴の部屋に眠っていたものだ。てかてかと輝くこのデスクトップPCの相場がどれくらいなのかは知らないが、起動の速さから推測するに○十万円はくだらないだろう。一体どこから軍資金が湧くんだか……。
ちなみに椅子はコンピュータ室から掠めたものである。
「なんですかこれは?」
アイコンがずらっと並んだ液晶ディスプレイとマウスを見比べたゆかりは、俺に視線を注ぐばかりで、一向に眼前の文明の利器に触れようとしない。
なんとなくそんな気はしていたが、ゆかりは天と違って地上の出来事に精通していないようだ。授業に出ているのかも怪しい。っていうかどこに住んでるんだ?
未確定情報ばかりだが、おいおい知っていけばいい。そのためにも、まずはゆかりをこの場所に根付かせなくてはいけない。
『IH計画』とは『異世界人捕縛計画』の略称である。端から見れば部室だが、この部屋は今後異世界人の巣窟へと変貌する予定だ。俺と天の二人だけで全異世界人を監視するのは不可能だからな。しかしこうして一カ所に集めれば、ある程度の行動は制限することができる。ここは部室を装った監獄だ。制限は一切なく、俺にできる限りの望みなら叶うから見方によっては楽園かも知れない。
「これはゲームって言ってな、俺はゲームを通してインフェルノをマスターしたんだよ」
「へぇ、げぇむ、ですか」
横に腰掛けてマウスを握り、昼間にインストトールしたアプリをダブルクリックすると画面が一時暗転し、やにわにオープニングムービーが流れはじめた。おいおい俺のPCとは比にならんくらい画質がいいんだが。これで倉庫番ってマジかよ姉貴。
「おおっ! すごいですすごいですっ! 画面の中で人が戦っています!」
俺の制服の裾をくいくい引きながら、ゆかりは一等の旅行券が当たった時のような興奮をもって食い入るように画面を覗き込んでいる。新鮮な反応だなぁ。ゲームひとつでそこまではしゃげるお前が羨ましいぜ。
「お師匠様お師匠様、このげぇむというのはどのような魔法で動いているのですか?」
声を弾ませながら問うてくる。いつからか俺は師範になったらしい。
「魔法じゃないよ。ゲームは科学っていう、魔法とよく似てるけどちょっと違う原理で動いてるんだ――」
こうしてゲームとはなんたるかをだましだましの説明で乗り切り、
「つまりゲームをクリアするごとに魔法が洗練されてくってわけだ」
そう話を締め括ると、ゆかりは顎に指を添えてふむふむ頷いた。
「こんな低労力でしかも楽しみながら魔力を増幅できるなんて、夢のようなトレーニングメニューですね。よぉし、魔術師の誇りにかけて、古今東西ありとあらゆるげぇむをクリアしますよ!」
「おう。その勢いだ」
こうして記念すべき一人目の異世界人の捕縛に成功したのだった。