7 『決行前夜』
「嫌ですっ!」
屋上に到着するなり耳を劈いたのは、切羽詰まった拒絶の声だった。
続けて宥め賺すような柔らかい声が聞こえてくる。
「ここはゆかりさんのいた世界とは違うんです。あなたの魔法に耐えられるほど、この世界の人工物は強固ではないのです」
「だから魔法を控えろと言うのですか? 仮にカルマが侵略してきて、その時わたしの魔力が劣っていたら、天はどう責任を取ってくれるんですか?」
「それは……」
「家族を皆殺しにした相手に、頭を垂れて命乞いをしろと言うのですか?」
修羅場だな。街中で名前も知らない無関係の女生徒がいがみ合ってたら、やってんなぁくらいにしか思わないのだが、いざ自分が関係者となると厄介この上ないな。
フィクサーなんて担ったことないが、取りかえしのつかない事態になって世界滅亡シナリオが完成してしまってはもっと困る。考えなしに俺は飛び出した。
「悪い遅れちまった……ってどうしたんだ二人とも。顔が怖いぞ?」
正確にはゆかり一人が目を三角にしている。一方の天は、助けてと言わんばかりの困り顔を浮かべていた。
まぁ仮にも妹だからな。兄貴としてちょいと袖をまくるとしよう。
「天が魔法を金輪際使うなと言うのです。紫音はどう思いますか? 魔法はわたしの生き甲斐なんですよ?」
同意を求めるように、身振り手振りを交えて自らの意見を主張するゆかり。
不幸中の幸いと言ったところか、天に敵意が向いたことで俺への嫌悪が和らいでいる。これはチャンスだ。気分を害さないよう細心の注意を払いながら、解決策を探るとしよう。
「そいつは横暴がすぎるな」
「そうでしょう? それに魔法は毎日発動しないと威力が弱まってしまうのです」
なるほど。だから毎日、修行に励んでたのか。
「それでサボらず毎日魔法を放ってたと」
「はい。ここ十年は一日だって欠かしたことはありません」
ゆかりはまっすぐに俺を見つめている。これでホラだったら大した道化だが、恐らくこの子の言葉にはこれまでもこれからも裏がない、と思っていいだろう。一目見ればわかる、この子は率直な女の子だ。
こんなへんてこな事態に巻き込んじまったのが申し訳なくて仕方ない。俺がいなければ、この子はアルザスの村で家族と仲睦まじく平和の日々を送っていたに違いない。
そんな彼女の日常を壊したのは俺だ。
なのに彼女の生き甲斐である魔法も奪えって? 地球が滅ぶ可能性があるから?
冗談じゃない。それなら俺は世界を敵に回してでもゆかりの意志を尊重するさ。その程度では拭いきれないほどの罪を俺は背負っている。
考えろ考えろ。彼女の願望が叶えられて且つ、このだらっとしたなんでもない日々が続く手立てを。
「すごいな。俺は何事も三日坊主で終わってばかりだよ」
真一文字に結ばれていた口が綻んだ。
「わたしも魔法以外は継続できないことばかりです。お菓子の我慢も二日が限界でした」
お菓子、ね。しかしそんな子供だましがいつまでも通用するとは思えない。もっと長期的な効果が期待できる術は……。
と、昨日の出来事が脳裏に浮かぶ。
「ところでインフェルノ、だったか。あの魔法は成功した例しがあるのか?」
天はやはり俺の言動にノータッチである。先ほどから置物と化していて、けれどその顔に笑みはなく、瞳はまるで俺を試しているようで……といかんいかん。今はゆかりとの会話に集中しないと。
ゆかりはからかうように、小さく笑みを漏らした。
「紫音は変わった人ですね。話に一貫性がありません」
そりゃあ、話しながら考え事してるからな。どちらかと言えば思考を巡らせることに力を入れてる分、会話は疎かになって当然だ。なんて正直に言うこともできず、
「これが俺なんだ。甘んじて受け入れてくれ」
両手を空に向けて浅いため息をつく。
悪いな、今は小洒落た言葉を返す余裕もないんだ。つまらない返事だが、失望して会話を中断したりしないでくれよ。お前の言葉が、唯一シナプスを刺激する可能性を秘めてるんだ。
ゆかりは微苦笑を浮かべて、
「変な人です。でも、悪い人ではないみたいですね」
言葉の棘がどんどんなくなっていく。今朝は絶望的に低空飛行だった関係性が、奇跡的に上昇の一途を辿っている。この調子でどんどんガードを甘くしてほしいもんだね。
「インフェルノが成功した例しはあるのか、という質問でしたね。その問いに対する答えはノーです。わたしは一度も成功させたことがありません」
憂い顔をしてゆかりは俯く。
正確には失敗していない。制御出来ていないだけで、魔法の発動には至っている。が、本人はそのことを自覚していないようだ。
目を伏せたままゆかりは続ける。
「アルザスの村では、インフェルノは『天界聖戦』に終焉をもたらした魔法として語り継がれています。しかし『天界聖戦』とは神話上の出来事。それ故にインフェルノという魔法が存在したのかどうか、実は定かではないんです」
ただでさえ頭がパンクしそうだってのにテクニカルタームの追加は勘弁してくれよなんて思ったのも束の間、そんな苦言をかっ消すほどの衝撃がもたげた。
「実在するのかわからない魔法を十年も練習してたのか?」
「はい」となんでもないように頷くゆかり。
テキストも範もなしとなれば、それは修行ではなく研究だ。彼女は魔法使いではなく、魔法研究家を名乗った方がいい。やってることはメンデルと変わらんからな。
しかしこれはいい情報を得た。天と姉貴の助力があれば、双方にとって有益な解決策を講じることができる。二人の許可を前提として、アドバルーンを上げておきたいのだが。
「……仮にインフェルノを使える奴がいたら、お前はそいつに会いたいか?」
ここでゆかりが想定した通りの反応を見せれば条件達成だ。懐柔待ったなしとなる。
固唾を飲んで彼女のリアクションを待っていると、
「え⁉ そんな方を知ってるんですか⁉」
目をキラッキラと輝かせながら、鼻と鼻がくっつくほど至近距離に迫ってきた。よし、これなら大丈夫そうだ。
さて未来の安泰が約束されたはいいが、今の危機的状況をどう回避したものか。少しでも頭を動かせば、お互いはじめてを失ってしまう。
こんなラッキースケベみたいな感覚でファーストキスを失いたくないよぅ!
助けて天!
この一幕でなんの活躍も見せなかった神様に、救いを求めて目配せすると、
「おめでとうございます。ようやく雪解けのようですね」
うん。実にいいハリウッドスマイルだが、天さんや、さては傍観者を貫くおつもりですかい?
天の足は地面に固定されたかのように動かない。
お、お前……願ったらなんでも叶えてくれるんじゃかったのかよぉぉ!
「(気分的に嫌です♡)」
と声がしたのは俺の脳内である。
まさかまさかと思いながら、俺は身体を大きく仰け反った体勢のまま念じる。
「(もしかして天さん、テレパシーとかできちゃったりします?)」
「(はい。紫音さん限定、ですけどね)」
「(早く言えよぉぉ!)」
そういうのはもっと早く明かしてだな……けどまあ、ゆかりからの好感度が上がったからよしとしよう。
それから間もなく、俺は仰け反り体勢に堪えきれなくなり、盛大に尻餅をついた。
その後は一瀉千里に溢れ出す質問を躱しに躱し、明日の朝一番にインフェルノを使える人物を連れていくということで話は落ち着いた。
一連のやりとりを脇で見ていた神様は、終始笑いを堪えるような顔をしていて、帰り道でなぜ助け船を出さなかったのかと訊くと、
「能力の使用回数にも制限がありますからね。今回はわたしの助力なしでも解決できそうだったので傍観に徹しようかと」
なんて、またしても極めて重大な案件を補足事項のように言ってくるものだから、軽くゲンコツをお見舞いしてやった。そう言うことは早く言えよ。
「いたぁ~暴力反対です」
「自業自得だ。他に隠してることは?」
「別に隠してるつもりはないんですけど」
聞けば能力は一万回までが限度なのだとか。曰く、異界と現世を繋ぐ『門』(地上とは定義が異なるらしい)は一年ほどで塞がる見込みだそうだから、えっと……一日あたり二十七回は使えるってことになるのか。そんだけありゃ十分だな。今日なんて一回しか使ってないし。
そんなこんなで体裁上は仲睦まじく天と帰宅し、家に着いてからは百合の写した板書を自分のノートにコピーし、親父を除く家族四人で夕食を取ったところで、俺はまず姉貴の部屋に向かった。
「姉貴~」
呼び終えるが早いか扉が開き、ひょこっと姉貴が顔を出した。
「どうしたのしーくん?」
驚異的なレスポンスの速さに俺は苦笑いしながら、
「もしかして待ち構えてた?」
姉貴はてへへと照れ臭そうに頭を摩る。
「しーくんが自発的にお姉ちゃんの部屋にくるなんて珍しいから、つい浮ついちゃってねぇ」
約束したわけでもないのに俺の来訪を確実だと予期していた姉貴に些か戦慄のようなもを覚えるが、そんなことよりも今はすべきことがある。
「あのさ姉貴、お願いしたいことがあるんだけど」
「うん。いいよ~」
「まだなにも言ってないんだけど」
大丈夫かこの姉貴。オレオレ詐欺の手口に秒殺で落ちそうだぞ。
「その……さ、学校に空き教室ってあるだろ?」
「うん」
朗らかな笑みを浮かべたまま姉貴は頷く。その背後にはマンガ山脈、ギャルゲ山脈、ラノベ山脈が聳え立っている。インテリアとして違和感なく馴染んでいるから不思議だ。
ちなみにエロゲーとギャルゲーは別物らしく、仮にギャルゲーをエロゲー扱いしたら、同人誌をエロ本扱いしたときと同様の不興を買ってしまうから気をつけた方がいい。どっちもADVであることに変わりないと思うんだけど……ってこれは一般知識だよな?
自分が知れず洗練されたオタクになっているのではないかと一抹の不安を覚えながらも、バッファ溢れる冷静さで交渉を進める。
「その内の一つを部室として提供してほしいんだけど……できるかな?」
いくら姉貴でも公的資産をはいそれと差し出すことは難しいのではないだろうか。生徒会長という称号は学徒内最高の権力をもつが、絶対の総攬権をもつわけではない。ましてや私情での頼みごとだ。端からうまくことが進むとは思っていない。
「できるよ」
しかしそんな俺の悲観的思考は、瞬く間にふわふわ思考に解された。
「なになに、部活作るの? お姉ちゃんも入れてよ~」
じりじりにじり寄ってくる。四つん這いになると色々無防備になるから、目のやり場に困るんだよなぁ。谷間とか丸見えなのに情欲が微塵も湧かないのは、姉貴が姉貴だからだろう。恐るべき血族抑制能力。
「あ、いや……」
前途多難を覚悟していたのに、こうも潤滑にいってしまうと逆に戸惑ってしまうというものだ。
どうやら最終手段であった、神様マジックを行使する必要はなさそうだ。ほんとに大丈夫なのかな? まぁ文句を言われたらその時はその時だ。
「あとさ、その部室にゲーム機を設置したいんだけどいいかな?」
厚かましいと自覚しなながらも問いかける。
「いいよ~」
ゆるっゆるの返事。いちいち罪悪感を覚えるのが馬鹿らしく思えてくるね。
「そのゲーム機も姉貴のを借りたいんだけど」
「いいよ~。布教用と保管用のがあるけどどっちがいい?」
じゃあ布教用で、と答えた後に、姉貴が押し入れから引っ張り出したのは定価四万円ほどする最新ゲーム機だ。マンガやゲームソフトはわかるけど、本体まで布教するのか?
「そういえば、ゲーム機を譲渡した試しはないなぁ。けどこうしてしーくんの役に立てたから、買ってよかったって今では幸福感を覚えてるよ」
「姉貴……」
これほど姉貴が姉貴でよかったと思った瞬間はないよ。
愛してるぜマイシスター! なんて叫ぼうものなら近親相姦が起こりかねないから、思うだけに留めておいた。姉弟間の恋愛が成立するのはギャルゲーだけってもんさ。
新品未開封の大箱を持ちあげると、くいくい裾を引かれた。
「しーくんの部ができたら遊びに行っていいかな?」
場所を提供し、資材も提供してくれた最大の功労者を門前払いする無礼者がいようか。
「もちろん。いつでもきてよ」
部室が和やかな空気に包まれる未来が見えた。
続けて天の部屋に向かう。ノックすると、十秒ほど間があって扉が開いた。これが正常な反応速度である。
「どうしました兄さん?」
入浴を終えて間もないのか、天の頬は仄かに赤らみ、半乾きの黒髪は照明に反射して艶めいている。
元々美少女で加えて扇情的な色っぽい姿だってのに、かなしいかな情欲が少しも湧かねぇや。妹だからというよりは、こいつの人間性(神性とでも言うべきか?)に呆れちまったから、そういう目で見ることができないのだろう。花も実もある女性が、本当の美女ってもんさ。
「なんですかじっと見つめて」
ジトっと細められた天の瞳に警戒の色が宿る。見当違いも甚だしいところだ。
「いいや、プラトニックな関係が保てそうでよかったなぁと思って」
若干の皮肉を込めて言うと、天は小首を傾げた。
「プラト……なんですそれ? プラトンおじさんの親戚ですか?」
プラトンおじさん……。いやぁ世界は広いねぇ。
「親戚ではないが語源ではある。清らかって意味だよ」
「なるほど。……しかしなぜでしょう。なんだか複雑な気分です」
胸に手を添えて、天は歯の隙間にパイナップルが引っかかった時のような顔を浮かべる。
言葉の裏に隠された真意に気づいていないようでなによりだ。俺は心の中でしたり顔を浮かべた。
「ま、知らない方が幸せなこともあるってもんさ。で、本題なんだが――」
「ゆかりさんの件ですね」
物分かりがよくて助かる。
鉈を振るった計画の全貌を打ち明けると、
「なるほど。さすが出不精なだけあってシーケンスに無駄がありませんね」
「出不精言うな」
これ以上は本格的に蔑称として確立してしまいそうだから勘弁していただきたい。
神様のお墨付きも得たところで、プロジェクト完成だ。題して『IH計画』。残すは実行に移すのみである。
さて傲慢に彼女も世界も救うとしよう。