2 『妹ができた日』
まずは事の発端にして元凶にして『妹』と出会った日のことから話そうと思う。
その日もてんで代わり映えのない日だった。太陽は朝っぱらから燃費の悪い照明みたいに燦々と輝いていたし、道路は出勤カーの群れで埋め尽くされていた。
旧暦四月らしい温暖な気候だが、はていつから新暦が旧暦に転じたのだろうか。
そう思わずにはいられないほど、暖かいというより暑い日だった。
予報によると現在の気温は二十度らしい。年々地球温暖化で気温が上昇傾向にあるというが、この調子でいったら冬が消滅してしまうのではなかろうか。それは勘弁してほしい。正月は貴重な収入源なんだ。
ブレザーを脱いで、汗ばんだシャツと身体の隙間にぱたぱたと空気を送りながら通学路を歩く。こんな暑いのに並木道の桜は今がハイボルテージだとばかりに満開に咲き誇っているのだから、感覚が狂いそうになるね。
学校に着いてからも暑さが緩和されることはなく、むしろ人口密度が増したせいでより温度が増したように思えた。靴を履きかえながら生徒玄関脇にある水飲み場を見やれば、朝一番から野球に精を出していた五分刈り青年たちが、暑い暑いとぶー垂れながら頭に冷水を被っている。甲子園はまだまだ先だというのにご苦労なこった。もっともここの野球部は毎年市郡止まりだが。
階段をおっちらおっちら上って教室のドアを開くと、
「兄さん、このままでは地球が滅びてしまいます!」
あ、冷房効いてる……と感動を覚えたのと、美少女のどアップにたじろいだのは、ほぼ同時だった。声の主は俺をじっと見据えたまま目を逸らさない。
台詞だけ抜き取ればネジのぶっ飛んだ電波野郎にしか思えないが、どうしたことか、眼下にいるのは目も疑うほどの美少女である。
腰下まで伸びた烏羽色の黒髪はたおやかに波打ち、黒曜石のような輝きをもった大きな瞳は俺の秘められた庇護欲をこれでもかというほどに燻った。
故に見惚れてしまうのも当然と言えよう。目と鼻の先に美少女がいるんだ、釘付けにならない奴は不感症を疑った方がいい。
「紫音、クラスに内輪揉めもってこないでよ」
危うく妄想世界にダイブしてしまいそうな俺の首根っこを掴んで現実世界に連れ戻したのは、膂力バカの幼なじみだった。
由利百合とは幼稚園時代からの付き合いである。委員長兼剣道部主将。ポニーテールに凜とした顔立ちと、容貌だけで格付けしたのなら紛うことなく箱入り娘なのだが、そんな淑女然とした風貌は彼女のオタ趣味をカムフラージュする暗幕にすぎない。
蓋を開ければ、限界オタクの痛々しい女だ。容姿に騙されて撃沈した数多の男子共が不憫に思えて仕方ないね。手向けに花くらいは添えてやろう。もちろん百合の花を。
しかし、朝っぱらからなんの冗談だ。目の前の少女は家族でなければ友達ですらなく、加えて言うのなら知人でもないのだが。
「馬鹿野郎。こんなネトゲからでてきたみたいな身内がいるかよ」
仮にいようものなら俺の小型端末に露と消えていった無数の札束は、その子の小遣いの一端と化しているはずだ。
可愛い子には旅させよというが、俺にはそんな突き放すような真似はできそうにないね。どろっどろに溺愛して甘やかした挙げ句、破産する未来しか見えない。その果てで俺はしみじみと呟くのだろう。悔いのない人生だった、と……。
などと、七転八倒しながらも幸福なライフステージに思いを馳せていると、純度100%の失望でブレンドされた重たい息が鼓膜を揺らした。
「正真正銘、双子の妹をネトゲの嫁よばわり……生憎だけど、さじを投げるしかなさそうだわ」
「嫁なんて一言も言ってないが?」
お前、ギャルゲのやりすぎでとうとう頭がお釈迦になったのか?
とそんな応酬は日常茶飯事だからどうでもいい。
それよりも言及したいのは、ふと聞こえた看過できない続き柄だ。
「双子の妹ってなんだよ。俺には姉貴しかいないぞ」
今現在、我が校の生徒会長を勤める立派な姉である。
百合はお手上げだとばかりに首を振った。
「今回はお互いに見えていないフリをするレベルの大喧嘩かぁ。ん、痴話喧嘩? 夫婦喧嘩? それとも夫婦漫才?」
瞳が妖しげに輝く。頭がオタク文化に侵されて三親等は結婚できないという法律を忘れた残念な委員長である。しかしなんだ、本気で俺がこの子と双子だって言ってるのか?
「本気もなにも、年齢も出生日も住所も同じなんだから双子に決まってるでしょ」
確かにそれなら、よほど複雑な事情でもない限り双子だ。
「けど、俺に妹なんていないってことはお前も知ってるだろ?」
姉貴目当てで、百合は頻繁に我が家に足を運ぶ。家系図なんて二次関数のグラフを描く要領で図示できてしまうはずだ。
百合は腰に手を当てて胸を張り、渋面を作った。
「ちょっとどんだけ堂々巡りする気よ。いい加減飽きてきたんだけど」
目を吊り上げて俺を睨み付けてくる百合は、演技などではなく本心から嫌悪を露わにしているように見える。基本百合は、冗談は冗談だとわりかし早い段階で明かしてくるのだ。
「それは俺の台詞だ。さっさとアンサーを吐いちまえよ。この子は転校生ですって」
急に妹ができたなんて都市伝説でもあるまいし。
「はぁ? あんたほんとどうしたの? 悪いものでも食べたの?」
強情な奴だ。依然百合は自説を曲げようとしない。
「母さんの料理はいつだって絶品だ」
「知ってるわよそんくらい! 寄生虫に脳内侵されたんじゃないの?」
「いねぇよ寄生虫なんて……。てか、いい加減ネタばらししろよ」
その後も口論が白熱するも、百合がな~んてねと戯けて舌を出す気配はまるでない。
異常だ。ここまで百合が折れないことなんて今までなかった。
どうなってるんだ?
なんで名前も知らない子が双子の妹ってことになってるんだ?
尖閣諸島の領有権を巡って激論を闘わす日本大使と中国大使のように、一進一退のまるで進展のない言い争いを繰り広げていると、
「あのっ!」
俎上の第三者が声を張り上げた。耳馴染みのない声だ。こんな副作用でセラピー効果が付きそうな柔らかい声を俺は知らない。
名も知らない美少女は俺と百合を見比べると、
「喧嘩はやめましょう!」
誰のせいだ。
俺が鼻白む一方で、百合の瞳にはなにやら期待するかのような輝きが宿っている。
「え、なになに恋の鞘当て展開? いやぁ熱いなあ。よし紫音、天ちゃんを巡ってわたしと手合わせしよう」
百合がうきうきで手刀を向けてくる。駄目だこいつは。
「お前はもう喋らんでいい」
手を伸ばして百合を制し、視線を自称妹に向ける。
「で、これはどういうことだ」
自身のおつむで理解が追いつかない以上、当事者に解説を求める他ない。
正体不明の美少女は逃れるように視線をつーと流すと、
「あー……話すと長くなりますから、家でゆっくりお話しましょう」
にこっと無垢なスマイル。うん、実に言い笑顔だ。週刊マンガの表紙を飾っても違和感がないね。……こんにゃろ、うまく話を逸らしやがったな。
しかし、彼女の言うことも一理ある。
見たところ、けったいな事態に巻き込まれたと自覚しているのは俺だけのようである。それは某所から向けられる奇異の眼差しを見れば明らかだ。このやたら見てくれのいい娘が俺の妹であることが周知の事実で、俺がこうして苦言を呈していることが異常、というのが彼らの共通認識なのだろう。おいおいついに世界が狂っちまったのか? 異様な猛暑はなにかの前触れなのかも知れない。
「……わかった」
その時は一から十まで話してくれよ。こちとら既に頭痛がひどいんだ。
「もちろんです」
アルカイックスマイル。君の感情オプションはスマイルしかないのか?
こうして摩訶不思議な日々は唐突に幕を開けたのである。
この程度で終われば『突然、妹を自称する黒髪美少女が現れたんだがw』なんて記事をネットに上げてうまくいけば収入化できたのだろうが、残念ながらその程度では済まないほどに運命の歯車は回ってしまっていたのである。
現実が既に非日常に変わり果てていることを俺が知るのは、そう遠くない未来のことだ。