19 『マスター引退』
「万事解決です。マスター」
振り返ったバトラーに、先までの鬼神の面影はない。温度差の激しい二面性におっかなびっくりしながらも、俺は無理矢理に口角を釣り上げて笑顔を繕った。
「お、おう。ありがとな」
ぷはっと、バトラーが軽く吹き出す。
「はは、なんて顔してるんですか。安心してください。僕は決してマスターに危害を加えたりしませんから」
言い終えてもバトラーの笑いの波はなかなか去らず、腹を抱えてくすくすと忍び笑いし続ける。俺がよほど変な顔をしているのか、あるいはバトラーの笑いの壺が浅いのか。とりあえず、姉貴の快眠を妨害するような声量ではないのでよしとしよう。
小馬鹿にするような弾んだ声には不快感を一切覚えず、むしろ心地よさを覚える。
面倒ついでに、俺はもうひとつ頼みごとをすることにした。
「あのさバトラー」
「はい、なんでしょう」
やっぱり違うんだよな。これは俺の求めるこいつとの距離感じゃない。
「マスター呼びも敬語もやめて、同世代みたく俺に接してくれないか?」
主と下僕の関係じゃない。せっかく縁故に恵まれたんだ。こいつとだって友達になっておきたい。それに、兄さんとお師匠様の肩書きで既に手一杯なんでね。
誰でも叶えられそうな小さな頼みごとを受けて、バトラーは呆れたように微笑んだ。
「ほんと変わった人だよ。選ばれたのが君でよかった」
「え?」
俺の頓狂な声など歯牙にも掛けずに、バトラーはにこやかに続ける。
「夜も遅い。続きは明日の放課後に話すよ、紫音くん」
「取って付けたようなくん付けはやめてくれ」
「はは、なに、ちょっとからかっただけさ。改めて、これからもよろしく頼むよ紫音」
「ああ、なにかと迷惑をかけるだろうがよろしく頼む」
肌寒い日を跨ぐ直前の部屋で、野郎二人、熱い握手を交わす。昨日の時点で関わりは生まれていたけれど、今この瞬間を持ってようやくバトラーという男と本当の意味で分かり合えた気がした。まあ、本来は同じ土俵に立つことさえおこがましいんだけど。
「ところで紫音、ひとつ提案なんだけど、咲月様との姉弟関係を断ってみないかい?」
握手を終えると、バトラーは理解不能な質問を投げかけてきた。
「どうしてそうなったかさっぱりなんだが」
「咲月様は紫音を庇ってサキュバスの誘惑を受けて、誰からも関知されない世界で紫音に呼びかけ続けた。だから、紫音は誰よりも先に咲月様に気づくことができたんだ」
「それと姉弟関係を断つことにどんな因果関係があるってんだよ」
ここまで言ってもわからないのか、とでも言うかのようにバトラーは困惑気味に肩を竦めた。
ド偏見だけど、高学歴の奴ってこういう奴が多いよな。頭脳明晰、抜群の顔面偏差値をもって低学歴の陰キャを見下す。なんで性格が悪い奴って頭良いんだろうな。以上。
「姉弟愛の域を超えてるんだよ。父母でもなく、友人でもなく、咲月様は紫音を頼り続けたんだよ。それも一途に。紫音だけを信じて」
まるで見てきたような口振りだな。
「実際には見ていないけどね。けど、サキュバスの呪いを解除する唯一の方法は愛しかないんだ。罹患者が特定の誰かに対して強い思いを抱き、相手も同等かそれ以上の愛を持っていたとき、はじめて呪いは解かれるんだ。二人のような清らかな関係は、僕もこれまでに見たことがないよ」
なんか称賛されていた。
「……じゃあなんだ、お前がサキュバスを追い払わなくても姉貴の安泰は既に約束されてたってわけか?」
俺が姉貴を認識したことを呪いが解けたと言うのなら、その時点で問題は解決されていたということになる。
「そういうことになるね。陽が昇ればサキュバスは勝手に消滅し、咲月様は紫音の愛をもって生命エネルギーを取り戻していただろう」
「……そっか」
「ところで紫音、耳が赤いけど体調が優れないのかい?」
「うるせぇよ……」
わかってて言ってるのがニヤついた顔で丸わかりだ。
愛、愛って急にロマンチックなこと言いやがって。……姉貴、ずっと俺を信じてたのか。 姉貴は元々明るい性格ではあったが、今ほどちゃらけた人物ではなかった。
姉貴は内向的で笑顔を見せない俺のために、今のキャラを作りあげたのだ。
なにも精神的な障害があったわけではない。ただ感情の起伏が薄かっただけだ。ほら、俺の思考って冷めてるだろ? 何事に対しても年相応の反応を見せない俺に、姉貴は漠然とした不安を覚えていたらしいんだ。このままじゃ人付き合いもうまくできないんじゃないかって。
姉貴は昔から賢かった。だから、幼いながらにそんな結論に辿り着いてしまって、そこから姉貴は百合と一緒に俺の改造計画をはじめた。といっても、週末に戦隊ものを見たり、宝探しと称して街中を探検したりしただけで、直接的な施しを受けたわけではない。
ただ、その間接的な施しは俺の人格形成に大きな変化を与えて、結果今の俺が生まれた。
親父と母さんの人柄がよかったことも要因だと思う。風光明媚な街で育ったことだって、もちろん要因のひとつだ。
けれど一番恩恵を与えてくれたのは、姉貴と百合だろう。二人なくして今の俺はありえない。だから、二人は俺にとって大切な存在なんだ。
……そう。これは感謝の意なんだ。そこに恋愛感情なんてあるはずがなくて……
「僕の『無殲剣』は物体はもちろん、概念だって断ち切れる。血縁関係だろうと容易くね」
なのにどうして。
どうして俺は、バトラーの言葉に揺らいでいるんだ?
「近親相姦なんて僕の時代ではあたりまえだったよ。なにも紫音がおかしいわけじゃない」
「……だからってそんなの……」
姉貴には姉貴に見合った人徳者がいるはずだ。だから俺がしゃしゃり出る必要なんてない。わかってるんだ。わかってるのに……
「なんて選択もあるってことだよ」
戯けたような声に顔を上げると、バトラーはしてやったりと言わんばかりの清々しい笑みを浮かべていた。
「まさか紫音、本気で咲月様の恋人になろうと思ってたの?」
この野郎……謀りやがったな。
「……んなこと思うわけないだろ」
意味深な間が、心の迷いを言外に物語っていた。
バトラーは握っていた剣を消滅させると、
「ま、紫音がその気になれば何十もの婚約者を作ることができるし、恣意的に情愛を肥大させることだって可能だ。もし本気になったら教えてよ」
いつか天が心象操作を勧めてきたことがあった。感情を手玉に取ることなど、こいつらにとっては雑作でもないことなのだろう。
「それは駄目だ」
けれどそれは、俺のモットーに抵触するものだ。
「人の心を弄んでいいはずがないだろ」
超常的な力を私利私欲のために行使してはいけない。
誰かの幸せが天秤にかかった時にだけ、天の力を借りる。
そんなルールを俺はいつからか自身に課していた。
「黄昏時に百合様をからかった口でよく言うよ」
そんな早期段階で意識を取り戻してたのかよ……。
「あんなのは児戯にすぎん。長年の付き合いがあるからできる言葉遊びだ」
「なるほど。……羨ましいね、そんな軽口を叩き合える間柄の〝友人”と〝姉〟がいて」
「ああ、川野咲月は俺の大切な姉だ」
まかり間違っても恋愛対象ではないと、バトラーに、そして自身に告げる。
「紫音が本気でそう思い続ける限り、咲月様と紫音は歴とした姉弟だよ。なんせどちらもルクシア様の血を引いてるんだから」
どちらも?
首を傾げると、バトラーはお馴染みとなりつつある余裕綽々とした笑みを浮かべて言った。
「明日の放課後に全部話すよ。ああ、あとこの約束は他言無用で頼むよ」
そう言われては遵守する他ない。
呪術で苦しみながら命を落とすなんてごめんだからな。




