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失って初めてわかるものは案外多い

 瞼の裏のほんのりとした明るさに気付いて、ゆっくりと目を覚ました。

 記憶では確かに雨が降っていたが、今部屋の外から見える景色は一片の雲もない青空が広がっている。


(……あれ、私どうしてたっけ?)


 記憶を掘り返そうとした矢先、弾けるような光と幻痛が網膜を突いた。

 思わず身体が跳ね、ぎしりとベッドの音が鳴る。


「っ! 思い出したっ……」


 馬車から見える風景が動き出したと同時に、風と歪んだ景色が激突し、自分の右脇を食い荒らして去っていった、はずだ。

 

 少女の美しい虹彩が恐ろしい速度で右腕へ滑る。


 見たくない。

 見たくはないが、見ずに済ますことはできなかった。


 抗えない力により吸い寄せられた視線の先にあったのは。



 相変わらず白く滑らかな細腕であった。


「……うう?」


 思わず変な声が漏れる。


 恐る恐る持ち上げてグーとパーを繰り返す。次は一から五まで指を立ててみて、今度は逆順に折り曲げることを繰り返した。

 ゆっくりと光のほうへ手をかざし、意味もなく透かしてみる。

 真っ赤に流れる血潮まで見通すことはできなかったが、白い肌の奥にあるオレンジ色の活きた肉体を確認すると、脈に耳を澄ませるように、左手で右手を包み込んだままうずくまった。



 よく覚えていない。しかし忘れることはできない。


 そんな矛盾した記憶が彼女に刻まれている。

 彼女は確信していた。今握っているこの手が、絶望的な喪失感と共に間違いなく私から一度離れたことを。



「……ぃぐ。……ふっ、ぅ、ぅう~っ」



 どことも知れない部屋の清潔なベッドの上で、(ひたい)に握った(てのひら)を押し付けながら、少女は涙と声を押し留めることができなかった。



 かけがえのない割に一度失くせば元に戻らないものは、存外世界に溢れている。父に母に「大事にしなさい」と言われても、(おおよ)そピンとこないほどには溢れている。


 陳腐な言葉とは使い古されるほど当たり前で大切な言葉のことだ。

 誰もが皆、「本当に大切なものは失って初めてわかる」のだ。



「―ふぐ、ぅああ~~っ」



 だからこそ、()せたかけがえのないものを、もう一度持ち主の手に還す力はまさに『奇跡』だった。

 失ったはずの「普通」で「健常」な身体。その小さな手を二度と手放さないよう、もう片方の掌で包んで固く固く握りしめて少女は泣く。



 聞こえてきた声に気付き急いで部屋にやってきたゾブラとロイも、今はドアノブに手をかけることなく嗚咽が止むのを待っていた。


 後ろでロイの小さく鼻をすする音が聞こえる。

 ゾブラは特に咎めることなく壁に背を預け、軋むことの無かった造りの丁寧な床に、ただただ感謝した。


――


「頑張ったけど、けっこう壊れちゃいましたね」

「……ああ」

「ただ村人への被害がほとんどなかったことを考えれば悪くない結果ですよね」

「……ああ」


 恐ろしく反応の悪いマーリンに、ヨウは呆れたように鼻から息を吐いた。


「いつまで気にしてんですか。いい加減切り替えてくださいよ、元凄腕の開拓者でしょうが。開拓者は切り替えが大事でしょうが」

「……であればお前の切り替えの早さはもう白金等級で免許皆伝だ」


 事実マーリンは引き摺っていたし、反対にヨウは自分の事の割に特段気にしていなかった。

 嫌に反応の良い片足の勝手の違いからか不自由な時よりぎこちない歩き方をするマーリンの気持ちは、ここ何年か覚えがない程に沈んでいる。


 ヨウが自分より先に終魔状が使ったことについては今でも後悔が拭えないが、本人からも刺さる言葉を賜ったのでこれ以上彼の決意と充足感にケチをつけるようなことは止めようと努めている。


 だが現実(・・)を前にすれば、先に立つことのない後悔が心底恨めしかった。


 ヨウはやはり、もう『及』を使えなかった。



「感覚的なんですけどね。 もうなんとなく『繋がれない』感じです」


 ヨウの体内魔素は一時的に枯渇していたものの未だ存在することには心の奥から安堵したが、最初からあれほど苦も無く魔子を操ってみせた『及』の才能は、文字通り今や見る影もなかった。そのことが、なんとか前を向こうとしていたマーリンの気勢を無慈悲に踏み潰していった。


 むっつりと黙り込んだまま村内をひょこひょこと歩くマーリンに苦笑しつつヨウは声をかける。


「まあ、終魔状で『及』は使えなくなりましたけど、悪い事ばかりじゃないですよ」


「……お前の手から最上級の手札が消えたのだぞ。 ―村を救い、少女二人と老人一人を治癒したことは素晴らしいことだ。それにケチをつける気などもう無い。 それでも、消えた事実は変わらん」


 自分を老人と言いますか。と本題ではない箇所に笑うヨウをマーリンは睨んだ。


「まあ確かにそうなんですけどね。『村は残り、少女と老人の傷を癒したが、彼の手にあった大切なものは二度と元に戻ることは無かった』……はいごめんなさい。目が怖いですよ」


 もはや憎しみではと疑うほど鋭い眼光をくれるマーリンからひとまず目を反らし、ヨウはこれほど自分を気にかけてくれているマーリンに対して言葉を続けた。


「覚えてます? 俺がベニメリヌの首を落とした時のこと」

「? ああ、覚えている。美しい剣閃だった」


 その時ふとマーリンの顔が上を向く。


「なにか思い出しました? 早いですね」


 マーリンは先ほどとは打って変わった色の視線で、ヨウと、ヨウが腰に()いた剣の鞘に吸い寄せられる。

 その視線を受けて、ヨウは簡易的なベルトから鞘ごと抜き取ってマーリンに手渡した。


 崩れた家屋の傍で二人は向かい合う様子を遠くから村人と打ち合わせしていたゼンネルとクレアが不思議そうに見ていた。


 手渡された鞘をマーリンは目線の高さまで上げて、鞘から剣身をゆっくりと抜いた。


「これはまた……」


 鋳造された中々に造りの良い真っ直ぐな剣は、実はマーリンが持たせたものだった。その剣の検身が、今は無数のヒビに覆われていた。


「……この状態であの魔獣を斬ったのか」

「ですね。あの時の自分は何でもできるっていう全能感がありましたし、実際できましたから」

「お前でもまだまだ先は長そうだったからな。 『(あまね)』の習得には」


 その言葉を肯定するように頷いた動作とは裏腹に、返す言葉は明確な否定だった。


「ですが今は」


 マーリンの握っていた剣柄より高い位置をヨウが左手で握る。

 マーリンが手を離した事を確認した後、あの時と同じように『巡』を展開後、左腕を辿って少しずつ剣へ魔素を送り込んでは巡らせて戻す。


 身体強化と同じだ。『巡』も『遍』も変わりはしない。巡らせて行き渡らせる必要があるのだ。しかし何度口で説明されようと、手を変え品を変え伝えられようと、ヨウは中々この感覚を理解できなかった。

 当然である。ヨウが剣を学んだのはその時一年足らず。剣を自在に操ることのできない人間が、剣を己の身体と同一と見立てて身体強化を作用させるなど土台無理な注文だった。

 しかし幸か不幸か。ヨウは実践を以てこの感覚を習得した。あの全能状態では何もかもが高出力で高速であり、魔素の出し入れなど児戯と呼べるほど容易であったため、いまだ一体化などしていない剣でさえ『遍』を実現させることが出来たのだ。


 傍目にはわからないが、魔状師であるマーリンには一目瞭然だった。


 間違いなくこの剣は魔素で満ち満ちて強化されている。

 

 まぎれもない『(あまね)』の行使状態であった。


 おもむろに剣身すべてを鞘から抜き放つと、ヨウは崩れた家に立てかけらた、錆びて柄も半分の長さになった鉄製の(くわ)を見やる。

 そして、一足踏み出すと、朽ちた鍬の刃目掛けて一閃した。


 風が鳴った後に聞こえたのは、小気味良い澄んだ音。

 鞘に滑り込ませた剣身の音と、鍬の刃が真ん中から地面に落ちた音色だった。


 ドヤァ、という顔をしてヨウは振り返る。


「どうです。失うばかりじゃないでs」「おいおいおいおいゴラテメぇ!!」

「ひぇっ」


 講釈垂れようとしたその時、遠目で一部始終観ていたクレアがフルスロットルの雷を落とした。


「人様の大切な財産である農工具を勝手に壊すたあどういう了見だよああああぁん!?」

「ごめ、いえ、申し訳ありません!」


 クレアの態度は(やから)に過ぎるが言っている事に間違いはない。

 例え使っていなさそうとはいえ、明らかに調子に乗って鍬を斬ったヨウが悪かった。平身低頭して謝り倒すヨウとキレ倒すクレアに苦笑しながら仲裁しようとするゼンネル。


 そんな彼らの平和な風景を見ながら、マーリンは美しく斬られた鍬の刃と謝る前に手渡されたヨウの剣を見比べる。



 大切なものほど一度失ったら元には戻らない。

 なるほどそれは確かに手垢のついた格言であるが、実際至言でもあった。


 だが、人は弱いようで強い。弱いからこそ強くなる。

 大切なものを失った人間は、その瞬間から大切なものを失った人生が始まる。

 それは逆に言えば、失った後の人生を手に入れたとは言えないか。


 そして失った人生が、人を強くすることはあるまいか。



(それは願望だろう)



 人によっては詭弁に聞こえるかもしれない。


 しかし『及』を失ったヨウ。彼のこれからが、損失の穴を埋めて余りある豊かさを手に入れることをマーリンは願った。

 その可能性は、黒髪の少年自身が見せてくれたばかりだ。



「失った後の人生か」


 そして独り言ちる。マーリン自身にも当てはまる言葉であるが、その時彼は別の青年を思い浮かべた。



 ―取るに足らない人間。


 そう決めつけていた、夢と現実逃避を混同したどうしようもないガキ。



 しかし一足先にハイシェット村へ戻ったそのガキの眼は、以前の焦点の定まらない瞳ではなかった。


 誰よりも早くハイシェット村に戻ることは責任を逃れたようにしか見えず、ベニメリヌが村に来た原因とも目された彼には非難など生温い程の言葉の銃弾が降り注いだ。



(しかしあいつは逃げなかった)


 マーリンも、あいつは何も言わずに逃げるだろう。逃げた先で都合の良い虚言を吐き、どうしようもなくなれば父親を頼るだろうと疑わなかった。

 それが彼。もとい彼らだったからだ。



 だが彼は意外なことに、村長へ挨拶に行き、村の男衆や女衆、有力者関係者を集めてもらい、その上で全面的に非を認めて謝罪した。

 もちろんそれで許されるはずもない。勝手な理由で魔獣を捕縛し、結果取り逃し、最終的に村を危険にさらし一部は破壊され、さらに事を収めたのは彼でさえない。


 共生するハイシェット村の有力者とは言え、簡単に許されるはずもなかった。


 それでも彼は、その地獄のような集会から遂に最後まで逃げなかった。嘘も偽りもしなかった。

 最後まで、全ての非は自分一人にあると、ハイシェット村のどの人間も関係はないと言い続け、それ以外は謝罪の言葉のみを繰り返した。



 土下座しろ!


 と、誰かが喚いた。

 そうだそうだと、周りは囃し立てた。 その時すでに一部の人間は、彼の姿勢に態度を軟化させていたのだが。


 彼は一つ頷いた。

 そして悔しそうな顔もしないまま膝をつき、床に頭をつけた。



「……この度は、本当に申し訳ありませんでした。この落とし前は必ず、()がつけます」



 囃すような声は止んでいた。

 手を振り上げていた男達は気勢を失い、女衆の大半は、純粋な怒りとは別の感情で馬鹿騒ぎする男たちに冷たい目線をくれていた。

 その間彼は一度も顔を上げず、額を床につけたまま動かなかった。


 責任を自分が全て取るために、どうしても一度帰る必要があるのだと。

 その言を、最終的には全ての人間が認め、彼は一度帰った。おそらく彼の父親に報告しけじめをつける必要があるのだろう。

 彼の家ではなく彼自身が責任を取るために、彼にとっては必要な手順であったのだろう。


「ふん」


 何かを手に入れることは、手に入らなかった先の人生を手放したのと同じだ。

 渦中の青年は、小さな村社会の中では驚くほど多くの手札を持って生まれてきた。それが幸か不幸かどちらであったのかは、全て手放した後の彼の半生で証明される。

 

 しかし、もう答えは出ているようにマーリンには思えた。



 死にたくなるほどの失敗と引き換えに、どうしようもなかった若造はようやく一人の男になった。

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