ついに始まり
原型のないゆるゆるとした意識が徐々に身体に馴染んでいく。
外気の温かさを感知するまで目を開けずにいたが、ほどなく全身が光と風を、耳朶が葉擦れを拾った。ゆっくりと目を開ける。
「……話は本当だったか」
都合の良すぎる際の夢ではなかった。
明らかに日本ではない、野原または草原と言っていい場所に寝ころんでいた。近くに人類の営みが伺える確かな道も見えた。野焼きでもしたのだろうか。学生時代に友人とノリで弾丸旅行したモンゴルのステップを思い出す。
乾燥した風と草の匂い。その短く生えた草の上でゆっくり体を起こした。
どうしよう。無性に叫びたい。誰か、俺の頭が狂ってないことを証明してほしい。そんな衝動に駆られる。
本当に俺は別世界に来たのか。どう確かめたらいいのかわからないが、とにかく誰かと話したかった。
しかし、それも少し経てば落ち着いてきた。俺が作り出した夢だとしても、その中で生きていけばいいだけ。この世界が夢か現実かは問題ではない。「我思う、故に我在り」と言ったのはデカルトだったか。
とすると現状把握である。まずは身の回りを確かめ―
「あ」
メガネがない。けど視界は良好だ。ということは。
「視力戻ってる」
高校生の中盤から授業中はメガネが必要になったので、まだ目が良かった頃の身体に戻っているということか。そしてさっき気が付いたが、服が変わっていた。スーツだったはずだが、見たこともない服を着ている。
この世界の一般的な服装なんだろうか。生成りの割としっかりとした生地のシャツの上に、何かの皮革を鞣して作られたシンプルなシングルライダースジャケットのような上着を着ていた。
「え、かっこいいな」
先程まで会話していた管理者の趣味だろうか。ほぼ黒と言っていい暗灰色の詰め襟タイプで悪くない。ジッパーではなくボタンのような留め具ではあるが、日本で着ていたとしてもそこまで違和感ないだろう。ズボンもデニムのように固い繊維で編まれているように見える。
そして靴。明治頃の発展レベルと言っていたが、ゴツく堅牢な作りの軍靴のような。もしかして、かなりいい服装にしてもらってはいないだろうか。聞いていなかったが随分サービスがいい。
近くには革袋が置いてあった。簡素な作りの、巾着型と言っていいのか、ひもを引くと口を縛ることができるタイプの革袋で肩に背負って移動できそうだ。
「中身は……んん?」
果物と干し肉に小さなサイズであるがまた革袋。少し考えて、革袋は水を入れる水筒変わりじゃないかと思い至る。川があったら水を入れてみよう。ていうかもし水筒なら水を入れておいてほしい。
そしてそのほかは、スーツ。
「なんでスーツが入ってんだ」
独り言が多くなってきた。これは俺が路上で倒れたときに着ていたスーツとシャツとネクタイ、それに下着や靴下など本当に一式だ。スーツの仕立てはいいものなので何かに使うか売れるかもしれない。ちなみに鞄はなかった。死んだ瞬間に手を放していただろうか。
あとは俺の身体。視力が回復していることと、少し動いてみて体が小さくなっていることは既に把握済み。この段になって身長低くなっているからそもそもスーツは着れないことに思い至る。再びスーツが着れる時まで生きていればいいが。
そしてデスクワークで重くなった腰回りが異常に軽い。というか体がすごく軽い。
できれば外見も見たいけど、鏡がないのが残念だった。
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一通り確認が終わってまず思ったことは。
「武器がねえな!」
魔獣がいる世界に移動したのだが、サービスいいのになぜ武器がない。スーツじゃなくてナイフとか入れほしかった。
しかし即座に「いやいや」と首を振る。つい突っ込んでしまったが今のは贅沢だった。別に着の身着のまま送られてもおかしくなかったが、こうして生きる装備をくれている。それだけであり得ない程の恩恵だ。
身辺確認が終わって周囲を見直したら、やることは一つ。
「うし、じゃあ移動しますか」
声が少し高い。自分じゃないみたいだ。
今はなだらかな丘の上におり、少し歩けば道に出るし、点のようにしか見えないが遥か先に集落が見える。そして、集落の近くには川があった。
この世界を生きるための知識も身分も力もない俺は、どうしたってここの住人の力を借りるほかない。行ってみるしかないだろう。
「……こんな感じで、派手な影響とか与えられる気はしないな」
神様すみません。この広い世界でも目に留まるほどの反応を示すには、いささか自分という存在は矮小に過ぎる気がします。
でも進むしかない。こうして俺は、未だ名さえ知らないこの世界で一歩を踏み出した。




