おわり
後悔ばかりの人生を送ってきた。
まるで太宰の私小説にありそう台詞だが、別に不幸なわけじゃなかった。むしろ今までの人生全体で見れば成功している側の人間だと思う。
実家は裕福ではなかったが特別貧しい訳でもなく、厳しくも俺のためを思い育ててくれた両親に今は感謝だってしている。社会人以降は金銭に困ったことはないし、対人関係に大きな問題が生じたこともない。多忙を極めた仕事も人並み以上に順調にこなし、率直に言えば女性にもモテたほうだ。勘違いでなければ。
しかし思い返してみれば、これまで歩いてきた道の途中で幾度かあった大きな選択の際に、どれか一つを選ぶ度に後悔が蓄積されてきた気がする。別の道に進み、今より華やかに生きる自分を夢見て、今の地に足着いた現実と比較して戻らない日々を悔やみながら生きている。
俺はそんな人間だった。
はたから見れば贅沢な話。
着々と溜まっていく後悔を抱えつつ、もう選べない別の道に思いを馳せる。そんな日々に突如降りかかったこいつは偶然か、それとも神の悪戯か。
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今日も今日とて日付の変わりそうな時間まで残業し、終電で最寄り駅に到着した後、家まで十五分かかるいつもの帰り道。
波戸陽路は何とはなしに空を見上げる。
自分に酔って夜空を仰いだわけでは断じてない。長いデスクワークで凝り固まった首をほぐしてたら空が目に入っただけだ。それもそれでどうなのだろう。親父みたいで嫌になる。
星は無いが、地上の灯りにより煌々と照らされた夜空がやけに赤茶けて見える。もう慣れたはずの夜の色が今日はいやに目についた。
途中にある歩道のない道を通る。この道路の周辺にはコンビニや街頭がない。刷毛で塗りつぶしたようなのっぺりとした暗闇が道を塞いでいる。目が慣れていないせいだろうか。道路の奥が見通せない。やけに明るい夜空との対比がそうさせるのか。
―今日は何故か、いつも通りの景色が目に留まる。
夜の色が気になったり、いつもの景色が妙に落ち着かない。もしかしたら、物の怪が出たり異世界に転移してしまうかもしれない。
ほんのり期待しつつも警戒して辺りを見回したその瞬間。
頭がずんと重くなった。
ぐらりと身体が傾いだ。目の前が暗転し、意識が脳から分離してヘリウムガスの如く空に浮いた。
なんで。どうした。―まて、行くな。
クラクションが聞こえる。線路の音が聞こえる。しかし、光が見えない。
暗い暗いと思っていた夜道を超える黒が視界の外側から侵食してくる。
平凡の範疇に入る人間でも、人生で一度は吃驚するようなことが起こるものというが、自分の場合、一生に一度のビッグイベントが「帰り道で突然生死を彷徨う」だったわけだ。
あんまりだが、仕方ない。
俺は界王拳に匹敵するほどの重力に耐えかねて地面に手をついた。これほど体が重いのは仕事のトラブルで二連続徹夜した後の朝レベルだ。
意識が途切れる寸前には良く聞く走馬灯が。
爆発的に分泌されたセロトニンに乗って駆け抜ける景色と感情は、家族への感謝と、友人の顔と、別れた彼女と、楽しかった思い出と、今死ぬことへの申し訳なさと。
そして圧倒的な後悔だった。
その絶望的な閉塞感は眼前を塗りつぶした暗転色のようだ。
―なぜ俺はこれほど後悔しているのだろうか。
死ぬ直前とは冗句的にも物理的にも笑えないが、今まで漠然と気づきながらも蓋をしていたその理由が、制御を失った脳から映像を伴って漏れ出した。
高校での部活選択も、進路選択も。
大学でのサークル選びも就職活動も。
社会人でのキャリアパスも。
―ああ、まだまだある。
理不尽な取引先に対して飲み込んだ反論も。
疎遠になった友人にかけてあげられなかった励ましも。
他界した父に言えなかった感謝も。
愛していた彼女に結局伝えられなかった言葉も。
心のずっと奥にあって、ついぞ向き合えなかった夢も。
数え上げればキリがない。
そうだ。
俺は冒険しなかった。踏み出さなかった。
困難で不確かな道を選ぶことができず、後悔しつつも安寧を捨てることもできず、さりとて次につなげることもできず、ついに死ぬまで自分を変えることができなかった。
生きていれば選ぶことのできた数多の選択肢を、俺は俺の手で放棄した。
抱えきれないほどの悔悟を、死ぬ間際にようやく心底理解する。
神様。神様どうか。
やっとわかったんだ。今やっとわかったんだ。
―もっと正直に生きればよかった。本当にそれだけだった。
もし、もしも次があるなら。次こそ。
俺の中にある素直な願望を、俺は絶対に偽らない。
「まあ、常識の範囲内だけどね……」
全て欲望のままに行動ってわけにはいかんよなぁ。という思考を最後に。
横たわる身体から脈動が消え、生気が抜け、熱が失われ、大切な何かを手放したと同時に、直前の感謝と後悔と決意はあっけなく地球上から消え失せ、後には空になった身体だけが現世に取り残された。




