塵埃の中心
朝日を全身に浴びながら、寝ぼけた頭を起こし、ハンドルを強く握りなおす。ゴーグルの縁に溜まった梅雨を指で拭うと、余計に視界が悪くなったのでゴーグルを上げる。
二週間と五日、ほぼ休みなくオートバイを走らせていると、線路沿いの道に入る。ここ数日で、道路を行き交う自動車が増えてきた。三輪の車体は前身からハンドルが伸びており、運転手は器用にそれを操っている。自動車はまだ大頭してから日が浅いはずだが、既に馬車の存在意義を奪いきっていた。
通行の多さは目的地が近づいてきた証左だ。すれ違う人々の顔を流し見しつつ運転していると、丁度よく後方から地鳴りのような振動が近づいてくる。音の方を見遣る。
「おお、これが共和国最長の蒸気機関車。真っ黒だな」
感想を口にしてから、我ながら単純だと自嘲する。しかし、そう言いたくなるほど真っ黒だ。
石炭が燃焼した黒煙と、沸騰した水が噴き出す水蒸気が車両の煙突パイプから共に噴き出し、それによって得られる回転力が動輪に配されたクランクを伝って、巌のような黒鉄の塊に前進する力を与えている。その様は人を飲み込む大蛇が高速で前進しているようだ。
アイボリーブラックの機関車D58112は、あっという間にスイフを追い抜いていく。
「もうここから、共和国って見えるんだ。国の中にいるときは分からなかったけど、本当に大きいんだ」
機関車を追った視線の先、遠景に国が見えてくる。道路はその中へ吸い込まれるように続いている。
チェイル共和国。
かつてスイフが暮らしていた貧民区が存在している場所であり、アジギトが消息を絶った国だ。
チェイル共和国は蒸気機関の発展によって栄えた国であると共に、その実害を一身に受けた国でもある。
技術士ジャーゼルによって開発されたジャーゼルエンジンは、それまでのエネルギー源を過去のものにした。国家のエネルギー問題を解決するに始まり、日常生活品の向上にも貢献した。国民の生活を一変させ、国内には煙突やガス管が溢れ、どこもかしこも石炭を燃やした黒煙と、圧力に用いる水蒸気が立ち上るようになった。結果、一つの問題が発生した。
スモッグ公害だ。空を覆いつくしたスモッグは一万千人の国民の命を奪った。それでも、人々がこの国から離れることは無く、発展を求めて更に国外から人間が訪れる。このスモッグ被害をチェイルスモッグと呼ぶ。
「ああ、あの田舎ね。俺のとこの同僚がここの出身だったよ」
入国審査官の壮年はそう言って、その同僚を思い出すように視線を上に向けていた。スイフは相槌を打つことに終始し、無事突破して荷物を手に入国してからため息を吐いた。後でオートバイを取りにいかないといけない。しかし、眼前に広がる街並みを見て、感嘆の声を漏らす。
「当たり前だけど、田舎とは雲泥の差だよね」
地平線まで伸びていると錯覚してしまそうな大路の街路を、様々な人々が往来している。彼らを呼び込むために必死に声を張り上げている出店が並び、それを迷惑そうに店舗の店員が睨んでいた。人ごみに踏みつけにされた猫が、裏路地に逃げ込んでいる。蒸気機関車に繋がれた汽車のように、車幅感覚を麻痺させた自動車が大量に走っていた。
すごい活気に満ち溢れている。しかし、ここまでならただの都会の風景だ。
異様なのは、あちらこちらでガスマスクを装着している者を視認できることだ。三人に二人は付けている。むしろスイフのように付けていない者の方が異端だ。一時に比べ、スモッグ浄化政策によって大気汚染率は低下したものの、決して油断をしてはいけないレベルではある。チェイル共和国の内では、ガスマスクは正装の一つと言えた。もちろん、マスク一つとっても皆と差をつけるチャンスと捉えるものは多い。華美な装飾を付けた者からワンポイントにハートや花弁の模様で彩ったもの、中には口元だけを覆ったシリーズもあるとか。オシャレのために寿命を削っているのだ。スイフはその辺りには精通しておらず、アジギトが特注品を作成している所を眺めていた程度だった。
辺りの人々や建物に視線が釘付けになっていたせいで、正面がおろそかになっていた。前方に現れた人影と接触する。よろめきながら謝罪を口にした。
「っと、すみません。不注意でした」
まずい。
頭を下げながら、内心で冷や汗を流す。ぶつかった相手が良くない。
「いや、こちらにも非はある。気にしないでくれ」
相手はそう言って、ガスマスクを外して快美な微笑を浮かべた。顔を一瞬だけ見せるのもこの国のよくあるマナーだ。再びマスクを顔に戻す相手は、紺色の軍服で身を包んでいる。
チェイル正規軍。
二人一組で巡回中らしい軍人の片割れが「観光客かな?」と尋ねてきたため、スイフは笑みを貼り付けて肯定する。意識して笑顔を作らないと仏頂面だとアジギトに指摘されてから、意識して表情を作っているのだ。
そこらの出店で買ってきたのだろう焼き菓子を、袋から取り出しながら片割れが言う。
「君はマスクを付けないのかい。数週間滞在するだけなら、それでも構わないのかもしれないが、長期滞在を考えているなら、着用をお勧めするよ」
片割れが差し出した焼き菓子を受け取りながら、スイフは礼を言う。
「ありがとうございます。近くの店で見繕ってみますね。あの、ついでに教えてほしいのですが、このあたりにいいホテルなどは…」
宿泊施設の場所や、美味しい料理亭、おすすめのマスクを扱っている店を尋ねた。本当に知りたい情報だったわけではないが、下手な態度を取って、面倒なことになるのを避けたかった。
最後まで柔和な笑みを浮かべていた軍人と別れ、足早にその場を離れた。
「いくら心の準備が出来てなかったからって、もう少しちゃんとしろよな」
己を叱咤しながら近くの路地裏に入り込み、焦りを鎮める。別に悪いことをしているわけではないが、あまり素性を探られたくない訳もあった。辺りを観察してみれば、紺色の軍服をまとった人物がそこかしこに二人一組でいる。
「なんだろう? こんなに沢山の人数で巡回するのは当たり前なのかな」
これだけの人通りなら、それだけトラブルも多いだろう。気にすることも無いのかもしれない。それより、目的地に早く向かわなければならない。観光気分が吹き飛んだことで、主目的を思い出すことができた。
「きゃん」
表通りから犬が逃げ出してきた。人ごみにもみくちゃにされたのか、その様子は弱弱しい。先ほどもらった焼き菓子を放り投げる。そもそも食べられないので、惜しくもない。
「……どこかで地図でも買おうかな。家から持ってきたものは古いはずだし。でも、一応地元なんだし、歩いているうちにたどり着けるか」
そのまま路地裏を進んでいくことにした。