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彼女は肺を背負っている  作者: 久米 藍
プロローグ
1/31

フロックコートのガスマスク

父さんと母さんは優しかった。

僕に手を上げたことなど一度もない。ここに僕を置いていこうとも、最後まで口減らしなんて口にしなかった。

人は最後だと思うと、余計なことを言う、と路地裏で一度だけ話したあかっぱなのおじさんが言っていた。それでも、父さんと母さんは最後までずっと謝り続けていて、愛していると何度も口にした。

 だから、捨てられても恨んでいない。けれど、最後まで僕の顔をちゃんと見てくれなかった。







 上空を厚い暗雲に覆われた国。蒸気機関の発展と、その代償により甚大なスモッグ被害をもたらされている。その一角にある貧民区の路地裏で、少年はうずくまりながら、乾いた喉を苦し気に鳴らした。少年は身体を動かすこともできないほど衰弱していた。

 辺りには少年と大差ない様相を呈する大人や子供が、あちこちに散らばっている。子供は何かを求め放浪し、大人は座り込み血走った目で虚空を睨んでいた。

建築物には煙突パイプが群生したキノコのように生えそろい、地面からも人間が顔を突っ込めるほど大きな口を開けたガス管が、一角に並列に生えている。筒はどれも例外なく排気ガスを吐きだし続けていた。管のフチから汚水が垂れ、ぬるい湿気と淀みのある空気を生み出している。微風がガスを顔に押し付けてきた。


 もう起きないと思ったんだけどな。


少年はせき込みながら自らを顧みて、生きていることに少し驚いた。もう死ぬだろうと算段をつけ、抗うことなくうずくまっていたのだ。存外しぶといらしい。それでも、身体を動かせるだけの体力があるわけでもなく。排気ガスによって衰えた肺は、わずかな呼吸をくりかえす程度。着実に終わりが近づいていることには変わりない。


 お腹の中に何か入れたの、いつだっけ? 喉が痛い。水。


 生理的欲求が自身の中に生じ始めたことに気づき、少年は再び目を閉じることにした。


 足音?


 複数の足音が地面を通して伝わってくる。ほとんどが裸足だ。だが、ブーツの踵が地面を叩く音が、一つだけ混じっている。

 顔を緩慢に上げると、少年の前を一人が通り過ぎた。

 その人物はフロックコートを身にまとい、顔にガスマスクを付けていた。口元のフィルターから蛇腹チューブが伸び、コートの襟もとに入り込んでいる。頬には双頭蛇のマーク。

 ガスマスクの後を、数人の子供がふらついた足で追いかけていた。


 外の人だ。


 少年は真鍮色の瞳を見開いた。この貧民区に外の区画の人間が入り込むことはめったにない。必要が無いし、危険だからだ。身なりからして、貧民区の人間でないことは間違いなかった。服装はまだしも、顔を覆っているマスクは間違いなく高価だ。

 後をついている子供たちは貧民区の子だ。一人の子がコートの裾を掴むが、ガスマスクは気に留めた様子はない。歩き続けて、子供を引き離す。


 なんでこんなところに?


 疑問を覚えた。そして、そこで思考は止まる。


 どうだっていい。


「……」


「……?」


 ガスマスクが一瞬、少年に顔を向けた。マスクの奥にあるはずの瞳と、目線が交わった気がした。

 なんで僕を見た?

 少しの混乱を味わっているうちに、ガスマスクは視線を切って歩き始める。


 誰なんだ?


 疑問を止めることが出来なかった。どうしてこんなところに現れた。


 なぜ、僕を見た。僕の何を見たんだ。

 とりとめのない疑問が頭を埋め尽くす。先ほどまで何もしないでいようと決めたはずなのに、

思考は止まらない。


 まさか、合わせる顔がない家族が様子を見に来たなんてことはある? 


 自分はもうじき死ぬ。だったら、この気持ちをすっきりさせてから死にたい。

 最後の我がままだと、無理やり動機を得た。

 数日ぶりに身体を持ち上げた。足がもつれ壁に手を付きながら、わずかに上体を起こしていく。排気ガスで石のようになった肺がわずかな収縮を繰り返す。呼吸が乱れるなんてものじゃない。呼吸すらままならない。それでも、この行動の後は死ぬだけだと考えたら、気持ちだけは楽になった。

 ガスマスクを追う集団に入り、歩き出す。ガスマスクは後ろを気にも留めず、歩き続ける。

 コートの裾を掴んだまま死んだら、ガスマスクはどんな表情をするだろう。

 歩きながら、そんなことを考えた。ただ飢えていた。自分の死が誰かに影響を与えることができたら、とても愉快な気がしたのだ。

 進むうちに、一人の子供が転ぶ。そのまま起き上がらず、景色に流れていく。また誰かが転んだ。そうやって、少しずつ少しずつガスマスクを追いかける子供の数が減っていく。

 少年は無心とは程遠く、歩き続けた。なんでこんな苦しいことをやっているのか。その答えを好奇心で塗りつぶした。ただ知りたいのだ。この行動の結果を。

 気が付くと、追手は少年だけになっていた。そのことにも気づかず歩き続けていると、ガスマスクが唐突に足を止めた。


「ここまで付いてきたな」


 頭上から届いた声に少年の動きが固まった。静かな女性の声だったのだ。そして、少年は辺りの変化に気が付く。地面から生えているガス管が一本もなく、建築物の壁面は凹凸なく滑らかで、地面も同様だ。ガス管から垂れる水の異臭もしない。


 ……ここ、貧民区の外。


 気づきと共に身体の疲労を思い出し、前のめりに倒れた。ガスマスクは少年を拾い上げ、肩に担ぐ。


「なんだ、ここまで着いてきたから頑丈な方かと思いきや、死にかけだな。肺が鉛のようだ。まあ、そちらの方がこちらとしてもやりやすい」


「……何、を」


 言っているんだ。その後が続かない。それでも、ガスマスクには伝わったようだ。


「私は材料を調達しに来たんだ。人間を使うのは初めてでな。だからここまで着いてこられるような奴を探してた。お前」


 マスクを外した。


「生きたいなら、身体を私に提供してくれないか?」


彼女は後ろで纏めていたらしい黒髪を下ろし、マリンブルーの瞳で少年を射抜く。好奇心に狂気をほんの少し混ぜたような濃い青。

彼女は少年をじっと見つめる。なんの遠慮もなく、少年の存在を認める。 

 決定事項のように彼女はそう言った。いや、実際その通りだ。少年はここまで着いてきた。

その先にあるものを期待したのだ。


「…………やる」


「交渉成立だ。私はアジギト・ウル。〝蒸気技師〟だ。お前は?」


「……?」


「名前に決まっているだろう。あぁ、貧民区ではないこともあるのか」


「スイフ」


 するりと口に出た。誰にも名前を伝える機会など無かったのに。まるで待ち望んでいたかのようだ。妙な気恥ずかしさを覚えた。死にかけであっても。


「スイフか」


 アジギトはそう呟いて、それ以上何も言わなかった。道中、肩が痛くなってきたのか、アジギトはスイフを背負う形に切り替える。背中越しに伝わる熱の温かさに、スイフは驚いた。

 温かさに眠くなってきた。ぼやけた頭で台詞を拾う。男の声だ。


「戻ってきましたか。はぁ、そんな皮と骨だけのガキで良いんですか? さすがにそれよりは健康なのもいたでしょうよ」


 失礼な言葉は耳を通り抜けていく。


「うるさい。私が決めたのだから、口出しするな」


 死ぬのではなく眠るのだと、どうしてか確信をもって、少年は安心して意識を手放した。





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