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失恋考察記 長編とスピンオフ

貴族の結婚

作者: 藍生蕗


 伯爵位を継承すると同時に結婚するようにと、父から言いつかった。

 それが勅命によるものだとは、言われなくても分かっていた。


 リカルド・エルトナとオリビア・セイデナルの婚姻は婚約期間二ヶ月という短期間で結ばれた。

 セイデナルの家は没落寸前の男爵家であり、オリビアの両親は今回の婚姻をいたく喜び、リカルドに感謝していた。

 当たり前だが持参金も無く、支度金の殆どは実家に融通されたようで、花嫁の衣装は楚々としたものだった。


 この勅命はリカルドへの第二皇子による嫌がらせの一つだと言う事は知っている。

 公には皇族による魔術の素養を高位貴族に根付かせる政策。このままでは魔術の扱いは平民の方が長けているという図式が出来上がるという危機感から、婚姻に皇族が口を出すようになった。当然だが高位貴族からは強い抵抗がある。


 だが婚姻にしても魔術の素養についても皇族に全て委ねる事は貴族院としても看過できないそうだ。そしてリカルドは伯爵であり、高位貴族という程でもない。

 また婚約者も先を約束した恋人もいない事から、そんな大義名分を当て擦られるのにも都合も良かった。


 隣で黙って佇む花嫁を見たところで、その様子はヴェールに隠れ分からない。神父に誓いの口付けを促されたが、リカルドは必要無いと首を横に振り、さっさと結婚証明書にサインを済ませた。花嫁がヴェール越しにじっとこちらを見上げていたが、気にならなかった。


 ◇ ◇ ◇


 新婚の初夜にまるきり放って置く訳にもいかず、リカルドは夫婦の寝室に足を運んだ。別に初夜を遂行する為では無い。こんな気持ちで夫婦の契りを結ぶ気にはなれないからだ。


 かといって別に花嫁が悪い訳でもない事は分かっている。ただリカルドの感情が追いつかないだけだ。

 そんな事を考え、ノックと共に扉を開けてリカルドは瞠目した。

 身繕いをした妻がちょこりと床に座り込んで待ち構えていたからだ。


「な、何をしているんだ」


 思わず上擦った声が出る。

 妻は────オリビアは、にこりとリカルドに笑いかけ、両手を揃えて平頭した。東洋文化────土下座?


「旦那様、旦那様に別に恋人がいた事、私は聞いておりました」


「────は?」


 妻の唐突な行動に虚をつかれ、思わず間抜けな声が出た。

 けれどそんなものは意に介さない様子で彼女は話し続ける。


「それでも我が家の窮地を救う為に、あなたとの婚姻はとても断れない……いえ、何としても成功させたい案件だったのです」


「……」


 急にがばりと顔を上げるオリビアに、リカルドはびくりと肩を跳ねさせる。


「しかしこんな不毛な時間は直ぐに解消させますからご安心ください。では私はこれから出掛けますので、後はよろしくお願いします」


 何を言っているのかさっぱり分からない。

 そういえば短い婚約期間中も片手で足りる程度にしか会っていないし、何を話したかもほぼ覚えていない。正直リカルドも押し付けられたこの婚姻に前向きでは無かったし、彼女を気にかける余裕も無かった。


 そういう意味では人となりを全く理解しないまま結婚したと言える。勅命と、元家長である父の命令だったから。


 リカルドが呆然としている間にもオリビアは、よっこいしょと近くに纏めてあった荷物を背負い込んだ。

 よく見ると夜着では無い服に外套を羽織っている。


「どこに行くんだ」


 外はもう暗い。しかも一応今日は初夜だ。……いや、自分がこれを言うのは間違っているような気もするが。


「え?魔術院です」


 何を当然の事をという顔でオリビアが返す。


「こんな時間にか?」


 正直人目を忍んでやましい事でもしにいくのでは……それならこんな堂々と出て行かないか。しかし、こんな夜更けに……。

 リカルドは思わず額を抑えた。


「時間なんて関係ありません。私は研究したい時にしたいのです。それにもう少しですから」


「もう少し?」


 なんとなく耳が拾った言葉を問い返す。


「私たちがお互い幸せになるまでです。旦那様」


 にっこりと笑う妻の言葉が通じなくて頭痛がしてきそうだ。


「では行って参ります」


 すたすたと寝室から出て行く妻の背中────正確には荷物しか見えなかったが────を、リカルドは呆然と見送った。

 ドアが閉まる様を見ていたら急にムカムカと腹の中から苛立ちが湧き上がり、勝手にしろと大声で叫んでいた。


 ◇ ◇ ◇


 以来妻は一週間ほど帰っていない。びっくりするくらい音信が無い。

 初夜の翌朝、伯爵夫人が部屋どころか屋敷内にいないと騒然となった。そう言えば腹が立ちすぎて誰にも告げずにベットに入ったのだった。勿論私室に入れてある一人用のものだ。


 朝から執事に叩き起こされ、その話をしたら怒られた。女性一人、夜中に外に出した事を告げれば、信じられないものを見るような目で見られ、流石にバツが悪くなった。


 この屋敷は皇城から近く、この辺りの治安は良い。憲兵が昼夜を問わず巡回しているからだ。

 また競うように魔術院も防犯に力を入れている。

 この二つが自分たちの価値を争っている限り、不審者を見逃す事は決して無い。

 ……だが、だからといって夜に女性の一人歩きを許すなど常識的ではない。それが己の妻であるなら、尚更許す夫など紳士の風上にも置けないだろう。リカルドは思わず渋面を作った。分かっている。自分が悪い。


 有能な執事はすぐさま彼女の無事を確認し、物凄く冷たい目で報告してくれた。

 勝手に馬に乗ろうとしていたのに驚き、馬番が馬車を用意してくれたらしい。聞いた時は流石にほっとした。多めに渡した臨時収入には勿論口止め料も含まれている。


 以後屋敷内には微妙な空気が漂っている。

 険悪な夫婦どころか、結婚初夜に妻に逃げられた無様な夫扱いだ。


 年配の執事は婚約期間中に誠意が足りなかっただの、奥様が可哀想だのと嘆いてくる。

 顔を合わせる度にぐちぐち言われてる自分は可哀想ではないのかと反論したいが、どうせ倍になって嫌味を返されるだけだろうから黙って聞いていた。


 それにしても帰って来ないな。

 魔術院と言っていたが、彼女はそこで住み込みで働いてでもいたのだろうか。確か魔術の素養を持っていた筈ではあるが。そんな事を侍女頭に聞いてみたら、驚愕の目で見られた。似たもの夫婦め。


「なんなんだ。私の態度が悪かったのは認めるが、いくらなんでも彼女も意地を張りすぎだと言っているんだ」


 侍女頭は苦いものでも口にしたような顔をしてから、口を開いた。


「旦那様、奥様は魔術院にお勤めなんですよ」


 やはりそうかとリカルドは得心した。

 それと同時にこの屋敷より、職場の方が良いと逃げ込む心情に申し訳ないような気持ちと何故か苛立ちが湧いた。


「そうか、伯爵夫人よりも掃除婦の方が彼女には心労を与えないか」


 その言葉に侍女頭は口をあんぐりと開けて固まった。


「な、なんだジェイン」


 どう見ても過剰な反応にリカルドも焦る。


「旦那様……ご存知無かったのですか?」


「……何がだ」


 眉根を寄せるリカルドにジェインは口を開き掛けたものの、何かを思い立ったように、少々お待ち下さいとぱたぱたと退室していった。


 少ししてジェインは大衆向けの雑誌と平民用の新聞────簡易の瓦版をいくつか手に戻ってきた。

 それを、どうぞとリカルドの手に押し付けてくる。

 訝しみながらそれに目を向ければすぐに妻の名が目に入ってきた。


 天才、秀才、奇才。その全てが妻を評する言葉であり、賛辞であり冷評であった。

 リカルドは目を丸くした。

 評価云々ではなく、自分の妻が平民向けとは言え新聞を賑わせている。


「な……」


 慌てて他の紙面にも手を伸ばせばどれも彼女を語り、中には信者めいた言葉が連なっていてリカルドは目眩がしそうになる。


「か、彼女は有名人だったのか?」


 その言葉にジェインは、両手を腰に当て、はあやれやれと首を横に振った。


「旦那様のような高貴な方々は、こんなもの読まないかもしれませんがね、ご自身の妻となられる方ですよ。どうして知らないんですか」


 本気で呆れ返る侍女頭はリカルドの母親代わりでもある。

 リカルドの両親はいわゆる貴族の結婚で、結婚後も上手くいかなかった典型だ。


 幼い頃は不憫に思ったのか、両親に隠れてこっそりと甘やかしてくれた人でもある。夫である執事もまた、リカルドと弟を育んでくれた一人だ。その為、リカルドは彼らに気安い態度を許してしまうが、こき下ろされていい気はしない。


「そんな気分にはなれなかったんだ」


 憮然と告げるリカルドにジェインは一つため息を吐き、雑誌の一つを手に取り説明を始めた。


「奥様は魔術院で優秀な魔女と称されていて、私共庶民の憧れでもあるんですよ」


「どういう事だ?彼女は一応貴族だし、何故それ程平民に、市井(しせい)で人気があるんだ」


「奥様が庶民の為になる研究を第一に考えているからです。第一人者のウォレット・ウィリス様は流石に旦那様もご存知でしょう?」


 きらりと光るジェインの目にリカルドは慌てて首肯した。


「当然だ」


 彼こそ貴族界切っての魔術研究の天才であり、また、魔術院長である父親との見識の違いから、自ら平民落ちした有名な異端児だ。

 魔術と貴族。これへの隔絶は未だ根強い。


 ウィリスの生家であるフェルジェス家は代々魔術院長を担っている名家だ。だが魔術とは労働の元に産まれる道具の一つであり、それを担うのはあくまで平民というのが、一般的な貴族の考えであった。現フェルジェス家当主もそれに倣っている。


 なぜなら魔術は扱うものではなく、研究の上に成り立つ。

 我らの時代には、古の魔術師の扱った魔法のような現象など、夢物語の世界なのだから。


 だが魔術という特異な(すべ)を平民の方が扱いに長けている事を良しとしない貴族もいる。そして年々彼らの意見が強まり、今回リカルドが受けたような政略婚が試しに(・・・)施行された。

 貴族にとっての婚姻などその程度。分かってはいるが当事者となると、面白くないと思うのは仕方がないだろう。


 そもそもそれがただの表向きの理由だろうと、穿った見方をしてしまっている時点で、結婚自体受け入れがたいと思ってしまうのだから。


「奥様はウィリス様の共同研究者なのですよ」


 思考の波に攫われていたところ、差し伸べられた手にリカルドは瞠目した。


「何だって?」


 知らないそんなこと。彼女がそんな高等な魔道士だったなんて。いや、知ろうともしなかったのは自分だ。

 リカルドの頭に娘との婚姻に感謝していた義父母の顔が浮かぶ。それ程優秀なら他に貰い手ならあった筈だ。それこそ貴族の婚姻として有利に交渉する事だって出来ただろう。


 リカルドの疑念が顔に出ていたらしく、ジェインは少しだけバツの悪そうな顔をした。


「ですがオリビア様が自領での研究に失敗してしまって。セイデナル男爵領は一時的に多大な負債を抱え込んでしまったのです」


 研究に失敗というからには、持て(はや)される程優秀では無いのではなかろうか。

 眉根を寄せるリカルドにジェインは頬に手を当てため息をついた。


「何でも古代の魔術師が開発した毛生え薬の陣を発動した結果、男爵家の作物が毛まみれになってしまったらしくて」


「……」


「毛をむしれば食べられない事は無いのですが、手間だし、見栄えも悪いでしょう。それで売れなくて大損失を被ったらしいのですよ」


 何をやってるんだあの娘は……


「だけど、育毛の陣の発見は価値の高いもので、その成果で収支を相殺できれば良かったんですが、そこは魔術院が既得権益を巡って議論に発展してしまったらしくて、負債に充てるのに間に合わなかったようで」


 ため息がでる。


「もういい分かった」


 いや、何が分かったのかはわからないが。

 つまり妻は魔術院勤めの研究者で、その上かなりの変わり者であるという事だ。


「……で、研究にかこつけて魔術院から帰って来ないと」


 腕を組み口にすればジェインは不満そうな顔をしている。


「何だ、まだ何かあるのか」


 つい低い声で問えばジェインは首を横に振り、いいえと呟いた。


「失礼いたしました、私はこれで。昼食の際またお呼びいたします」


 訝しみながら退室を見送り、テーブルに散らばった妻の記事を整えて執務机に仕事に戻った。


 ◇ ◇ ◇


 部屋に夕日が差し込み、白い書類が朱色に染まった事に気づき手を止めた。

 仕事に区切りも良いので今日はこの位でいいだろう。

 ひと息つこうと呼び鈴に伸ばした手を止めて頬杖をつく。

 あの妻は今日も帰らないつもりだろうか。


 流石に一週間も経てばリカルドも頭が冷える。執事のディオスが毎日様子伺いと称して魔術院まで使いを送っている事も知っているが見ないふりをしていた。だが限界だろう。


 この結婚を快く思っていなかった事は認めるが、受けたのは自分だ。嫌だったのなら伯爵家を継がず、それこそウィリスのように平民落ちし我を通せば良かったのだ。


 弟に譲る事も論外だ。あれは父母の影響を受けすぎており、絶対に恋愛結婚すると息巻き、実行した。それは別にいいのだが、二人で盛り上がり過ぎて伯爵家を疎かにされても困る。


 自分には別に理想の結婚など無かった。だからこれもまた都合の良い事なのだ。

 妻を迎えに行こう。自分も意地を張り過ぎた。

 一つ息を吐き、呼び鈴を鳴らした。


 ◇ ◇ ◇


 夕闇が迫る時間帯、リカルドは魔術院に馬車で乗り入れた。妻を迎えに行くだけなので軽装で済ませたのだが、何故かジェインに感激され、あれこれ世話を焼かれた。


 リカルドは黒髪黒目の鋭利な顔つきな貴公子である。

 あまり笑わないので、ジェインには勿体ないとよくぼやかれるが、面白くないのに笑えないのだからしょうがない。


 よく不機嫌と誤解もされるし、令嬢からも遠巻きにされて人気は無い。だからこそ遠巻きにチラチラと視線を送られるのには慣れているし、多少の事では全く顔に出ないし動じない。

 だが受付で案内され訪れた妻の執務室に踏み込んだ途端、リカルドは驚愕に顔を歪めた。


 ◇ ◇ ◇


 まず妻を踏んづけた。

 驚きに身を逸らし、慌てて妻の身体を抱き寄せれば異臭が凄い。


 死んでいる?!


 焦ってゆすり起こせばどうやら眠ってらしく、口を開けて涎を垂らしていた。


 本気で何なのだこの娘は……!


 ぐったりと脱力して近くにあるソファに横たえれば、夢を見てによによと笑っている。


 ……馬鹿らしくなってくるのは自分だけだろうか。


 思わずその場に座り込み片手で髪を乱していると、唐突にドアが開いた。


「オリビアー。生きてるかあ」


 入ってきたのは髭面の男。よれよれの研究服に肩から翡翠の塔のローブを引っ掛けている。


「……誰だお前は……」


 リカルドは眉間に皺を寄せて男を睨んだ。


「お前こそ誰だよ」


 男は、顎を撫でながらリカルドを品定めするように眺めている。

 視線が眠る妻に向けられたのを見て、リカルドは口を開いた。


「彼女の夫だ」


 ああ……と、口にして得心したように笑みを浮かべた。


「良かったな、お前の妻は変わり者だがいいヤツだ。すぐ離縁できるぞ」


 その言葉にリカルドは固まる。


「……何を言ってる?」


 新婚一週間で離婚する夫婦などいるものか。醜聞以外の何ものでもないし、勅命なんだぞ。


「離縁したかったんだろう?」


 男は不思議そうに首を傾げている。

 オリビアを見れば相変わらず夢の世界を享受しているようで、こちらに全く気づく気配もない。イラっとする。


 聞きたい事、知りたい事が沢山あったが、目の前の見知らぬ男に問い詰めるのは気に入らなかった。


「失礼する」


 リカルドは立ち上がりオリビアを抱き上げた。

 思わず匂いに顔を顰めると、男が驚いたように道を開けた。


「またいつでもおいで」


 揶揄うような顔で気安く手を振る男を横目に、リカルドはさっさと馬車に乗り込み魔術院を後にした。


 ◇ ◇ ◇


 走る馬車の座席に妻を横たえ、自分は向かいに座った。

 よく眠る顔をじっと見て顔を顰める。一体どれだけ風呂に入っていないのか。腕を組み目を閉じて暫く時間をやり過ごす。


「……ぃ」


「……え?」


 小さな声に目を開ければ、妻が眠ったまま眉間に皺を寄せて何か呟いている。

 リカルドはそっと口元に耳を寄せて、その声を拾おうとする。


「お腹が空いたのでご飯下さい」


「……好きなだけ食べろ」


 つい寝言に突っ込んでしまった。帰って風呂に入れた後は夕食だ。

 まあいいかと、頭をがしがしと掻いて座り直すと向かい合った妻の口からまた言葉が紡がれた。


「失敗してごめんなさい」


「……」


 思わずそっと頭を撫でて顔を顰めた。屋敷に着いたらバスタブに頭から突っ込んでやる。そんな決意をしながら。


 ◇ ◇ ◇


「きゃぁああ! 旦那様止めて下さい!」


「うるさい黙れ! 大人しく風呂に入れ!」


 そう言い、バスタブに服を着たまま押し込んだ。石鹸を投げ込み上からシャワーを浴びせる。


「ひ、酷いです。旦那様……」


 泣きそうな顔の妻に、ふんと鼻を鳴らしリカルドはバスルームを後にした。

 外に控えていたジェインに憮然と口を開く。


「流石にあの格好で食堂に行こうとはしないだろう。悪いが洗うのを手伝ってやってくれ」


 こくこくと首肯するジェインの背中を見送り、ドアを離れるリカルドの背中に、クサっ! という侍女頭の声が聞こえてきてリカルドはげんなりと肩を落とした。


 まさか結婚式の日以来風呂に入っていないとは。そもそも女性としてどうなのだ。しかもあろう事か自分の妻である。


「はあ……」


 オリビアは勝手に魔術院から連れ出されたとリカルドにぼやいてきた。

 あんなところで倒れていたからだと怒れば、倒れていない寝てだだけだと憤慨された。

 やり途中の仕事を思い出し易いから、効率が良いのだとふんぞり返ってきたので先程バスタブに突っ込んできたが、何故か気は晴れず重くなった。


 この結婚にどう向き合っていけばいいのか、決意したばかりなのにもう挫けてしまいそうだ。

 自身の匂いを嗅ぎ、リカルドも風呂へと直行した。


 ◇ ◇ ◇


「わああ。美味しそう」


 ジェインに磨き上げられ、美しく装った妻はすっかり見違えていた。

 今は料理に夢中で、リカルドにはさっぱり目も向けないのが、些か面白くは無いが、


 美味しそうに食事を摂る妻にリカルドは何となく口にして聞いてみた。


「君は有名な魔道士だったんだな。全く知らなかった。魔術院では、その、どんな仕事をしているんだ?」


 オリビアはきょとんとした後、そうですねと一度視線を宙に投げた。


「魔術の素養を強く受け継ぐ者ほど研究に向いているんですよね。私は強い魔術に素養を持っていますから、専ら研究担当です」


「研究とは具体的に何を?」


「書物に残る魔術陣の発動を確かめたり、文献を追って魔術陣を復元したり。昔の魔術師たちが扱ったような魔術はもう使えませんから、その中から生活に有用な陣を探り当てて、起動を試みたり魔道具にします」


 そうか、と頷く。魔術史はアカデミーで学んだが、魔術の基礎知識は専門分野で選ばないと知らないままだ。


「君は市井から人気があると聞いた。貴族であるのに気さくで親しみやすい、良い関係を築けているのだな」


「……」


 その言葉にオリビアはなんとも言えないような顔をした。


「どうした?」


「いえ……」


「気になるから言いなさい。私たちは夫婦だろう」


 オリビアはびっくりした顔をして、リカルドを見た。

 何も間違えた事は言っていない筈だが……。


「……私は別に、市井に人気のある貴族という訳では無くて、ただそこにしか居場所の無い、弱小貴族なだけです」


「君は優秀だと聞いた。卑屈になる必要は無い」


「旦那様は不思議な事をおっしゃる」


 オリビアは苦笑してワインを煽った。


「貴族社会では労働は卑しいとされております。けれど私のような弱小貴族は働かなくては食べていけません。だから卑しい貧乏貴族と言われます」


 リカルドは顔を顰めた。確かに貴族としての評価はそうなってしまうだろう。実際男爵や子爵には経営手腕を発揮し、ひと財産築いたものもいるが、格式ばった貴族社会では嘲笑のネタだ。


 労働するくらいなら借金をして見栄を張り、汚点を隠す事に熱意を注ぐ。金と名誉を持つ者に擦り寄っていくくせに、

それが自分より立場の弱い者ならば貶める。歪んだ風習だ。


 ただこんな事は近いうちに変わるだろうとも思う。先日皇太子が選んだ婚約者は公爵家の娘だが、あの家は貴族の労働や、女性の社会進出に理解を示し、公言している。それを皇家が迎えたという事は、つまりそういう事なのだろう。


 時代の過渡期に置き去りにされれば貴族とて生きてはいけない。節目を敏感に感じ取り、追い風に乗る舵取りが爵位を持つ当主の役目だ。


「それに市井にも認められた訳ではありません。平民には貴族を嫌う人も多くいますから……」


 視線を俯けるオリビアにリカルドは眉根を寄せた。


「ならばどうして君は平民に喜ばれる魔道具や、陣の研究に勤しむんだ? 何が君を突き動かす」


 オリビアは困ったように微笑んだ。


「私、魔術が好きなのです」


 その表情にリカルドはどきりと胸を鳴らした。


「それに出来れば喜んで使ってくれる人に提供したいだけですわ」


「……そうか」


 オリビアは、ふうとひと息つき、満面の笑みで控えていたコックにお礼を言った。


「ありがとう。とても美味しかったです」


「勿体無いお言葉です、奥様」


 にこにこと笑う様子は子どもっぽいのに、たまに妙に大人びた顔で笑う。一体自分の妻にはどれ程の引き出しがあるのやら。リカルドは思わず綻びそうになる口元をワインを流し込んで誤魔化した。


 ◇ ◇ ◇


「オリビア、部屋でお茶を一緒に飲もう。今日はもう魔術院に戻る事は許さない」

 え、何故ですか旦那様。と当たり前のように理解が及んでいない妻をリカルドは半ば強引に夫婦の部屋にエスコートした。


「暗いから危ないだろう」


「え? 大丈夫でしたよ?」


「……たまたまだ。もう夜に魔術院に向かう事は禁止する。泊まるのも無しだ」


「な、何でですか!」


 必死の形相で撤回を試みようとする妻をすげなく断る。


「危ないからだ……」


「はあ……?」


「とにかく駄目だ」


 オリビアはそわそわと膝の上で指を持て余している。


「でも……」


「何だ」


 夫からの低い返事にオリビアはちらりと視線を向けてから、小さく口を開く。


「誤解されてしまいます」


 困ったような顔で見つめてくる妻にリカルドは困惑した。

 誰に何をと口にしかけて、自分の噂に思い至る。

 軽く額を押さえてため息を吐いた。


「君が何を聞いてきたのかは知らないが、私に愛する女性はいない」


 微かに身動ぎする妻の気配にリカルドは顔を上げ妻を見る。

 オリビアは、でもと口にし顔を俯けた。


「何だ」


 ちらりとリカルドに視線を送り、少しだけ顔を赤らめる。


「相手の女性はそう思ってはいないかもしれません。旦那様は、とても素敵な方ですから」


 リカルドは目を丸くした。女性にそんな風に言われた事は……

 思い至って頭を振る。そういえばそう言ってくれたのもあの人だけだった。


「ありえないな。あの人は高潔な女性だった。婚約者のいる身で違う男に心を寄せるような軟弱な精神は持ち合わせていない」


「……心当たりはあるのですね」


 ぽつりと呟くオリビアにリカルドは眉を上げた。


「違うと言っているだろう」


「……はい」


 そう言いながらも目を伏せるオリビアにリカルドは苛立った。


「何が不満なんだ」


 オリビアは一瞬何かを言いたそうな顔をしたものの、そのまま口を閉じ、何もと首を横に振った。

 そのままお互い無言でお茶を飲み干し、オリビアはごちそうさまでしたと退室していった。リカルドは顔も上げず、それをやり過ごす。聞こえてきた閉まるドアの音が、何故か非常に不愉快だった。


 ◇ ◇ ◇


 あれから二月が経った。

 妻は毎日朝早くから晩餐近い時間まで魔術院に通い詰めている。時間配分がおかしい。まるで彼女の家が魔術院のようだ。



「旦那様はおいくつになりましたか」


 執務室で黙々と仕事に集中していれば、執事が手紙を持って入室してきた。トレイに恭しく並べられたそれらをペーパーナイフで切っていると、執事の口からそんな言葉が出てきたので顔を上げる。


 じと目で話す執事にリカルドはむすりと振り返った。


「なんだ、知っているだろう。22歳だ」


「奥様はまだ16歳でごさいます」


「……何が言いたい」


 あからさまに息を吐き出す執事にリカルドは口をへの字にした。


「分かっている。だが彼女を見ているとつい苛立ってしまう」


 嫌な感じはしないのに何故だろう。

 研究に熱心なのは別に良い。リカルドは貴族だろうと女性だろうと結果を出す人間は好きだ。


 ただ彼女はそれ以上に自分の妻の筈だ。政略結婚とはいえそれは変わらない。なのにどうしてそのように振る舞わないんだ。

 彼女の振る舞いに思い当たるものがある。けれどそんな馬鹿なとすぐさま別の自分が否定する。


「まるで初恋に悩む少年のようですね」


「なんだって?」


 執事の温度の感じない声音に思わず反応した。

 だが執事はすい、と視線を逸らして口を閉ざした。リカルドの疑問には答えるつもりはなさそうだ。別に、とか口にしている。


「私は奥様が好きですよ。出来れば伯爵夫人として振る舞っていただければもっと嬉しいとは思いますが、そこは私どもがおりますし。奥様も事情がおありですし。そもそも旦那様は奥様が好きですか?」


 急にこちらを見て目を光らせる執事に動揺する。


「わ、私は別に……」


 リカルドの様子に微妙な顔の執事が続ける。


「旦那様は奥様とどうしたいのです。どんな夫婦になりたいのですか? 短い婚約期間に出来なかった話し合いを今からでもなさるべきです」


「……」


 暗に両親のようになりたくはないだろうと言われているようか気がした。


 オリビアは今朝早くに屋敷を出て魔術院に行った。

 気に入らないと思ってしまう。

 執事からじろじろと遠慮なく送られてくる視線に追われるように気持ちを認める。

 自分はあの妻とちゃんと夫婦になりたいのだと。

 だからこちらを見ずに魔術院にばかりかかりきる事が不満なのだ。

 自分だけ素直に気持ちを告げるのが照れ臭くて、彼女にもこちらを向いて欲しいと思っている。

 執事が大人気無いと言う筈だ。バツの悪い思いで顔を伏せた。


「今日夕方に魔術院に行く」


 呟いたリカルドに執事は恭しく頭を下げた。


 ◇ ◇ ◇


 オリビア・セイデナルは困窮した男爵家で生まれ育った。

 貴族らしからぬ服装に作業。貴族には蔑まれ平民にはいじめられる子どもだった。


 両親はオリビアに構えないくらい忙しかったから、彼女はいつも一人で耐えていた。

 子どもの頃偶然手にした魔術本の解読で自身の魔術の素養に気づき、実家の為に必死に勉強した。


 両親はオリビアの魔術に良い顔をしなかった。弱小貴族が魔術の素養を持つなど他所に知られたら何をされるか分からない。あくまでも秘密裏に、それでいて将来を約束された魔術院に勤められるようにと、彼女が学ぶ事を許した。



 ある時から家にある本では物足りないようになり、オリビアは歩いて二時間掛かる皇立の図書館まで通うようになった。行きと帰りにも歩きながら本を読み、時間を惜しまず勉強した。


 ある日ずっと返却を待っていた高等魔術書が棚にあると受付で確認し、オリビアは夢中で本棚に手を伸ばした。


 すると自分より大きな手がオリビアの手を払い除け、欲しかった本を奪っていった。呆然と本を見送るオリビアの視線の先には皮肉気な顔をした貴族の令息が立っていた。


「お前みたいな平民のガキが公共の図書館の本になんて触るな。汚らしい」


 オリビアは目を見開いた後口元をぎゅっと引き結んで俯いた。

 勉強する事が生意気だとか、女のくせにとか言われた事は多々あった。けれどそれ以上に酷い言葉をかけられるなんて思わなかった。


 黙っていると肩に衝撃を受け、続いて背中に痛みが走った。視界が回って気がついた。突き飛ばされたのだ。


「さっさと出てけよ」


 横になったオリビアの上に足を乗せ、令息は遠慮なく華奢な体を踏みつけた。


 涙が出そうになったが我慢した。それくらいしか反抗が出来なかった。声も出したくない。彼の綺麗にあつらえられた服装はきっと高い爵位のものだから、オリビアには結局何も出来ないのだから。


 必死に胸を圧迫する痛みに耐えていると、急に身体が軽くなった。困難になっていた呼吸を整えて、そっと首を巡らす。


 そこにはとっても怖い形相の男の人が立っていて、先程オリビアを踏みつけていた令息を拘束し腕を捻り上げていた。


「痛いぃっ!! 何をするんだ!! 俺は伯爵家の人間だぞ! こんな事をしてタダで済むと思っているのかっ……ああぁああ!! やめろ、腕が折れる!痛い!! やめてくれええ!!」


 男の人は冷たく目を眇めて口を開いた。


「仮にも爵位ある立場の者なら、その振る舞いに恥では無く誇りを持ったらどうだ? こんな小さな子どもを踏みつけるなんて貴族どころか、人として最低だ」


「ううるさい! いい加減離せ! 痛いぃ! やめろおお!」


「うるさいのはお前だよ。この子はお前に殴られても踏まれても一言も泣き声を言わなかったと言うのに。そもそも皇立の図書館に身分による規制は無い」


 そんな事も知らないのか、と言いながら男の人は貴族の令息を(ほお)った。バランスを崩してべしゃっと倒れ込んだ令息はよたよたと起き上がり、ギリリと男の人を睨みつける。そうして彼の顔を見てはっと息をのんだ。


「文句があるなら我が家に苦情を入れに来るといい。皇立の図書館で子どもに嫌がらせをした挙句、踏みつけにして騒いでいたと私もしかるべき場所に出て説明させて貰う」


 その言葉に令息は目を泳がせ慌てて去っていった。

 オリビアも騒ぎを起こしてしまった気まずさから、慌てて立ち上がり帰ろうとした。けれど上手く立てずにたたらを踏んだところで男の人に支えられ、目を丸くした。


「大丈夫か?」


 黒髪黒目のその人は、先程の怒りの形相から一転して労りの表情でオリビアを見つめていた。


「すまなかった。私も貴族の一人として、恥ずかしく思う」


 オリビアは必死に首を横に振った。自分も貴族だ。けれど恥ずかしいくらいに貧乏で、そうだなんて言う勇気は無かった。


 男の人は先程令息が落として行った本を手に取りオリビアに差し出した。


「こんなに難しい本が読めるなんて凄いな」


 その言葉にオリビアは目を見開く。

 そんな言葉生まれて初めて聞いた。

 固まっていると男の人の手がオリビアの頭をそっと撫でた。


「小さいのに頑張って、偉いな」


 ボロリと涙が(こぼ)れる。

 怖かったな、もう大丈夫だよ、と言って慰めてくれる手にオリビアはそうじゃないと心の中で首を振った。


 嬉しいのだ。


 初めて、本当に初めて貰った優しい言葉。止まらない涙が温かくて、胸が痛くて。

 そうしてオリビアは生まれて初めて人を好きになった。


 ◇ ◇ ◇


「旦那様は覚えていないと思うわ」


 その呟きにウォレットは視線だけをオリビアに向けた。

 お互い作業中で、背中合わせで視界に入らない方が集中しやすい質だ。


 オリビアは陣を目に写し、解読内容を別途ノートに記載していく。魔術の素養が高ければただの転写ですむ。低ければ暗号解読だ。けれどこれを魔道具に活かすセンスはウォレットが群を抜いて凄い。


 その後も図書館に通ったが、たまに見かけても恥ずかしくて声が掛けられなかった事。……綺麗な女の人と一緒だった事。五年も前の事だ。


 オリビアが努力したのは実家の事があり、這い上がりたいと思ったからだが、人に優しくしたいと思うようになったのはリカルドの温かい手が嬉しかったからだ。

 良い事をすれば彼に褒められているような気分になった。

 だから必然的に立場の弱い者の味方になっていただけで、別にオリビア自身が優しい人間という訳ではない。


 けれどオリビアが魔術院に合格してその実力を認められるようになっても、リカルドから受けたような幸福感のある衝撃には巡り会えなかった。


 ずっと忘れられなかった初恋の人。


 オリビアがそれを自覚したのは魔術院で一度だけリカルドを見かけたからだ。

 その時も以前に見たあの女の人が隣にいた。お似合いだと思ったらまた涙が溢れて、胸の痛みに戸惑った。


 やっぱり声を掛けられず、自分の執務室に戻り、ふと部屋の隅に立て掛けられていた姿見に目が留まった。


 みすぼらしい。


 研究しか取り柄の無い、性別だけは女の自分。魔術師長には、お前など魔術院で使ってやってるんだと侮蔑の目を向けられた事が唐突に胸を軋ませる。自分を評す沢山の蔑称が頭に響き、ぼろぼろと涙が溢れた。


 ◇ ◇ ◇


 座り込んで泣いているオリビアに驚き、また親父が何か言ったのかと、ウォレットは怒りを露わにした。

 オリビアは首を振ってリカルドの事を話した。

 ウォレットはオリビアを認めて、肩を並べて研究してくれる大事な相棒だった。


 そして一年後、リカルドと図書館で会ってから五年後、リカルドとオリビアが勅令により結婚を命じられた。

 オリビアは噂しか知らなかったが、リカルドが連れていたあの女性がディアナであると知った。第二皇子の元婚約者────だから噂は噂だけで無いと考えた。


 断る手段はあっただろう。自分なんて死んだ事にでもすればいい。伯爵家との繋がりに実家の両親は喜んだが、別にオリビアの幸せを喜んだ訳では無い。彼らも考え方はあくまでも貴族なのだ。もっと利のある提供をすればきっと頷かせる事は出来る。


 でも……


 リカルドと夫婦になれる。

 オリビアは自分の浅ましさに顔を歪めたが、この気持ちだけはどうしても消せなかった。

 一度だけ会ってみよう。言い訳のように取り繕い、オリビアはリカルドに会える期待に胸を弾ませた。


 ◇ ◇ ◇


 彼の目は冷たかった。何も写していないようにも見えた。

 オリビアは愕然とした。家人たちが一生懸命オリビアを気遣ってくれているように感じたが、感謝できる余裕は無かった。


「婚姻をお断りしましょうか……」


 気づけばそんな事を口にしていた。だがリカルドはその言葉に鋭い目を向けてきた。


「そんな事をすれば我が家の家名に傷がつく。それがどういう事か君に理解出来ないとは嘆かわしい。すぐ変わるように。教育が必要なら執事に用意させよう」


 オリビアは身体を強張らせた。彼は自分を知っている。貴族令嬢らしからぬ醜聞まみれの自分を。

 恥ずかしくなって俯いたオリビアに、リカルドは仕事があるからと退室して行った。


 やっぱり会わなければ良かった。

 リカルドの冷たい目や言葉よりも、自分が彼にどう認識されてきたかの方が悲しかった。彼もまた労働する貴族女性は嫌うのだ。あの時褒めてくれたのは、オリビアを平民だと思ったからだった。


 ◇ ◇ ◇


「だからって離縁するのか。会ってみたら長年抱えていた恋慕も冷めたのか?」


 ウォレットの声にオリビアは手を止めた。

 冷めてなんていない。

 オリビアは首を横に振った。


「離婚すれば旦那様は不本意な婚姻から自由になれる。私も、心苦しい思いから解放されるわ。それに……力不足だと思うもの」


 自分が妻としての責務を果たせていないとリカルドが訴えれば、離婚出来るのではなかろうか。

 何せ自分は貴族女性らしくない。……リカルドだってきっともう、うんざりしている。


「お前は逃げてしかいないじゃないか」


 言われてオリビアは唇を噛み締めた。


「ウォレットに何が分かるの。旦那様は婚姻の日、誓ってくださらなかったわ……」


 リカルドは書類にサインしただけだ。オリビアと向き合う事をせず、結婚に了承した。貴族の結婚はこういうものだとあの時理解したのだ。


「それなら尚更お前が逃げたら歩み寄れないじゃないか。努力もせず結果だけ欲しがるなんて、らしくないな」


 仕事と恋は一緒なのだろうか。


「頑張れよオリビア。それであの男がお前の気持ちを蔑ろにするようなクズだったら、俺がぶん殴ってやる」


「ウォレット、あなたもう平民なんだから貴族に手を上げてはダメでしょう」


 思わず苦笑するオリビアにウォレットは、そういえばそうだったと、呵呵(かか)と笑った。


「……楽しそうだな」


 低くよく響く声にオリビアははっと振り返った。


 ◇ ◇ ◇


 妻の執務室にはドアが無い。

 男女で研究を共にしている配慮だろうか。

 だから歩いていると部屋での会話が廊下に響き、聞こえてきた。


 離婚 恋 逃げる 努力 俺が殴ってやる……


 誰が誰を殴るというのか。

 じろりと睨めば男は何かを飲み損ねたような顔をした。

 恐らくこいつがウォレット・ウィリスなのだろう。


「君が私との婚姻を拒もうとしたのはこいつの為か」


 リカルドの言葉にオリビアは目を丸くした。


「今更嫌がったところで君は既に私の妻だ。離縁などしない。だが君が伯爵夫人として自覚も持たず、男女共同の研究室で別の男と寝食を共にするのは認められない。今すぐ魔術院を辞めて貰う」


 リカルドはいらいらと告げた。間違った事は言っていない筈なのに、言いたい事はこれじゃないと冷静な自分が頭の中で首を振る。

 オリビアは一瞬瞳を瞬かせたが、次第に苦いものを口に含むような顔つきになった。


「私は不貞など働きません」


「私だって働いていない。なのに君はなんだ。まるで私を責めるような目をして、それなのに踏み込ませずに逃げてしまう。それでも捕まえようとしない私が悪いのか? なら今言ったように魔術院を辞めるんだ。君の帰る場所がエルトナ家の屋敷になるまで、君は外に出るな!」


 叫んだ途端オリビアは一瞬目を大きく見開いた後、口元を引き結んだ。涙が張る瞳からそれが溢れないように必死に耐えている。


 ふと、涙を堪える彼女の顔にリカルドは既視感を覚えた。

 リカルドが動揺を隠せずにいると、オリビアは俯きながらぽつりと呟いた。


「旦那様なんか嫌い」


 その言葉が身体に与える衝撃に驚けば、オリビアはリカルドの横を通り過ぎて部屋を出て行った。

 動揺に目を泳がせば何とも言えない顔をしたウォレットがこちらを見つめていた。


「オリビアもそうだと思ってたけど、あんたも大概ズレてるなあ」


 気安く妻の名前を口にする男を睨みつける。


「そんな目で見るな。あいつは俺の親友なんだ。心配くらいするさ。あんただってそうだろう。親友だから怒ったんじゃ無いのか? 性別は関係ないだろう」


 誰の話をし出したのか気づき、リカルドは周囲を見渡した。


「こんなところにお貴族様が張り込んでいる訳無いだろう。そもそもあの馬鹿皇子はそこまで周到な人間じゃない。出来るのだってせいぜい嫌がらせくらいだ」


 公然と皇族を批判すれば打首だって否応無い……が、平民の言葉にそこまでムキになれば逆に皇族の威信は(かげ)るだろう。


「オリビアはあんたと同じだよ。いいか、オリビアは妬いているんだ。ディアナ姫を心配しているあんたの心は、お姫様のものだと思っている」


 リカルドは瞠目した。自分が妬いていると言われた事。そして彼女もまた自分に妬いていていると言われた事に。


 リカルドはディアナとはそれ程気安い間柄では無い。

 彼女は高嶺の花で近寄りがたいところがあり、遠巻きにされている人だった。リカルドもまた人から敬遠される存在であった。彼女はそこに寂しさを感じているようだったから、他者と変わらぬ距離感で接していただけに過ぎない。

 そしてそれが周囲を誤解させていた一因であったと今なら分かる。第二皇子たちにつけいる隙とさせてしまった事も……


 尊敬しているし、幸せになって欲しい人だった。それだけなのだが────

 目の前のウォレット・ウィリスがオリビアに同じ気持ち────友愛や親愛の情を持っていると言われると面白くないのは何故か。

 矛盾に理由を見出せない。


「……オリビアが離婚しようとしているのは、それが理由か?」


 ずっと胸の奥で(わだかま)っていた懸念。自分の中にあったそれが口から溢れ落ちる。

 ウォレットは片眉を上げてみせた。


「それ以上は夫婦の問題だろう。全く、他所の家に口出ししている余裕なんて無いんだよ。こっちは」


 その言葉にリカルドははっと顔を上げた。それは有名な話だった。彼が妻の為に名家である実家と縁を切り、平民落ちした事。


「……すまない……」


「いーから、オリビアに会って来いよ。あいつなら多分塔のてっぺんで風に吹かれてるよ。馬鹿だから高いところが好きなんだ」


「……わかった」


 何となくお礼を言う気になれなくて、言葉をごまかし退室した。


 ◇ ◇ ◇


 既に日がとっぷりと暮れており、外は藍色の空に覆われている。散りばめられた星が瞬き、澄んだ空気が感じられた。

 塔の先端をぐるりと囲むような小さな空間で、景色に溶け込むように佇むひときわ濃い影に、リカルドはそっと歩み寄った。


「オリビア」


 影がぴくりと反応する。


「君の不貞など疑っていない。傷つけるような事を言ってすまなかった。私は……嫉妬したんだ。ウィリス氏に叱られた」


 驚いて振り向くオリビアの頬には涙の跡が筋になって残っていた。


「もう少し近くに行ってもいいだろうか」


 恐る恐る首肯する妻にリカルドは少し近づいた。


「そんな資格は無い事は分かっている。出会った時から私は君に八つ当たりをしてしまっていたから。本当に最低だった。この通りだ」


 深く頭を下げるリカルドに、オリビアが息を呑む声が聞こえた。


「私は……ただ、君の事が知りたいんだ。今更なのはわかっている。けれど、君が笑うところを見て私は今まで何をしていたのだろうと……自分に苛立ったんだ。それさえも君にぶつけてしまった。真摯に振る舞えば良かったのに素直になれず、君の居場所を奪っておきながら、魔術院でばかり過ごす君を許せないと思ってしまった……本当は君と過ごす時間が欲しいだけなのに……言えなくて……」


 話しているとどんどん恥ずかしくなってくる。

 けれど言わないと駄目だ。ウォレットは自分の全てを投げ打って妻を引き止めていた。


 自分は何もせず、格好つけて勝手に怒って当たり散らして……執事に子ども扱いされる筈だ。そちらの方がずっと恥ずかしい事ではなかろうか。


 顔を上げ、まっすぐに妻の顔を見据える。


「私は君とちゃんと夫婦として向き合いたい」


 闇に慣れた目に妻の涙が再び溢れるのが見える。


「私は……貴族女性なのに労働をしていて、あなたを醜聞に巻き込んでしまいます」


「私は貴族だろうと女性だろうと就労を否定しない」


「……でも……」


「私はそのように言っただろうか?」


 顔を俯けるオリビアにリカルドは慎重に口を開いた。


「君がどう思っているのか知りたい」


 オリビアはゆっくり顔を上げてリカルドと目を合わせた。


「私は、ずっと……あなたの事が好きでした」


 リカルドは、はっと息を呑んだ。


「だから……あなたに他に好きな人がいると知っていながら、卑しくも妻になれると浮かれて……」


 そう言ってまたぼろぼろと涙を溢れさせた。


「オリビア……」


 指先が震えるのが分かる。好きだと、ずっとそうだったと言う言葉に心が攫われてしまったようだ。


「以前に、愛した人はいないと言っただろう。彼女は友人で、それ以上でも以下でも無い。信じて……欲しい」


 ごくりと喉を鳴らして一歩一歩踏みしめながら近づいていく。逃げないか、怯えさせないだろうかと心臓がどくどくと跳ねた。

 頬を伝うオリビアの涙を指先でそっと拭い、今までで一番近くで見る妻の顔に胸が高鳴った。


「君と、夫婦になりたい」


 綺麗な湖水のような瞳が見開かれ、また涙が溢れた。


「何よりも君に誓うよ。素晴らしい夫になる事を」


「……っはい、はい。旦那様」


 嬉しそうに口元を綻ばせる妻を、リカルドは初めて抱きしめた。


 ◇ ◇ ◇


 翌朝、妻からの置き手紙に半月ほど出掛けてくると書かれているのを見た時は、何でだ!? と、絶叫した。


 ◇ ◇ ◇


「ゼフラーダに一人で行くなんて、何を考えているんだ」


 半月後、戻ってきた妻を座らせリカルドは懇々と説教をした。

 オリビアは首を竦めて唇を尖らせている。


「私なりのけじめです。私、ディアナ姫さまに負けないくらい綺麗になります! 旦那様の一番に頑張ってなってみせます!」


 それを聞いて面映くなったリカルドは、誤魔化すようにオリビアの横に腰を下ろした。


「お互い努力すればいい。私も君の一番になりたいのだから」


「旦那様はとっくに私の唯一なのですが……」


「ウィリス氏よりもか?」


 嬉しい筈なのについ探りを入れてしまう。自分は早くも拗らせているようだ。

 その言葉にオリビアはきょとんとした顔をした。


「ウォレットが何かしましたか?」


 ああこれか。リカルドは微妙な気持ちになる。ウォレットが指摘した、お互いを勘違いしているという、自分たちの共通点。

 それにしても……


「君はウィリス氏の事は名前で呼ぶんだな。私の事もそうして欲しい」


 その言葉にオリビアはぐっと言葉を詰まらせて視線をうろうろと彷徨わせた。


「はい……リカルド様……」


 素直な言葉が嬉しくて、思わず声を上げて笑った。


 婚約期間を含めてまだ四か月しか経っていない。焦らなくてもこれからずっと一緒だ。

 白い手をそっと取り、指を絡ませて手を繋ぐ。

 未来に向けて、この人と夫婦として歩んでいくと、胸に誓って。



 それから約四年後、オリビアは娘を産んで他界します。

 リカルドはショックで娘と向き合えず、娘もまた両親の仲を誤解してしまいます。

 娘────リヴィアは、親戚筋から両親は政略結婚で結ばれた縁で不仲だった事。政略結婚により父は愛した人と結ばれなかった為、自分たちを恨んでいると教え込まれ、拗らせて育ちます。


 そうして、出会った第二皇子が失恋をいつまでも引きずっている様を目の当たりにして、父の姿と重なり八つ当たりから始まる恋の話が「婚約破棄令嬢の失恋考察記」です。


 初めて書いた作品なので、書きたい事が多くなって長くなってしまいました(20万字越え)。あとは冒頭は特に文章もぎこちなく、読みにくい状況です。


 もし、興味を持っていただけた、時間取れそうだな〜という方は是非お立ち寄りください。お待ちしております^_^


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