第01話 千代後輩と桜の話。
「桜の話をしよう」
「嫌です」
いつものように、ぼくの提案はあっさりと拒否された。
放課後の部室棟。開け放った窓から届いてくる運動部の掛け声を除けば、実にひっそりとしたものだ。カーテンをちいさく揺らす夕方の風が、西陽に照らされたこの教室を心ばかり冷やしてくれている。
「あのさ、千代ちゃん。断るにしても、もっとこう、やんわりというか、オブラートに包んでくれると助かるんだけど」
ひとつ年下の彼女がこの高校に入学して、なぜかこの部活に入部してくれたのがひと月ほど前。部活動らしいことは今まで何もしてこなかったから、新入生歓迎会での部活紹介にも参加しなかった。だからこそ、彼女が入部届を持ってやってきたときは本当にびっくりしたんだ。今とまったく変わらない無表情でもって、「入部します」だもんなあ。
「ねえ、千代ちゃん」
ぼくは再度、後輩を呼ぶ。
ちなみに下の名前で呼んでいるのは、それが彼女の意向だからだ。苗字で呼ばれるのが嫌なんだってさ。『銀座千代』なんて格好いいと思うんだけどなあ。
ともかく、だから公平を期すためにぼくも、
「なんですか、有楽先輩」
こうして下の名前で呼ばせているんだ。まあぼくは別に日比谷先輩でも構わないんだけど、一応ね。
「今さらだけど、千代ちゃんはどうしてこの部に入ってくれたの?」
「今さらですね」
「だからそう言ったじゃん」
本来したかった話題とは違うけど、後輩がそれに乗ってくれなければ意味がない。こういうときは、イエスかノーかで答えられない質問をするのが一番だ。
だからほら、ぼくの考えが正しかったことを証明するように、渋々ながらも彼女はうーんと唸り、そして、
「嫌です」
「答えになってないよね、それ!」
まさかのノーだった。
「それを先輩に教える必要性はありませんので」
「ひどい言われようだなあ……」
「むしろ先輩にだけは言いたくありません」
「ぼく限定っ?」
「ところで桜の話って何ですか?」
「このタイミングで訊くのっ?」
ぼくの後輩はいつもながら、話の振り幅が大きい。あっちの話をしていたと思ったら、急にこっちの話になる。どんなときもマイペースというか、感情のこもらない顔でもって、話題を右へ左へとぶんぶん振り回す。
もともと整った面立ちをしているのだから、笑えばきっとものすごく可愛いのだろうとは思うんだけど、ぼくの未熟な話術では連敗記録を伸ばす一方だ。
ともあれ。
これでようやく本来の話ができる。
「二年くらい前の話なんだけどさ。めちゃくちゃ寒くて、昼過ぎから雪が降り始めてて……」
話し始めると、後輩の肩がわずかにぴくりと跳ねた。
よかった、ちゃんと聞いてくれているようだ。
「雪がひどくなる前に帰ろうってことで、その日はみんな、授業が終わったらすぐに学校を出たんだけど、ぼくはちょっと用事があって残ってたんだよ」
「その用事を前日までに終わらせたり、後日に回そうとまで考えが至っていないあたり、実に有楽先輩っぽいですね」
「やかましいわ」
後輩の的確な指摘にも負けず、ぼくは当時のことを思い出す。
あの日、ぼくが学校を出たのは、もうすっかり夜の時間になった頃だった。
降り積もった雪を慎重に踏みしめながら、一歩一歩前へと進む。
グラウンドをクリアして校門を出ると、視界の端に人影が映った。
そちらを見やると、それは女の子だった。両手で傘を差し、白いニットの帽子とマフラーで顔を覆った女の子。
「こんばんは」
ぼくは声をかけた。
別にやましい気持ちからではない。こんな時間に、こんな雪の中でたったひとり、ぽつんと立っている彼女がどうにも気になったんだ。ひょっとしたら、寒くて動けなかったり、暗くて帰り道が分からなかったりするのかもしれない――だったら助けてあげるべきだろう?
そんな薄っぺらな正義感から出た挨拶に、少女は一度びくっと肩を上げ、それから横目でこちらを見やった。
「……こんばんは」
か細い声ながらも返事をもらえて、ぼくはひとまずほっと胸を撫で下ろす。
「君、どうしたの? こんな時間に、こんなところで」
「なんでもありません」
「いや、なんでもないってことはないだろう?」
「なんでもないんです」
たとえば疲れていそうな人に「大丈夫ですか?」と訊く。
この場合、「大丈夫です」と答えるのが大丈夫じゃない人。「何が?」と答えるのが本当に大丈夫な人だ。
人は得てして本心を――特に自分の弱みを人に見せたがらないものだ。きっと彼女も。
「家出でもしてきたの?」
深入りするつもりはないけど、それっぽい理由としてはこれしか思い浮かばなかったから、とりあえず尋ねてみる。
すると彼女は感情の伴わない視線でもって、
「あなたは失礼な人ですね。私がそんなふうに見えますか?」
「見えるから訊いてるんだけど」
「ぐぬぬ……」
リアルで「ぐぬぬ」って唸る人、初めて見たわ。
そんな彼女をまじまじと眺めていると、根負けしたのか、彼女はふうっと白い息を吐き、
「……桜を見ていたんです」
「桜? さすがに冬には咲いていないよ」
「私が言っているのは桜の花びらではなく、木のほうです。そのくらい分かってくださいよ。高校生でしょう?」
「あ、はい。すみません」
なんでぼく、こんなことで怒られてるんだろう。
「でも、じゃあなんで、桜の木を?」
「それをあなたに教える必要性はありませんので」
「ひどい言われようだなあ……」
「むしろあなたにだけは言いたくありません」
「ぼく限定っ?」
それはちょっと言い過ぎじゃないか?
ぼくはがっくりと肩を落とす。
「心配して声をかけただけで、なんでここまで言われなきゃいけないんだよ……」
「心配?」
意外そうにまばたきする彼女。なんでそんな顔するんだよ。
「そりゃあするでしょ。暗いし寒いし雪降ってるし。そんな中で君はぼうっと突っ立ってるし」
心配するなってほうが無理だよ。
そんなぼくを見て、彼女がちいさく笑ったような気がした。
「ねえ、変なお兄さん」
「変なお兄さんじゃないよ! ぼくの名前は日比谷有楽だ!」
「じゃあ、日比谷有楽さん。本当になんでもないんです。なんでもないけど、なんだか、なんとかなりそうな気がしてきました。ありがとうございます」
「いや、わけが分からないよ……」
本当に何も分からないままだったけど、それでも、
「あのさ」
言わずにはいられなかった。
「次は春に見上げてみなよ。数こそ少ないけど、とっても綺麗な桜が咲くよ」
俯かず、見上げてほしい。その先に、満開の桜があってほしい。
そう思うくらいはいいだろう?
彼女は何も言わず、ぺこりとちいさくお辞儀をして、ぼくなんかより危なげなく雪道を歩いていった。
「――ということがあってさ。桜の木を見るたびに、なんとなく思い出すんだよ」
狭苦しい部室には、ぼくと後輩のふたり。
長々と話してしまったせいで、下校時刻が迫ってきている。
「あの子が何を思ってあんなところで桜の木を見上げていたんだろうとか、今年の春はちゃんと満開の桜を見上げてくれただろうかとか……、まあ名前も訊かなかったし、顔もほとんど分からなかったから、その後のことは何も分からないんだけどね」
そこまで話して後輩に視線を移すと、彼女はなぜかずっと下を向いていて。
そこでふと気づく。
「あれ? 千代ちゃん、耳赤くない?」
春だとはいえ、西陽がまっすぐに入り込むこの教室は少し暑いから、ひょっとしたら熱に当てられたのかもしれない。
下から顔を覗き込もうとするぼくに、しかし彼女は、
「気のせいです」
ふいっとそっぽを向いてしまった。
なんだ、気のせいか。よかった。
「……その子はきっと、桜を見ていますよ」
後輩がぽつりとこぼす。
「もしかすると、その子は身の周りで何かあって、落ち込んでいたのかもしれません。誰も信じられなくなっていたのかもしれません」
「いや、そこまではないんじゃないかな。だってぼくより年下みたいだったし」
「だからこそですよ。私たちくらいの年頃の子は、特に過敏なんです。心が落ちるときは、とことんまで落ちてしまうものです」
「そうかなあ」
ぼくにはそういう経験がないから、どうもピンと来ないんだけど。
「まあ有楽先輩は除外してもいいですが」
「おい、それはぼくだけ鈍感だって言いたいのか?」
「そんなこと、思っても口にはしませんよ」
「思ってるんじゃん!」
壁のほうを向いたまま、後輩は言う。
「……だからその、感謝してると思いますよ。そんな自分を心配してくれる人がいたんですから」
「うん、そうだと嬉しいな。まあ千代ちゃんに代弁されてもアレだけど」
そう言ってやると、彼女はちらりとこっちを見て、
「ぐぬぬ……」
唸る彼女の顔は真っ赤だった。やっぱり西陽のせいで暑いのかもしれない。
「じゃあ、今日はそろそろ帰ろうか。もうすぐ下校時間だし」
「……はい」
窓を閉め、教室を出て鍵を掛ける。
後輩と並んで廊下を歩く。
来年の春は、彼女とこうして並んで、空を覆う満開の桜を一緒に見られたらいいな、なんて。
どうせ断られるだろうから、今はまだ言わないけどね。