言葉を扱う人が言葉をないがしろにするのなら、いったい誰が言葉を守るっていうの?
1.ふたつの奇跡
『明智ななこ』さんのことについて書く。
ななこさんとの出会いは、2つの意味で奇跡的だった。
1つめの奇跡は、趣味嗜好がことごとく似通っていたこと。好きなアーティストを互いに10あげたところ、そのうちの8つが一致した。それから好きな小説や音楽をあげたところ、これまた一作品の例外をのぞいてぴったりと一致した。性格が似かよっていれば、好みの作家や作品が似るのは当然ではある。とはいえこのような確率で一致したことなんて一度もなかった。私はこの得体のしれない奇跡に、薄気味の悪さすら覚えた。まるで神経衰弱をどれだけめくってもそろい続けるような、そんな不気味な感覚だった。これが1つめの奇跡。
そしてもう1つの奇跡は、これほどにまで嗜好が一致するにも関わらず、お互いにまったく愛着や愛情が芽生えなかったことだ。こんな経験もまた一度としてしたことがなく、我がことながらまったく意味が分からないのであった。
ななこさんのことについて書くのは、たぶんこれが最初で最後になる。書くべきことも、書きたいことも、ごくごく限られているからだ。
この文章を書き終えたら、彼女のことは早くと忘れてしまいたいと思っている。しかしそうも出来ない理由もあり、それについても少しだけ書く。
2.補足
ななこさんが好きだと挙げた音楽に、一曲つだけ私の知らない曲があった。Jamaica Songという曲だ。どんな曲なのだろうと試しに聞いてみたが、これがものすごく良かった。陽気なのに切なく、切ないのに陽気だ。同曲はいろんなアーティストがカバーしている。自分の解釈に近いものや、まったく違うものもあり、いろいろな解釈を楽しむことができる。
私はこの曲がすっかり気に入ってしまった。会社から帰りの電車で、毎晩聞いている。今だってそうだ。
3.さっきのはなし
「ななこさん。じゃあさ、試しにちゅーしてみていい?」
「どうぞ」
場所は深夜のチェーンの喫茶店。
二階の禁煙席には、我々以外の人の姿はなかった。喫煙席には客がいたようだが、ちょうど死角になっていた。その隙をついてみた。
唇を重ねた瞬間、その思いつきが失敗であったことにすぐに気がついた。そこには唇があり、舌があり、唾液があった。そのことはよく分かった。理解した。しかし、ただ、それだけだった。
唇を離すとき、ななこさんは目元にかかる短い黒髪を、うっとうしそうに手で追い払った。ななこさんは、砂を間違って噛んてましまったかのような、そんな不快そうな表情をしていた。おそらく、私も同じような表情をしていたと思う。
「ばかみたい」
と、ななこさんが感想を口にした。
「申し訳ない」
私は正直に謝った。
「知らなかった。あなたって、私とそういうことしたかったのね」
「違うよ。ただ単に、こういうことをすれば、ななこさんと親密になれるかなと思ったんだよ」
「どうだか」
「本当だよ」
「知ってるわよ。あなたがそう思っていることは」
ななこさんはそういいながら、自分の口を紙のおしぼりでふいた。先ほど机を拭いたはずのものだった。
「不思議なんだよね。なんでななこさんと私は、親密になれないんだろう。こんなに趣味が合うのに」
「親密になって、どうするの?」
「親密になったら、いろんなお話ができるようになるじゃん」
そういうと、ななこさんはしばらくうつろな表情をうかべた。何かを考え込んでいるようにもみえたし、耐えているようにもみえた。10秒ばかり沈黙があって、それからようやくかすれた声を絞りだした。
「……いろんな話って?」
「今日食べたものとか、嬉しかったこととか、悲しかったこととか。日常の些細なことだよ」
「いやだ。そういうことはSNSで勝手につぶやいて。そんなくだらない話を、わざわざ私にしてこないでよ」
「くだらなくないよ。その人の本質なんてものは、生活の些細なことにあらわれるものだよ」
「あたしね、『本質』って言葉、嫌いなの。どうとでも都合よく作って、どうとでも都合よく受け取れるものでしょう。そんな気味の悪い見せあいっこに興味はないわ」
「ななこさんはそう思うんだね。じゃあ、何に興味があるの?」
「どうかしらね。少なくとも、正しい言葉が、正しく使われることには今とても興味があるわ」
「正しい言葉?」
「そう。さっきあなた、語尾に『じゃん』、ってつけて話したわよね。ああいうの、不快感で思考が停止するから、やめてほしいの」
予想外の方向に話が進んだので、私は内心、驚いた。
と同時に、腹の中に、小さな火種が灯るのを感じた。
「へえ、そうなんだ」
私はいったん平静を装いながら、自分の体内の火種を消そうと試みた。
「あたし、びっくりしちゃった! 仮にも『趣味で小説を書いています』なんて言っている人間が、正しい言葉を使えないなんて!」
この言葉で、私の怒りの火種が燃え上がってしまった。一度たりとも私の小説を読んだことがないくせに、私の書いた小説のことをバカにされた気になったからだ(後々冷静に言葉を思い出してみれば、ななこさんはそのようなことを一言も言ってはいなかった)。
「今の一言は、さすがにイラっとした」
「みたいね」
ななこさんは短いため息をついて、興味がなさそうに、ストローの袋をぼんやりと眺めた。
「常にそんなに正しい言葉を使わないとだめかい? それに私は、仮に正しい言葉ではなかったとしても、その言葉の方が伝えたいニュアンスをうまく伝えられると思ったら、迷わずそっちを使うよ」
「何を言っているの? 言葉を扱う人が言葉をないがしろにするのなら、いったい誰が言葉を守るっていうの?」
「あのさ。別にないがしろになんかしてないよ。言葉なんて伝えるためのものなんだから、なるべくきちんと伝わるために、最適なものをえらべばいいと思う」
これに、ななこさんも声をあらげた。
「呆れた。『言葉なんて』、だなんて!」
「ねえ、ななこさん。そうやって言葉のはじっこにいちいち噛み付き続けたとして、いったい、誰が幸せになるんだろう。少なくとも私は幸せにならない。だとすれば、ななこさんはいつか幸せになるのだろうか。この先もずっと、そんなことを続けるつもりなの?」
「ええ、そうよ」
「そうなの? 伝えることが目的、その手段が言葉でしょ?」
「いいえ。あたしは全くそうは思わない」
「どういうこと?」
「あたしは汚い言葉を聞きたくないの。そのことは、あたしにとって、何よりも優先されるの」
ななこさんは、そうキッパリと言い切った。
ただ単に話の流れでムキになって言っているだけではなく、本心からそう思っていることが、その口調からもうかがえた。
「傲慢だよ」私の声は、ため息まじりになった。
「ええ。あたしのことを好きになる人は、みんなそう言うわ。傲慢な女って、なぜか好かれてしまうみたいね」
「好きになったから、傲慢さを指摘しているだけだよ。原因と結果の因果が逆になってるじゃん」
「ねえ。だから『じゃん』とか言わないで」
「そうだね。そんな話もしたね」
「今のわざとでしょ」
「うん。私も自分を曲げるつもりはないよ。言葉遣いを変えることが嫌なんじゃない。言葉遣いを変えろと言われて変えるのが嫌だ。言葉遣いなんてものは、これまでに出会った大切な人とたくさんお話してて、その結果できているものだよ。そうやってできたものをななこさん一人の多数決で、無かったことになんてできるわけがない」
「そう。好きにするといいわ」
ななこさんはアイスティーのストローに口をつけた。
「好きにするよ。でも、そのことでななこさんが不快になるのも嫌なんだよね」
私はそう言いながら、アイスティーのシュガーポットをななこさんのカバンに入れようとした。意味のないイタズラだった。それに気がついたななこさんが、私の手を叩いて「もう」と微笑んだ。
「あ、そうそう。ななこさんが教えてくれた曲、毎日聞いてるよ」
「なんだっけ。Jamaica Song?」
「そう」
「気に入ってもらえて嬉しいわ。どこが気に入ったの?」
「んー。音楽を聞いたときに浮かぶ情景がとてもきれい」
「どんな情景がうかぶの?」
「そうだね……黄金色に輝く夕暮れの空。一日の終わり。一週間の終わり。夏の終わり。いのちの終わり」
「ふむふむ」
「手のひらに隠す、淡くて小さな光。その光のあたたかさ……みたいな。ちょっとキザかな」
「ううん、分かるよ。とても分かる」
「よかった。ななこさんと私は、同じ情景を共有していた」
「うん」
「いい音楽を教えてくれてありがとう。しばらくの間、毎日聞き続けると思う」
「よかった」
「ありがとう」
「こちらこそ、聞いてくれてありがとう」
4.いま
その帰り道の長い電車の中で、いま、この文章を書いている。時間はすでに、深夜の0時を回っている。
彼女のことは、自分の心の中に何一つ痕跡を残すつもりはなかった。しかしiPodがJamaica Songを鳴らした瞬間、口の中で砂を噛んだようなあの感触がよみがえったのだ。その砂を具現化してみたのがこの駄文だ。
文章をほぼ書き上げると、開いた電車の窓から少しだけ冷たい風が吹き込んでくる。窓の外に目を向けると、黄金色の夕暮れ空が広がっている。夏もそろそろ終わるらしい。少しだけ寒さを覚えた私は、手のひらをそっとポケットの中に隠す。
ー終ー